Masquerade
- ナノ -

口実で絡めとる灯り

ユリウスは先日自分達が丁度目撃してしまった事件も含めて詳細を調べていた。これまでの同一犯らしき犯人は、霧の日の人通りが極端に少ない真夜中に犯行を繰り返していたが、今回は捜査をかく乱するかのように、霧の日の昼間を狙って来た。
そして、犯行現場自体は被害者以外の人通りは無かったようだが、路地を出た先の道には人通りがあった筈だというのに、有力な目撃情報は未だに入って来ていない。

「……珍しくかなり頭が切れる犯人のようだな」

警察が自分を頼って来るのも大いに分かる。
偶然にも自分自身で犯行直後の現場検証を行うことが出来たから、大体の手口は理解できた。
犯行同時刻に気付くことが出来なかったのは、被害者に対してクロロホルムという薬剤を使用して、あまり暴れる隙を与えることもなく意識を飛ばさせてから犯行に及んだ為に、悲鳴などは一切聞こえなかったからだろう。
警察がこの物体について知っている訳もない。
何せこの薬剤は、ここ最近で発見されたもので、この数年で医師によって臨床応用の実験が行われている薬剤だ。
血の匂いに混じった甘い香りに気付けたのは、不幸中の幸いということだろう。何せ、あの薬剤の香りが残っていたのは犯行直後だったからこそだ。
「あれはたった一瞬では気絶はしない筈だ。そうなると……被害者がしていた、布製のマスクか」
被害者のマスクに染み込ませていたのだろう。
マスクをするほどの状態を考えると、鼻が詰まっていて香りに気付かなかった可能性、そして初期症状である咳や吐き気、頭痛は風邪のせいだと勘違いしてそのままマスクを付け続けてしまった可能性がある。
気絶する直前の朦朧とした状態の被害者がこんな人通りの少ない通りを通って帰宅することを、犯人は観察済みで狙っていたのだ。
そうなると、無差別に狙っている犯行なのではなく、ターゲットまでもが計画的な犯行だと考えられる。
そういったプロファイルが進んだだけでもかなり前進というものだろう。
ソファに腰掛けながら朝から頭を回転させて状況証拠を組み立て、仮説を立てていくユリウスの耳に届いたのは「ナァ」というルルの鳴き声だった。
はっと顔を上げると、その直後に玄関の扉が開いて、レイが姿を現す。
「おはようございます、ユリウスさん」
「あぁ、おはよう、レイ」
彼女は何時もの様に笑顔で挨拶をして部屋に入って来るけれど、何となく彼女が気落ちしているように感じて、ユリウスは拳をぐっと握りしめる。
当たり前というものだろう。惨憺たる現場を間近で一瞬でも目撃してしまって平静でいられる人間は普通の感性ではない。
そう、自分の様に。

「あ、朝ご飯今作りますね。少し待っていてください」

レイは昨日のことを追及をされる前に、大丈夫だからと誤魔化すように、キッチンへとそそくさと入って行ってしまった。
――何せ、ユリウスでも未だにこの事件の謎をどう解いたものかと悩んでいるらしい事件で一切力になれないどころか、彼に気を遣わせてしまうなんて、ユリウスが仕事にあたるにあたって余計な心配をさせたくなかったからだ。
レイは大きく息を吐いて、彼の好物であるトマトを使ったスープを作ろうとしたのだが。包丁を手に取ってトマトを切ろうとした時、自分の手が僅かに震えていることに気付いてしまった。

「……だめだなぁ、私……」

彼の好物で、昨日の光景を連想してしまうなんて。
全く違うものだと分かっているのに、一瞬だけ見えてしまったあの様子と、まだ近くに犯人が居た可能性があった状況であった事実に、恐ろしさが込み上げてくるのだ。
自分の目に手を当てて、深呼吸をする。自分の手ではそんなに気持ちが落ち着かないのに、何故かユリウスの手で覆われた時、堪らなく安堵して、脱力するような感覚に陥った。
――何時もの様に料理が出来上がるのを待っていたユリウスだったが、キッチンから香って来る匂いがいつもと違うことに気が付いて首を傾げる。
毎回同じという訳ではないが、朝にスープを用意してくれることが多い。時にはトマトスープ、時にはミネストローネスープといったものだ。だが、それらでもないような香りがする。
そんなユリウスの疑問はすぐ解決することになった。「お待たせしました」と言ってキッチンから出て来た彼女がプレートに乗せて来たのはパンと、珍しくもコンソメスープだったのだ。
「偶には、違う味のものもいいかと思いまして」
「……なぁ、レイ。君が俺たちに何処か遠慮がちなのは知っているが、そんな所まで遠慮して我慢しなくていい」
「!……ユリウスさんには、全部、お見通しなんですね」
「全部という訳ではないさ。だが、探偵という職柄、色々とあれこれ推理してしまう所はある」
レイが差し出したコンソメスープの違和感に、様々なパズルピースを組み合わせて気付いてしまう辺り、嫌な男というものだろうとユリウスは自嘲した。
ふっと表情を崩して力なく笑うレイに、ユリウスはやはり、その手を伸ばすことは出来ず、拳を作るだけだった。
それはまるで自分が彼女に触れてはいけないのだと戒めるように。
「レイ、この件はやはり、君は関わらない方がいい」
「……そう、ですよね。分かっています。今の私がユリウスさんに付いて行っても……何も出来ないと」
悔しいけれど、無力であることは自覚しているのだ。
彼と違って、現場を見て推測をすることも出来ない。人に聞き込みをした所で、聞き込みに慣れている警察以上の成果が出せるとは思えない。
一般人である自分は、彼が付いてくるなという場所に、こんな状況になってまで強引に付いて行くような信念はなかった。それは怖いというよりも、ユリウスを邪魔したくないという自己意識が強く顕れていると言った方がいいだろう。

