Masquerade
- ナノ -

橙かくれんぼ

その日の夜は、実に幸せな夕食だった。

セントラル駅という人が数多く行き交う駅に入っている、人気の食堂でディナーを提供するシェフにまでなっているルドガーが、兄であるユリウスにとっても、そして彼が成人する前から度々手伝いに行って接してきたレイにとっても誇らしかったのだ。
それに何より、純粋に彼の料理は頬が落ちると例えても過言ではない程に美味しかった。
ユリウスとレイは料理をメニューから注文するのではなく「ルドガーのオススメで」と頼み、ルドガーもまた嬉しそうに笑って「二人が好きそうなものを作るよ」と言ってくれたのだ。
二人はルドガーの成長を彼自身以上に喜んでいたが、それはユリウスとレイに限った話でもなかった。
ルドガーにとっても、ユリウスが探偵として有名になり、彼が関わった案件が解決したことで翌日に新聞に取り上げられていたりすると嬉しかったのだ。

「兄さんが担当した事件について書かれてる記事があると、つい切り取りをするんだよな」と零したルドガーに、ユリウスは破顔して照れながらもありがとうと返した。

こんなユリウスの表情を知っているのは間違いなく、ルドガーだけであったし、レイはそんな表情を見られること自体、あまりに特別なことだと感じていた。
数年前まではもっと「私がそんな姿を偶然とはいえ見てしまっていいものだろうか」と引け目に感じていたけれど、今では卑屈に捉えようとするのではなく、前向きに彼らが自分に向けてくれている親愛を大切にしていた。

「感謝しなくちゃ、いけないなぁ」

探偵事務所に入る前から、クルスニク家の手伝いを紹介してくれた里親であるレーグに。
そして、温かな家族の団らんのお裾分けしてくれたユリウスと、ルドガーと、それからルルに。


「流石はユリウス。密室殺人事件なんて我々にはお手上げだったが、まさかこうも解決に導くとは……あまり頼り過ぎるのは警察としてよくないとは思っているのだが」
「巧妙な手口でアリバイを作ろうとする犯人も時々居ますから、そういう時は探偵も力を貸します。普段お世話になっている分もありますし」
「はは、ありがとう。また我々では真相を究明出来なさそうな案件があれば、君の元を訪れるよ」

――ユリウスの事務所に来ていたのは、二人の捜査官だった。
それは、つい先日、密室殺人の事件の解明を依頼してきた警察だ。
ユリウスは調査の為の手段は泥臭くも見えるかもしれないが、実に鮮やかに、解決し、犯人を捕らえることに繋がった。
この時代、科学による捜査は殆ど行われていないと言ってもいいだろう。
聞き込みや自白が主な捜査方法であり、犯人が捕まらないという案件も少なくはなかった。
だが、その科学捜査を主として行っているのがユリウスだった。

土や、髪、時に部屋のホコリのサンプルを取り、そして犯人の指にある指紋の形を見て、推理を重ねる。
誰も行わないアプローチで、それらから得られた情報を真相へと繋げるだけの知識と推理力が、ユリウスにはあったのだ。
医学の知識も多少はあるのだが――自分よりも確実に医療に関する知識があるという確信を持てる専門家にはなるべく尋ねたくない理由があった。

旧知の仲であるリドウ――彼はユリウスが前に居た会社での同僚であり、腐れ縁であるが、ユリウスが唯一心の底から悪態をつく相手と言っても過言ではないだろう。
喧嘩するほど仲がいい、だとか、嫌よ嫌よも好きの内という言葉があるが、ユリウスにとってのリドウはこれには当てはまらなかった。

「ユリウスさん、今日はちょっと特別なお菓子を用意してみました」
「特別なお菓子?もしかして、二番街で有名なフィナンシェとかかな」
「いえ、そういう上等なものではないんですが……トマトシュークリームを作ってみたんです」
「!前に一度作ってくれた物か。あれは本当に美味しかった。また食べられるとは」

背もたれにもたれかかっていたソファから身を乗り出して、眼鏡の奥の瞳を輝かせているユリウスに、レイは思わずくすくすと笑った。
彼が無類のトマト好きであるが、トマトを使ったお菓子なんてそうそう聞かない。だが、彼が以前にぽつりと「トマト料理にもお菓子があれば」という言葉に、レイは挑戦したのだ。
漸く砂糖が一般的に普及するようになってきた時代もあって、レシピも多い訳ではない。だから既にあるお菓子をアレンジしつつ、レイはこの事務所に来た頃、トマトシュークリームに挑戦したのだ。

