Masquerade
- ナノ -

花の恋

紳士に、善人に振舞うというのは男にとってさほど難しいことではなかった。
探偵、だからではない。
男は内側に秘めた黒煙に包まれた燃え盛るような荒さを隠す術を身に付けていたからだ。
そしてそれが無くなることは決してない。
だからこそ、この道を選んだ。
人を裁くのではなく、ただ真実を求めた結果として、誰か他者がその結果を利用する形で正義を貫くという道を。

探偵として澄み渡ったクリアな視界で物事を見ることに努めながらも、自分の見る世界は晴れることは無いし、不鮮明なまま生きていくべきなのだろうと思っていた。
思っていたのだと、いうのに。

気付けば、手を伸ばしていた。
自分には不釣り合いで、相手の世界までもを引き裂いてしまいかねない優しくも温かなその熱に、手を伸ばすことをやめられない愚かな自分が居るのだ。
確かに、都合の悪いことだけは答えを見付けようとはしなかった。
証拠はそれこそ揃っているけれど、その点と点を線で結ぶことをするのは何処かで戒めていた。

それでも、彼女の温かな言葉一つ一つが、決して綺麗でもない自分の在り方もまたユリウス・ウィル・クルスニクなのだと受け入れてくれていることが、線となり、そして感情を織りなす。


「ルドガーが居たら、こうなっていたかな」


ルドガーが家を出て働き始め、家事が疎かになることを確信したからこそ、レイに助手という立場で来てもらっていたが。
いや、きっと変わらなかっただろう。
ルドガーへの親愛を彼女が受け入れてくれる居心地の良さに甘えて。
天秤にかけるような状況になった時に、選ぶことが出来ないという愚かな男の愛情も肯定してくれる都合のよさに甘えて。

その上で守らせて欲しいと言ってしまうのだろう。

「何て自分勝手なんだろうな」
「ナァ、ナァ〜」
「はは。ルル、カリカリのおねだりか?……俺の愛情は誰かを不幸にするものだと気付いてはいるんだがな」

それでも、止められない。

贖罪のつもりでルドガーを守る為に例え自分の身が滅ぶことになろうとも。
ルルの体に良くないと言われながらも甘やかして与えるだけ与えてしまい、悪影響を及ぼしていても。
自分にとっての一番だと言えないのにも関わらず、自分の日常にじんわりと溶け込み、そして受け入れて愛おしいと思える時間をくれる人に狡い愛しか注げないとしても。
ユリウスはルルにカリカリをあげながらその背中を優しく優しく撫でる。
そして語り書けるように、独り言を呟くのだ。

「都合がいい人間、では終わらせたくないんだ」

リドウが言っていた『お前はあの女を利用している』という言葉は残念ながら完全に間違っている訳でもない。
彼女の優しさを、距離の取り方を利用してしまっているのは事実なのだから。
けれど、都合よく利用して切り離すなんてことを、彼女にはしたくなかった。
この穏やかな時間を守りたかったし、寧ろこれから先もあって欲しいと望むような世界だった。

「……さて、夜ご飯は流石に買って来るべきか、お粥くらいは頑張ってみるか」
「……ナァ〜……」
「……米にお湯を入れるだけなら、流石に爆発までは起こさないだろう」

ただお粥の味付けは全く分からないからお湯に浸った米しか作れないし、それさえもまともに作れるだろうかと疑問が残る。
だからと言って、火を使うと危ないから水で作ってもただ不味いだけだ。やはり、昼に林檎を渡したばかりだが、剥くだけで済むフルーツが最適だろうか。
数時間置いてから彼女の様子を見に行こうと考え、彼女に何時も任せていた依頼の手紙の開封や、スケジュール作りを黙々と行っていたのだが。
上でガタッという者音がしたことに気付いたユリウスはソファから腰を上げて二階へと上がる。

「レイ?」
「あ、ユリウスさん……?」
「もしかしてタオルが熱くなったか?俺が変えるから横になってていい」
「ちょっとマシになってきたので……少しは体を伸ばそうと思って」

ふらふらとした足取りで立ち上がっていたレイを心配し、ユリウスはベッドに横になるよう勧める。
レイも、まだ少し気怠さがあるのか、ふらりとベッドに腰掛け直す。
少々頭が揺れている様子に心配したユリウスはレイの額に手を乗せる。

「さっきよりは下がったが、やはり今日一日は寝た方がいいだろう。お腹が空いただろう?俺が作る者は正直食べれるものかどうか分からないんだが、果物でもいいか?」
「ふふ、勿論です。さっきの林檎も美味しかったですから」

ユリウスが料理に自信なさそうに肩を竦めるものだから、レイはくすくすと笑う。
料理が苦手で何時もキッチンを荒らすことになることになるのを自覚して気遣ってくれるだけでも嬉しかった。
眠り過ぎて眠気は無い筈なのだが、それでも頭だけはぐらりとして瞼を閉じたくなってしまうのだから、本当に体調が悪いのだと実感する。