事務所で待っていますと告げるレイに、ユリウスは安堵を覚えながらも、彼女を突き放すように置いて行っていいのだろうかと胸に引っ掛かったものが燻る。
彼女が作ってくれたコンソメスープを飲み、ごくんと喉を鳴らす。何時もとは違う、コンソメとコショウの味が効いたスープはパンによく合う味で、非常に美味しかった。
美味しい筈、なのに。妙にすっきりとしないのだ。
朝食を食べ終わり、コーヒーを飲み始めたユリウスに、レイは思い出したように今朝ポストに入っていた郵便をテーブルに乗せた。
「あの……そういえば、新聞以外にもユリウスさん宛にお手紙が届いてたんです」
「手紙?依頼だったら今は受けられないが……」
「そう思ったんですけど、差出人の名前が書いてなかったので気になって」
「差出人の名前がない?見せてくれないか」
「はい。まだ、中は開けていないんですが」
妙な違和感に訝しみつつ、ユリウスはレイから渡されたその手紙を確認する。
依頼書には名前が記載されていることが多いのに、直接ポストに投函しに来たのだろうか。封を開けて中の手紙を見たと同時に、ユリウスは目を開く。
そこに記述されていたのは『霧の日にまた貴方に会えましたら。何時止められるか、その時を楽しみにしています』という内容だったからだ。
それは所謂、挑戦状というものだ。
非常に不味い状況に、ユリウスは手紙を握りしめながら、頭を押さえる。別に自分の家が特定されていることが不味い訳でもない。自分がこの事件を調べていることを気付かれていることが不味い訳でもない。
犯人は、"あの時"現場に居て、自分たちの姿を確認していたということだ。
「ユリウスさん?」
「……これは、今俺たちが調べている事件の犯人からの手紙だ」
「っ、そ、それって……」
「手紙が来た以上、犯人はあの現場に居て、俺たちを見ていた。俺の自宅を特定されていること自体は何の問題もない。何せ依頼をしたい一般人にも知られている程だ。だが……あの現場に居たのなら、君も俺の知人だと向こうに気付かれているだろう」
「あ……」
つまり、協力者であるレイの身に危険が迫る可能性があるということだ。
それはユリウスにとって、看過できない事態だった。家が特定されてしまっている以上、わざわざ手紙を送って来て煽っていることを考えると、彼女がこの事務所に来ようとするその行き帰りを狙われる可能性が無いとも言えないのだ。
あの犯行をした犯人に、狙われるなんてことになったら。レイの顔からは血の気が引いていく。
「……そうしたら、私は暫くここには……」
「いや、そうではなくてだな」
この場所には来ない方がいいのではないかと視線を落とすレイに、ユリウスは出来るだけ優しい声音で、声をかける。
こうなってしまった以上、彼女の安全を確実に確保する為にはこの方法が最も適切だと考えるからこそだ。

「この家に住まないか」

ユリウスの突然の提案に、レイはぴたりと動きを止める。
この家に、自分が住む?ユリウスが住むこの家に、自分も一緒に?
このアパルトメントは、一階部分は事務所になっているが、二階は彼の居住スペースになっている。広さには困らないが、そういう問題ではないのだ。
常に、ユリウスのプライベートな部分には自分は踏み込んでしまわないようにと、遠慮をしている部分があった。
だってそれは、ルドガーとユリウスだけのものなのだから。ユリウスが保っている一線を壊すことはしたくなかったし、自分もまた踏み出すことはしなかったのに。

「いい、んですか」
「勿論だ。寧ろ、そうしてもらわないと流石に不安だ」

ユリウスの真剣な言葉に、レイは考え抜いた末、こくんと首を縦に振って「お願い、します」と答えた。
――この状況に、運がいいと思ってしまっている自分も居るのだから、やはりあまりに狡く、そして不謹慎なものだとユリウスは自らの浅ましさに肩を竦める。
だが、そこには一片の後悔も、躊躇いも無かったのだ。

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