Masquerade
- ナノ -

甘酸っぱい林檎を一齧り

ユリウスが犯人を突き止めたその事件は、翌日の朝の朝刊を飾ることとなった。
とは言っても、大々的にユリウスが解決に導いたとは書いていない。
それは、こんなにも悲惨な事件を総動員で捜査しても犯人に辿り着けず、探偵の力を借りて漸く捕まえられたという警察の信頼を損ねる結果に繋がるからだ。
自分の名前が書かれないことも承知しているし、その分の額は貰っている。それに名誉を得たい訳でもないユリウスは、現状に満足していた。
案の定、犯人が捕まった旨を聞いたらしいレイは、ユリウスが帰って来るなり怪我をして居ないか彼の身体を確認しながら「大丈夫ですか?」と問いかけた。
素直にナイフで刺されかけたなんてことを言える訳でもなく。動揺して油断した犯人を拘束したのだと説明するに徹した。
足癖が悪いなんてこと、レイに知られても得は一切ない。
それでも、その日は無事に解決できたことを労い、レイはトマト料理を振舞い、ユリウスが買って来た葡萄をデザートに舌鼓を打った。
ユリウスは気を緩めることが出来る環境に戻って来れて、枕元にルルを乗せたまま久々にその瞼は早く閉じられていた。
あぁ、やはりこの場所は落ち着く。ルルが居る自分の居住スペースであるから、という意味ではない。

『おかえりなさい、ユリウスさん』

――この事務所に戻って来て、確認を終えてほっと安堵した彼女が発した心地いい響きが、耳を撫でるのだった。

事件解決の翌日はユリウスも流石に捜査官たちに呼ばれて、この事件の真相や関連した事件について聞かれることになった。
それでも彼がやや上機嫌な様子で事務所を出たのは、今朝届いたルドガーからの電報を見たからだろう。
レイはユリウスの帰りを待ちながらも、ついつい一人になると新聞や本を読みながら考えてしまうのだ。

――安全が保証された以上、私は、もう自分の家に戻るべきだ。
別に、この事件の前と何も変わらない。自分の家からこの事務所に通うようになる。それは変わらない筈なのに、ちくりと胸が痛む。
こんなの我儘でしかないことは解っているのに。読んでいる本の手は完全に止まってしまっている。
はぁ、と息を吐いたレイは、突然感じた寒気にふるりと身体を震わせる。窓は閉めていたはずだけれど、どうも昨日に続いて冷え込んでいるようだ。
「ううっ、寒い……」
「ナァ〜」
「あっ……ふふ、ありがとうルル」
寒がって上着を羽織り、ソファに座りなおしたレイの膝に乗ったのは温かな体温のルルだ。小太りな分、少し重たいけれど、癒しになる。
ユリウスが甘やかしに甘やかしてしまうのも分かると頷きながら、レイはこの家の主人が帰って来るまでに料理を作るまでの時間、ゆっくりするのであった。
ただ、この時妙に寒いと感じていたことを外が寒いから気のせいだと流してしまったのは早計だったと知るのは、翌朝だった。

この日は先日の冷えた気温からは一転、温かな陽射しで赤レンガ造りの街を照らしている。
霧に包まれ、雨がよく降るこの街だが、雨が降った翌日、雫が陽を反射して煌く。
カーテンを閉めた窓から差し込む光にうっと呻きながら目を開いたレイは、その体の重さに疑問符を浮かべる。
起き上がろうと身体を持ち上げるのに、全然力が入らない。そして毛布を捲って一切被っていないのに、妙に暑いのだ。
――あ、これは、熱が出てる。
助手として彼に雇われている分、体調管理はしっかりしないといけないのに。風邪を引いてしまうなんて。
ユリウスさんに言わないといけないと思う反面、もしも移してしまったらと思うと声をかけることも躊躇われて。
そんなことを悶々と考えていると、熱でぼやけてくる意識は混濁し、再びその瞼を閉じてしまうのであった。


「……?何時も俺より早く起きてるレイが起きて来ないのは珍しいな」
今日は長かった事件も報告も含めてひと段落し、休日だ。
先に目を覚ましてソファに座り、ルドガーへの返事の電報を考えていたユリウスは、家の壁に掛けてある時計を見て疑問を覚えた。
この数週間、彼女が寝坊する所をユリウスは見たことがなかった。
彼女はそういうタイプの人間ではないだろうと思い込んでいたが、もしかしたら自宅に居る時の休日はこうしてつい寝過ぎてしまう所もあるのだろうか。
しかし数回の休日も自分より早く起きていた辺り、もしかして他人の家に寝泊まりをしているから緊張していたのだろうかとつい考えてしまうのだ。

――やっぱり、この場所では気を張っているんだろう。
誰だって自分の家にすぐに帰りたいと思って当然だ。
昨日は報告もあって警察署に詰めていたから、帰って来たのも割と遅く、どこかそわそわした様子のレイに「戻りたいだろう?荷物を運ぶのを手伝う」と提案することをしなかった。
疲れたから、だとか。また改めて休日に話そう、だとか。そういう理由ではなかった。
まるで引き延ばすかのように、その話を自然と遠ざけたのだ。本当に、こういう所が狡い大人というものだ。
だが彼女に「何時までもお世話になるのは悪いですから、戻りますね」と言われるのは時間の問題だ。
それを覚悟しつつ、寝かした方がいいかと思いながらも一応声はかけておこうと考え、トントンと扉を叩く。

