Masquerade
- ナノ -

ジョーカーをやめた灰色

その男は悪を知っていた。邪道を知っていた。
そしてそれを糾弾できるような人種でもなかった。正義を掲げてその道に傾いてしまった人間を裁くことも出来ない。

だが、愛する弟に胸を張れる兄で居られる為に、近頃物騒になってきたこの街で、自分の能力を活かしてに何が出来るのか。
考えた時に、ある一つの道に行き着いた。
正義をもって解決するのでもなく、自ら裁くのでもなく、ただ真実だけを解明する道へと。

何故なら、その男にはそれしか出来なかったからだ。
どれだけいい人間であろうとしても、人間性は変わらない。
過去は変わらない。
男――ユリウス・ウィル・クルスニクは淹れてもらった熱めのコーヒーを飲んで、今朝の新聞をソファにゆったりと腰掛けて読みふける。

ちらりと事務所を見て、やや小太りな猫の世話をしながら微笑んでいる人の存在が今や当たり前のようになっている事実がくすぐったくも、胸に吹き抜ける春風のようで。
一人でがらんとしていた頃の事務所が嘘のようだった。

「……今日入って来た依頼もまた難題なことだ」

ユリウスは電報に入って来た依頼を受けて、次から次へと不可解な事件が起きるものだと肩を竦めた。

四番街のアパルトメント、その事務所のポストには依頼の手紙や、電報が数多く届く。
彼にこんなにも手紙や来訪者が多いのも当然というものだろう。
彼はこの街において、実に有名な探偵だ。
警察が手をあげるような事件も解決へと導く探偵――警察も彼に協力要請をすることもあるほどだ。
さてどうしたものかと考えていると、キッチンの方から「ユリウスさん」と、自分を呼ぶ声が耳に届く。

「朝食、出来ましたよ」
「あぁ、ありがとう。家事を全て任せてしまって、何時もすまない」

ユリウスが居る書斎、そしてリビングに顔を出したのは、朝からこの事務所に訪れていた女性だった。
エプロンを身に付け、家主の為に料理を朝から作る彼女は、知らない人が見たら彼の恋人だろうかと勘違いするだろう。
だが、彼女はユリウスから依頼を受けてこの事務所に来始めたし、今では彼のスケジュールを管理する"助手"のような位置づけだった。

「いえ、ユリウスさんが家事が苦手だってことは分かっていますし、元々私はその為にこの探偵所に来たんですし」
「恥ずかしながらそうだったな……ルドガーが就職してから俺も本格的に事務所を構えたが、荒れて行くばかりでな」
「あはは……確かに私が来た時、シャツとか洗い物とか凄いことになってましたよね」
「レイが来てくれて助かっているよ」

ユリウス・ウィル・クルスニクという男は、実に有能な男だ。
二十八の歳で個人探偵事務所を設立し、更にはこの街では有名になっている程に頭が切れる。
この探偵を始める前も、とある会社で若くして室長にまで上り詰めていた程で、優秀かつ生真面目なその性格から隙の無い完璧な男だと思われていて当然だろう。
しかし、驚くほどに彼は生活力が皆無である。

弟であるルドガーが家を出てから、ユリウスの生活する場所でもあるこの事務所は、お世辞でも綺麗と言えない有様になっていた。
女性――レイは、ユリウスの知り合いであり、多くの人を仕事に派遣させる立場にあるレーグ・ジェイ・#name1#の紹介によって、仕事が忙しく、長期的に家を空けてしまうこともあったユリウスが事務所を設立する前から度々クルスニク家のお手伝いを請け負っていた。

そしてその縁もあって、この事務所が設立されてから数か月後、ルドガーの「兄さんはちゃんと生活出来ているだろうか」というSOSも受けて手伝いに来ていたのだ。
レイがテーブルに並べたのは、トマトスープにトマトを使ったサラダと、温めたパン。そして飼い猫であるルルには、ミルクが出されている。
彼は「いただきます」と丁寧に挨拶をして、トマトスープを飲み、頬を緩める。

「やっぱり美味しいな」
「ふふ、そういって貰えると作り甲斐があります。ありがとうございます」

キッチンには籠に入ったトマトが沢山盛られているように、トマトはユリウスの好物だった。
レイもそれを知っているから、ユリウスに喜んでもらえるようにと、レシピ本を買ったり、ルドガーに聞いたりとトマト料理のレパートリーを増やしていた。
ご飯を作ることは好きだけれど、誰かに食べてもらった上で喜んでもらうのは胸が暖かくなる。

