Masquerade
- ナノ -

忘却を許さない過去

レイが自分の家に居る――これは何時ものことだ。けれど、彼女が自分と共に同じ家で過ごすというのは、特別なことだった。
昨日の件で、警察の捜査の確認に向かったユリウスが帰って来て、共に夕食を食べて「それではまた明日」とはならなかった。
先にシャワーを使ってもらい、出て来た彼女はしっとりと髪を濡らして、パジャマに袖を通していた。
そんな姿を見るのは初めてで「シャワー、お先にありがとうございました」と礼を述べるレイに「気にせず何時でも使ってくれ」なんて返したけれど、彼女の生活の一部に自分が居ることに自分の表情が緩んでいるような気がして、ユリウスは自らの浅ましさに肩を竦める。
「女性の髪を乾かすのは大変そうだな」
「そうですね、タオルで水気を取ってから時間が掛かります。こういう時ばっかりはユリウスさんとか、男性の方がちょっとだけ、羨ましいです。髪を短くすればいい話だとは分かってるんですが」
「羨ましい、か。確かにすぐ乾くが、レイの長い髪は綺麗だと思うから短くするのは勿体ない気もするな」
「!も、もう、ユリウスさんは……」
なんて口説き文句だろうかとレイは頬を僅かに染めて、誤魔化すように首にかけているタオルで頬にかかる髪を拭く。
髪の長い男性も居るが――ユリウスは知り合いに居るその人物をすぐに頭から消す。レイの髪は純粋に綺麗だと思うが、それは彼女だからこそ抱いた感想だ。
「ちょっとした引っ越し作業で疲れてしまったので、お先に失礼しますね」
「あぁ。おやすみ、レイ」
「おやすみなさい、ユリウスさん」
階段を上っていくレイの後姿を見送りながら、ユリウスはソファに腰掛けて天井を仰ぎ、溜息を吐いた。
――彼女と、おやすみと言い合えたのは、それなりの付き合いになってから初めての琴だろう。
おやすみ、おはよう。これを自然と言える環境にあるのは、あまりに恵まれている。それが例え、とある事件に巻き込まれる形になってしまったことで起きた事態だとはいえ。
彼女は自分に距離を保っているし、その在り方が弟を最優先にするユリウスにとって都合が良かったことは確かだけれど、曖昧な友人関係を続けていくことにそろそろ限界が来るだろうということは自覚していた。

「普通の彼女を、俺に付き合わせた所で幸せになんて、出来ないのにな」

それこそが、たった一つの彼女への感情という真実を、靄の中に包んで不鮮明にしている原因の思考だったのだ。


数日後、ユリウスは事前に連絡を取っていた相手に会いに、事務所を出て中心街のビルディングを訪れていた。
あまりに馴染みのある、慣れた場所ではあるが、ユリウスは出来ることならこの場所に訪れることを避けたかった。
そしてロビーへと向かい、受付の女性に名前を告げると、アポイントを取った男から聞いていたのか「ユリウス様ですね。三階の応接間へどうぞ」と案内をされる。
移動中にちらちらと視線が突き刺さるのは仕方がないというものだろう。
何せ、この会社で自分は若いながら室長を務めるまでに至った人間だ。それが突然辞めた挙句、時々紙面に名前が出るような活躍を見せる探偵になったのだから。
辞めたこと自体は数年前になるが、自分を知っている人間が数多く残っていてもおかしくはない。
ユリウスが案内された応接間に向かうと、わざとらしく扉の外に待っていたのは今回アポイントメントを取っていた元同僚だった。
別に、彼にもう一度会いたかったからこうして尋ねに来た訳ではない。寧ろ真逆だ。顔を見られないようになるなら万々歳。清々すると思っている程の仲だ。
「おやおや、これはうちを辞めて探偵として大活躍中のユリウスじゃないか」
「……リドウ」
嫌な笑みを浮かべて挑発してくるリドウに、思わず足が出てしまいそうになるが、一応依頼をしたのは自分だと言い聞かせて感情を抑える。
ユリウスの心底気分が悪そうな顔に満足したのか、リドウは応接間へと入って行く。