「レイ、寝ているか?」
返事が返ってこないならそのまま寝かして、朝ご飯は少し遅めの時間に取ろうと思っていたユリウスの耳に届いたのは、壁越しに聞こえて来たか細い「……ユリウスさん……?」という声だった。
その声が何処か気怠そうなものだったことに気付き、ユリウスはすぐに事情を察して「開けるぞ?」と声をかけてから扉を開いた。
レイは、ベッドに居た。
自分が普段使っていたベッドの中で、毛布に包まって目を薄く開けている。その熱っぽい顔に、ここ最近風邪が流行っていること、そして彼女が二日前にくしゃみをしていたことを思い出す。
「熱があるのか、レイ」
「は、はい……すみません、ユリウスさん……移してしまうかもしれないので、外に……」
移してしまう訳にはいかないと気遣うレイに、ユリウスは「気にするな。水を持ってくるからここで寝ていてくれ」と声をかける。
すぐに自分のことよりも他人のことを考えてしまい、優先してしまう――言い方を変えれば自分の優先順位が低い所は彼女の欠点だ。
事件中は気を張っていた分、解決出来たことで気が緩み、その時に体調を崩すというのは世間一般的によくあることだ。仕事中は体調を崩さなかったのに、休日になった途端に体調を崩すという話はよく耳にする。
それだけ、彼女にストレスを与えていたのは他でもない自分のせいでもある。
一般人である彼女を、自分の傍に置いているということは、事件に巻き込まれる可能性も今回の様に零ではないのだから。

ユリウスはマグカップに水を注ぎ、タオルを水で濡らして部屋へと戻って来る。
「水だ。飲めるか?」
「は、はい……気を遣わせてしまって、すみません……」
「謝らなくていい。部屋は開けておくから、何か飲み物が欲しい時でも、濡れタオルを交換して欲しい時でも俺に声をかけてくれ。静かな家だ、小さい声でも気付くさ」
「本当に、重ね重ね……ありがとうございます……」
ユリウスはレイの額にかかった髪を退けて、その額に濡れタオルを乗せる。
ひんやりとした温度に上がり切った体温が少し逃げて行ったような感覚を覚え、レイは表情を緩めた。
安心させるようなふわりと頭を撫でたその温かな手に、安堵と――相対するような鼓動が早まる感覚を覚える。

――彼に、この想いが通じなくてもいいんです。だって、彼にとって大切なのはルドガーで、彼を守ろうとするそんな貴方を好きなんですから。
でも、こうして傍に居ることが許されているのなら。
甘えてもいいでしょうか。
撫でたその手の熱を、覚えてもいいでしょうか。

それは、ユリウスには言えない狡い自分。
淡い恋心を胸に抱きながら、彼ら兄弟が幸せである様子を見られるだけで十分なのだ。
謙虚なのではない。だって、それも我儘なのだから。


部屋を出たユリウスは、彼女の頭を撫でた手をじっと見ながら、浅い溜息を吐いて階段を下りていく。
勿論レイの体調を、純粋に心配している。だが、それ以上に彼女が自分を頼ってくれるような状況を、都合がいいと思っている利己的な部分は、やはり何処までも自分らしい。
それに、レイが早々に自分の家に戻っていたら、一人の状況で熱を出していたことになる。不幸中の幸いというものだろう。
熱が出ているとはいえ、お腹は空く筈だ。食べやすいものは何だろうかと考えた時、頭を過ったのは二日前に買ったまま、まだ食べていない林檎があった。
林檎は病気の時にも食べやすいだろうと考えて、ユリウスはそのままキッチンに足を運ぶ。
だが。自分に生活能力は皆無と言っていい。
ユリウスは立ち慣れないキッチンに立ち尽くし、林檎を手に持って眺める。料理も全くと言っていい程出来ないのだ。

「俺もリンゴくらいは剥けるか。……包丁はともかく、ナイフを使うのは慣れているから、大丈夫だろう」

既に持ち方が戦闘を想定したナイフの持ち方になっていることに気付かず、ユリウスは包丁を手に持って林檎を不器用に切り始めるのだった。

トントン、と再び部屋の扉が叩かれる音に気が付いて、レイは視線をそちらに向けて返事をする。入って来たユリウスの手には皿があり、その皿の上には林檎らしきものが見える。
「林檎を切って来たんだ。皮は嫌かと思って取ってきたんだが」
「……?ユリウスさんが切ってくれたん、ですか……?」
「……はは、そうなんだが。レイが何時も切ってくれるよりも、大分不格好になってしまってな」
レイの視線に合わせるように林檎を見せたユリウスは気恥ずかしそうに苦笑いをする。
彼が切った林檎は、形も不格好になり、皮を綺麗に切り取ることが出来なかったのか角ばってしまっている。
芯をどこまで取ったらいいのか分からず、やけに実が小さいものもあり、慣れないことをするものではなかったかと反省していたのだが。

それでも頑張ってくれた形跡は確かにそこにある。料理が苦手な筈のユリウスのその気遣いこそが、レイの胸に温かな火を灯す。
まるでそれは、霧の日に街を照らす、温かなガス灯の如き熱。
彼女は体を起こしてフォークを手に取り、一つの林檎を頬張った。

「美味しいです」
咥内にじんわりと広がる甘味。
でも、それだけではない。
貴方が一生懸命用意してくれたから、何よりも美味しく感じるんです。

顔を綻ばせるレイに、ユリウスはゆっくりと、目を開く。


「美味しいです、ユリウスさん」


――君は、こんな時だって俺に言い訳を作らせるように、甘やかし過ぎてしまうんだ。

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