「レイが明日元気になれるように、せめて精一杯皮をむこうか」

――明日。
ユリウスが苦笑いしながら冗談を言っているけれど、レイの中でぐるりと熱が渦巻いた。
明日、体調が戻ったら、とりあえずはこの事務所から離れて、もう安全が確保できているのだから家に戻るべきなのだ。
当然のことだと解っている筈なのに。
ついつい寂しいと感じてしまう。「また明日」とこの家を出て行くことが、心にぽっかりと穴が開くような感覚を覚えてしまう。

「それじゃあタオルを交換して、今すぐ水と果物を……」

まって、行かないで。

そんなこと言える勇気もないのに。
熱を出して人肌が恋しくなっているという免罪符があることが、何となく脳裏にあったのだろう。
気付けばその腕を伸ばして、ユリウスのベストを引っ張るように掴んでいた。
咄嗟の行動にレイ自身驚き、即座に手を離そうとしたが、くん、と裾を引っ張られる感覚に、ユリウスは素早く振り返る。

「……レイ?」
「いえ、あの、……えっと……何でも、ないんです」
「……そんな訳はないだろう。……隠さないでくれ、レイ」

優しく、宥めるような声に、レイが胸の内に秘めていた感情もはらりはらりと花弁の様に剥がれ落ちる。

「少し、寂しいと、思ってしまっただけなんです」
「……!」
「ごめんなさい、今のは忘れて――」

彼を困らせてしまうだけだとレイは自分の発言を取り消して、風邪を引くと妙に人肌が恋しくなってしまうだけなのだという建前で、ユリウスと一緒に朝から夜まで過ごした日々の終わりが堪らなく寂しいという本心を覆ってしまおうとしたのだが。
眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めたユリウスは、レイの細い腕を、手袋を付けた手で掴む。

「なぁ、レイ」

酷く優しい、水面に波紋を生むような落ち着いた声。
けれど、その声は何かを抑えたようなものだった。
沸騰しそうな欲望や、高揚感を無理やり押し込めて、彼女への想いで満ちた水の、綺麗な部分を掬い取って、ぽたりと零すのだ。

「君に帰って欲しくないと言ったら、幻滅するか?」
「――」

確認をしているようで、優しい彼女に首を横に振らせないような狡い聞き方だとユリウスは自覚していた。
自覚をしながらも、彼女が自分を彼女の世界に割り込む隙を作ってくれたことに甘えて、逃げられないように優しく外堀を埋めていく。

「俺はいい人間ではない。褒められるような生き方もしていない。狡い、男だ。……そんな男が、この穏やかな時間を手放せなくなった」
「ユリウスさ……」
「愛おしいと思うようになった。……レイ」

君と居る時間が愛おしく。
そして君自身が愛おしく。
ぽろりと目の端から零れ落ちた涙は、ベッドのシーツを濡らす。
ユリウスは指で涙を拭い、照れを噛み締めながらも青年のようにくしゃりと笑う。


「俺は、君が好きだ」


何時も自分という存在を過小評価して、誰かにとって欠けてはいけないものにはならないようにしようとする儚い存在。
しかし、彼女が灯す蝋燭の炎は、何よりも温かい。
こんなにも暗く、湿った霧の中の世界を、視界を。
照らしたのだ。
こんなにもどうしようもない自分を、レイが受け入れて認めてくれる世界を望んでしまった。
自分達兄弟が幸せになれることを望んでくれる彼女と一緒なら、幸せに、なれるのだろうか?

――ねぇ、ユリウスさん。

私は貴方の特別になろうとは思っていなかった。
それは貴方がルドガーを心の底から、それこそ自分以上に大切にしていることを知っていたし、そんな貴方が好きだったから。
この淡い恋心は綺麗なまま鍵をかけて自分だけが度々思い返しては幸福感を覚える位のものでよかった。ただ、傍に居ても許されるだけで満足だった。

全く望んだことがない、と言えばうそになるけれど。
確かに私はそれだけでも十分、幸せだと断言出来たのに。
こんな幸福が、あってよいのだろうか。

「ねぇ、ユリウス、さん。私は、貴方が好きです。私を選ばなくたって、いいんです。だって貴方が大切にしている物を知っているし、そんな貴方が、好きだから」
「……レイ、君は何時もそうやって自分を」
「いえ、いえ。私をずっとルドガーとユリウスさんの傍に置いてくれた。その意味で、私にとっては特別なものなんです。貴方は、軽い気持ちで想いを伝えるような人ではないから。……好きだと言ってくれたことが、信じられなくて、うれしくて」

人への特別な好意を、特に異性に対して抱くことは相手を不幸にしてしまうと。どうしようもない自分は受け入れられるべきでもないと。
それこそ自己評価が低いユリウスという男が伝えてくれた愛情は、例え多少歪んだ部分があるとしても。
レイには真っ直ぐと、痛い程に伝わってきた。


「私こそ、よろしくお願いします。これから先も……傍に、居させてください」


部屋に差し込む夕暮れの光は二人を照らし、紅潮させた顔も橙に照らして溶け込ませる。「風邪も、移したら治るかもしれないな」と笑い、ユリウスは柔らかな唇に指をそっと乗せて背を曲げる。
重なった部分から伝わるその熱は、きっとこの先も忘れることは無いだろう。

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