「はは、まったく傑作だ。お前のような人間が探偵だなんて、正義を示しているつもりか?」
「そんな話をしに来たんじゃない。依頼した物は用意したか」
「せっかちなもんだ。だが、仕事は迅速に。それに関しては気に食わないが同じだ。オーケー、これがお前の言ってた資料だ」
険しい顔でリドウを睨むユリウスに対してリドウはおどけながら、テーブルに置いてあった分厚い資料をとんとんと指さす。
今回ユリウスが本来、二度と会いたくもない男にわざわざ会いに来たのはユリウスが今担当している事件を解決に導く為だ。
だが、医学的知識に関しては自分以上に彼の方が豊富であることは悔しいけれど認めている。しかも、合法的な医学知識だけではなく、違法的だったり、闇医者にも近い裏の事情に通じているともなれば確かにリドウは優秀だ。
「これがクロロホルムの臨床実験、開発実験に関わっている病院、報告はされてないが生成できる材料を仕入れているらしい病院や関係者、研究者のリスト、それからその中で近年その職を辞めた人間のリストだ」
リストを用意しただけで情報自体は精査していないと語ったリドウだったが、ユリウスにとってはそれで十分だった。
このリストは正攻法で調べることが出来る表の人間ではない人間も含まれているというものだろう。
寧ろ、自分が読み込んでいくことで真実へと導くピースを浮かび上がらせられるというものだ。
「世の中ギブ&テイクだ。ユリウスなら分かるよなぁ?」
「ちっ、だからお前に協力を仰ぐのは胸糞悪いんだ」
珍しくも舌打ちをしながら、ユリウスはリドウに対して小切手を渡す。その額に目を通し、十分だと言える額に「流石は元室長、用意する額も解ってるもんだ」とくつくつと笑い、小切手をポケットにしまい込む。
用は済んだと資料を鞄に入れて立ち去ろうとするユリウスの背に、リドウはそういえば、と投げかける。
「そんな口が悪い所を助手の子に見せたらなんて思われるんだろうな」
突然、投げかけられたレイの話に、ユリウスはぴたりと足を止める。
ユリウスの眼鏡の奥の瞳は、鋭く細められ、リドウを刺すような殺気も織り交ぜながら睨みつける。そんな表情を見ながら、リドウはこの男の本質は何も変わっちゃいないと確信する。
冷酷で、非道も、罪悪感も特になく許容するような男。幾ら世の中の悪を炙り出す探偵業を始めたって、この男は何処までも自分達と変わらない。同じ穴の狢だ。
「相変わらず、お前はあの女を利用してるんだろうな」
「……リドウ、お前には関係ない話だ」
これ以上詮索するならば応えてやると言わんばかりの声音に、リドウはおどけるように怖い怖いと肩を竦める。
リドウは探偵業を始めたユリウスの助手であり、そしてそれ以前から、この会社に所属していた頃からユリウスとルドガーの家の家事を手伝いに仕事として訪れていたレイを知っていた。
彼女は、本当に普通だ。この男と並んでいるのが不思議と思わずにはいられない程に普通の人間だった。何時もならばそれで興味関心から外して、記憶にも残らない人間だというのに。
だが、レイがこの男を受け入れている感情は一時の熱ではなく、確かな愛情というものであることを認めていたし、彼女という人間を評価しているのだ。
ユリウスへのその情は、リドウにとっては所謂反吐が出るものではあったが、普通な筈の彼女が受け入れる唯一のその異常さも含めて認めていた。
だが、ユリウス。お前はどう取り繕っても。
この世界から離れて探偵なんて始めたって、お前は何も変わりはしない。

「お前が彼女に触れようとした時、自分の手が汚れ切ってることを改めて実感した時の顔を見られないのは残念ってもんだ」

だが、その時は確実に来る。
別にユリウスが不幸になることを積極的に望んでいるという訳ではないが、この男が普通にはなれないということを実感する時を見たいのだった。


一方、ユリウスがリドウの元を訪れている間、レイは買い出しに出ていた。だが、こんな危険な状況である以上、一人ではなかった。
彼女の隣を歩いているのは、今日は夕方からの仕事のルドガーだった。彼を付き合わせるのは申し訳なかったけれど、有難かった。買い物はどうしようかと思い悩んでいたレイの元に、ルドガーが事務所を訪ねに来たのだ。
「兄さんに、レイさんが買い物に行く時、一緒に行ってあげて欲しいって言われたんだ」
「ごめんね、ルドガー。折角ディナーの前の時間はお休みなのに」
「いいや、構わないさ。最近物騒な事件が続いているからな。兄さんも忙しそうだし、俺でよければいつでも付き合うよ、レイさん」
どうやらユリウスがルドガーに連絡を入れてくれたようだが、会話の端々から感じるのは、自分が彼の家に居候することになっていることを知らないのではないか、ということだった。
一体どうして言っていないのかは、分からない。
もしかして連日新聞を騒がせているような事件に巻き込まれ、顔も特定されてしまっているなんてことを言ってルドガーに余計な心配をかけさせたくなかったからだろうか。
「……ルドガー、私、最近本当にユリウスさんに助けられてばかりなの。お礼を、したいけど。私には、大したことは出来なくて」
「レイさん……」
「あはは……変なこと言っちゃったね。本当に、何も出来ないんだなぁって、痛感しちゃって、つい」
「……兄さんは、レイさんが思ってるよりも、レイさんに貰ってると思う。レイさんは大したことがないって言うけど、ほぼ毎日作ってくれる食事は、兄さんにとっては凄く大きなものだと思う」
彼女は自己評価があまりに低すぎる。
自分は何も出来ないと、誰かの大切な人になる人間ではないと遠慮している所がある。優しさや慎ましい謙虚さは美徳であるけれど、欠点にもなる。
もっと自分を大切にしてあげてもいいのではないか、自分が誰かにとって欠かせない存在になっていて、誰かを幸せにすることが出来ているのだと認めてもいいのではないかと、姉ではないが、お姉さんとして慕っているルドガーも思わずにはいられないのだ。
ユリウスが美味しいと言って喜んでくれる嬉しさを、自分も知っている。
彼に喜んでもらいたいと思って作る、愛情のこもった料理に、きっとユリウスは気付いている。そして、それが彼にとってはありふれた温かい日常を感じられるものだからこそ、大切なものになっていることを、知っている。
「レイさん、手紙でレシピを送るから、良かったら今度それを作ってあげて欲しい」
「え、そ、それはルドガーがユリウスさんに作ってあげた方が……」
「いや、レイさんに、作って欲しいんだ。もしも悪いと思うなら、その料理を今度は兄さんと、それと俺にも改めてご馳走して欲しいな」
「ルドガー……ありがとう」
「いいや、それこそ礼をされるようなことじゃないよ。さあ、新鮮な野菜でも買いに行こうか」

ルドガーの優しさに、レイは胸が温まる感覚を覚えながら、マーケットの中へと入って行く。
――貴方に何のお礼が出来るか分からない。でも、ルドガーが送ってくれたレシピでユリウスが喜んでくれるのなら、ちょっとした日頃の感謝にはなるかもしれない。
穏やかな顔で「やっぱりレイが作るものは美味しいな」と微笑むユリウスの表情を想像して、嬉しく思うのだ。
そしてまた、やっぱり、霧の中でも確かに灯る明かりは、儚く見えても美しいと思えたのだった。

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