「以前のは、個人的にトマトの青臭さが残っちゃったかなぁと思ってたので、密かに改良していたんですよ」
「前に食べたのも十分に美味しかったが……改良したというなら、それはもう美味しいこと間違いないだろう」

ややハードルが上がっている気がしなくもないが、レイにとっては少々青臭さが残っていると感じてしまった以前のトマトシュークリームも美味しいと言って食べてくれていたユリウスなら、今回の改良版のものも気に入ってくれる筈だろう。
本当ならペースト状にした方がいいのかもしれないが、果肉が好きなユリウスのことも考えて、ペーストしたトマトを先ずカスタードクリームと混ぜて、一センチ角に切ったトマトを砂糖で煮てあるのだ。
テーブルに並べられた紅茶とトマトシュークリームに手を付けたユリウスは、一口それを頬張り、表情を緩めた。

「あぁ、美味しい。以前も美味しかったのに、さらに美味しくなるなんて」
「ふふ、喜んでもらえてよかったです。実はこれ、角切りしたものを入れる案はルドガーから貰って」
「そうだったのか。ルドガーも流石だし、それをこうも昇華するレイも流石だな」

ユリウスは褒め過ぎだとレイは肩を竦めたが、こうも感想を純粋に伝えてくれるのは正直に嬉しくあった。
何時も捜査で頭を使っているから、依頼の為に外に出なくてもいい日くらいは糖分を補給して休んでほしいという思いがあったのだ。

「今度の事務所が休みの日に、ルドガーも休みなんだが、レイはどうだ?何か別に用事があるならいいんだが」
「……あ、えっと、その日は出掛ける用事があって。兄弟水入らずで楽しんでください」
「そうか……またの機会にでも」

ユリウスの提案をやんわり断ったのは、本当は用事の為ではなかった。
仕事として来ているこの事務所ではあるが、それ以前にユリウスも、そしてルドガーも大切な友人のような存在だ。
休みの日にも彼らと会うことに対しては一切抵抗もないし、寧ろ誘ってくれることが嬉しくはあるのだが。
レイは、未だに何処かで二人の世界に入ることを遠慮していた。自分というよそ者が入ってはいけないと自らに言い聞かせていた。

ごめんなさい。
折角気遣って提案してくれた筈なのに。
楽しい一日を私にもお裾分けしようとしてくれていたのに。

心の中でユリウスに対して謝るレイに、ユリウスは気付いていた。彼女が、嘘を織り交ぜながら、断る為に自分にそう伝えたのだと。

――彼女は、何となく未だに、自分たちの領域に踏み込まないように遠慮している。
自分自身、これまで他者に踏み込まないようにしていた人間だ。
それでいいと何処かで思っている所もあったし、どれだけ大切なものが増えようともルドガーに変えられるものはないという大前提がある時点で、増やす意義を見出していなかったという所もある。

きっと、彼女はそんな俺の在り方を知っている。
それが居心地良くもあったし、甘えてしまっている所があるのは確かだけれど、俺はどうしたいのか。
彼女に自分の家でもあるこの事務所の世話を頼んで、助手にして。
友達から始めた関係は、何時しかお互いの遠慮と線引きが複雑に絡まって歪なものへと変わってしまっているのではないか。
彼女が帰った後のがらんとした事務所のソファに座っていたユリウスは、昼に彼女が見せた自分達への距離感に、溜息を吐く。

「まったく……難解だ」
「ナァ」
「探偵も分からないことは沢山あるものだ、なぁルル」

足元で同調するように鳴いたルルを抱き上げ、ユリウスはその首元を指で撫でた。
――どう、したいか。
本当はその答えを知っている筈なのに、探偵らしくもなく、その答えを靄で包んで隠してしまっているのは自分なのだ。
だが、どれだけ表面を取り繕ったって、己の過去も含めて人に自分が内に秘めている灰色まで、受け入れてもらうことはしてはいけないと警鐘を自ら鳴らす。

窓の外は夜空が見えるはずなのだが、霧も出ているこんな日は月と星さえも見えない。部屋を照らす橙色のランプの灯りは、何処か物寂しかった。

- 2 -

prev | next