食事を取り終わると、レイが食器を片付けている間に、ユリウスは外出をする為の荷物を準備していた。
ハットを被り、トレンチコートを羽織る。そして必ず身に付けるのが、銀色の懐中時計だ。
探偵ユリウスといえば、この銀色の懐中時計で時間を確認しながら予定を立てたり、時間を指定することが印象的だろう。

「すみません、お待たせしましたユリウスさん。他の手紙は取り合えずは保管しておきますね。帰って来てから整理します」
「ありがとう。優秀な助手が居るんだから、俺も頑張らないとな」
「い、いえ、私はスケジュール管理だとか、ユリウスさんが言ったことをメモしたり、調べる際に問い合わせをするくらいしか出来ませんから」

優秀な助手、と彼に言われるのはあまりに歯痒くあった。
何せ、別に助手らしいことは出来ていないし、ユリウスが何故事件の謎を解けるのだろうかと感心してしまう程なのだ。
自分にはそんなことは出来ないし、正直力になれているようなことを出来ているかと自問自答すれば、ユリウスが一人でも出来るようなことを少しだけ手伝っているに過ぎない。
料理や家事だけは、その分胸を張れるけれど。

「さて、レイ。警察からの協力要請で新たな依頼が入った。調査に行こうか」
「はい!」

四番街のアパルトメントを出た二人は警察の要請があった事件現場に向かっていた。
この時代、蒸気馬車とも呼ばれる自動車や馬車、そして鉄道が開通し始めたこともあって、移動が便利になったものだ。
この街は時々霧に包まれる。
そんな視野の悪い街を照らすのはガス灯だ。
少し郊外に出れば石造りの建物も多いが、赤いレンガ造りの街並みは、産業が発展し始めているこの街を象徴する景色だ。

二人は馬車に揺られながら、依頼以外の会話をする。
ユリウスは比較的、仕事の話をする方ではなかった。
それはレイに対してだけではなく、溺愛している弟に対してもだ。
ユリウスの元に舞い込んでくる事件はどれも難解なものばかりで、中には惨憺たる光景の現場もあるからこそ、ユリウスは現場に連れていくことはあっても、レイにその現場を見せることは無かった。
ただ、ユリウスの幅広い知識でも詳細までは分からない場合、そこで得られた情報を彼女に伝えてメモをしてもらい、そして関連情報を詳細に調べてもらうことは頼んでいたのだ。

「そういえば昨日、ルドガーから手紙が来てな。どうやら簡単なメニューだけではなく、ディナーも任される程になったらしい」
「それは凄いですね。ルドガーが周りの人にも認めてもらっていくのは私も本当に嬉しいなぁ。ルドガーの料理は美味しいですから。私も習いたい位です」

――ルドガー・ウィル・クルスニクは、現在セントラル駅に併設されている有名な食堂でシェフとして働いている。
幼い頃から、家事がからきしな兄に代わって料理を作っていたこともあって、その腕前は家庭料理というよりもプロの腕前にまで達していたのだ。
自分のことのように、弟のことを嬉しそうに話すユリウスは、探偵として活躍している時よりも、何より輝いているとレイは感じていた。
彼はルドガーを本当に大切にしているし、彼の為ならば何処までも頑張れる人なのだと知っていた。
その愛情が例えやや過剰であったとしても。誰かに愛情を抱き、そして守ろうとする在り方は、優しく温かな灯りだ。霧が立ち込めていたとしても、灯りは周囲を灯すのだ。

「手紙でも、ルドガーが『レイさんにも今度来て欲しい』って書いてたよ」
「本当に……嬉しいお誘いです」

クルスニク兄弟の家族の間に入るつもりは無いし、彼らが幸せそうにある姿を見ているだけでも天涯孤独となってしまったレイにとっては幸せをお裾分けして貰っている気分だった。
それでもルドガーは友達というよりお姉さんとして自分を慕ってくれているし、当たり前のように兄と自分を呼んでくれるこの事実が、レイを幸福にする。
そしてユリウスもまたルドガーを大切に思う自分を理解しながら、それが貴方なんですと当然のように受け入れ、笑顔で友として傍に居てくれる彼女の存在が居心地よかった。

「レイ、今日は現場確認と状況聴取で終わるだろうから、ルドガーの食堂に行かないか?」
「いいですね、ユリウスさん」

――何処かで、彼女が一歩身を引いてくれていることに甘えてしまっている狡い自分が居ることを自覚しながらも。
ユリウスはハットを被り直し、通り過ぎてゆく街並みをぼんやりと眺めるのだった。

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