Masquerade
- ナノ -

愛を挟んだ依頼の手紙

霧に包まれることが多いこの煉瓦造りの建物が立ち並ぶ街。名探偵と呼ばれる男の家が四番街の一角にアパートにあった。

ユリウス・ウィル・クルスニクの家のポストには連日、彼への依頼が手紙で届く。
警察でも手を焼くような未解決事件も解決へと導くのが名探偵たる所以だ。彼の家には過去、彼と愛猫のルルだけが暮らしていた。一見隙が無く、完璧に見える青年ではあるのだが、生活力が皆無の彼は助手と位置付けている女性に部屋の掃除や、日々の食事を任せていた。
だがそんな彼の家には、もう一人、住人が増えていたのだ。
ガス灯の明かりが揺らめく、霧に包まれた夕暮れと夜が混在する時間での街の中で、男性はハットを被りなおす。
今日の事件は化学的証拠を解析していき、被害者の人間関係を辿ればすぐに犯人は特定出来た。
それでも、目撃情報を主としているこの時代の捜査の穴を狙って、アリバイを作る賢い犯人もなかには居るのだ。

「それでは警部、私はこれで失礼しますよ」
「何時も感謝しているよ、サー・ユリウス。我々も情けなくはあるのだが、全く、どうしてこうも簡単に解決に導けるというのか……君ほど善良な人間は居ないだろう」
「……警部、別に俺は世の未解決事件を無くしたい訳でもないし、絶対にこの手で捕まえてやりたいと思っている訳でもありません。そんな奇特な人間じゃありませんよ」

警部の評価に対して、ユリウスは首を横に振る。それは決して謙遜ではなく、彼にとっての揺らがない事実であるのだ。
悪を否定できる訳もない。
それは自らの行いを、生き方を否定することに繋がる。自分のこれまでの道を無い方がよかった物だと切り捨てることも出来ない。
何せ、どうしようもなく自分という人間はその性質を切り離せず、ユリウス・ウィル・クルスニクが持ち合わせている狂気は彼を構成するものだと断言できてしまうからだ。
――だからこそ、そんな男が愛を女性に抱くこと、そして抱いていること自体を許される未来を想像していなかった。
相手の寛容さを利用するような愛ではないけれど、常に愛した者へのその熱が少々歪んでしまう己の愚かさも知った上で。
彼女は、そんな男の手に優しく触れて、包んだのだ。

「……ふむ、君のことを計り切れるとは思っていないが。しかし、それでも最近の君の雰囲気を見ていると自然とそう思ってしまったんだよ」
「……、成程。いや、参った」
「サー・ユリウス?」
「貴方は、俺にはない鋭い勘をお持ちのようだ」

警部という職業柄か、家族を持つごく普通の人間だからか、何という直観だろう。
嗅覚、と称するべきか。己の纏う気配など、自分も気付かなかった。
ルドガーを守ると決めてからも大きく変わったが、そんなにも穏やかな人間に見える程に変わったというのなら、間違いなく、彼女の存在があってこそだ。

――あぁ、不思議だな。
確かに自分は硝煙の匂いを、鉄の匂いを知っている。
自分を恨みながら睨みつけて絶望する表情も、沢山知っている。
そういう人間なのだ。だが、確かに――胸の奥には、知らない人も、仲間たちも、身内も。幸せになれるような世界を見たいと願っている火が、あったのだ。
薄暗い霧の中、燈り続けていた小さな小さな、温かい蝋燭の火。自分では見付けることの出来なかったその熱を、彼女は見付けて照らし出した。
決して、常に晴れ渡ることは無いけれど、それも貴方の世界だと優しく背中に寄り添って。

「それでは警部、そろそろ失礼」

ユリウスはハットを取り、丁寧に紳士の其れらしく挨拶をして、四番街へと足を向かわせる。
ふと目の前の景色を見ると、霧に包まれることが多い街にしては珍しく、澄み渡った黄昏と紺碧が入り混じる澄んだ空を見上げる。
星の煌きとは異なる、この街の光の象徴であるガス灯が辺りを照らしている。
それに対して、これまで何の感慨も抱いたことはなかった。けれどふと、零れるような想いがユリウスの口を動かす。「晴れた街の、灯りも綺麗だ」と。


ユリウスが家に戻る一時間前。
彼の住居兼事務所には、来訪者が居た。
仕事が休みだった弟であるルドガー・ウィル・クルスニクだ。食堂で働いているルドガーは多忙であるが、今回休みを貰ってユリウスの元に来たのは他でもない。
兄と、近所の姉さんの様に慕っていたレイの二人を祝う為だった。
「ルドガーがこの家に居るとやっぱり安心するなぁ」
「前までここに居たからかな。俺としてはレイさんがここに居ることに安心してるけど……」
「ナァ〜」
「あぁ、ルル。元気そうだな。けど、うーん、兄さんがご飯を食べさせ過ぎてるのかな」
りん、と鈴の音を鳴らして足元にやって来たルルを抱き上げたその重みに、ルドガーは首を捻る。
レイはルドガーの鋭い刺激に言い訳をしてあげることも出来ず、苦い笑みを零す。ルドガーにはその辺りお見通しなのだろう。
幾らレイが気を付けてルルにご飯を食べさせる量を抑えていても、ユリウスはルルのお強請りにノーを言わない。
「少しだけだぞ?」だとか「内緒だぞ?」と言って、甘やかし、与えてしまうのだ。
「なぁ、レイさん。今日は俺に夕飯を作らせて欲しいんだ」
「ルドガーのご飯が食べられるのは嬉しいけど……いいの?」
「当たり前だよ。何て言ったって、兄さんとレイさんが結ばれたんだから、俺にも祝わせて欲しいよ」
「……、ちょっと、気恥ずかしいけど。ううん、ありがとう」
ルドガーの祝福の言葉はすとんと胸に落ちて、羞恥心以上に幸福に満ちる。
まるで自分のことのように喜んでくれる人が居るというのは、それだけ特別なことなのだ。クルスニク兄弟の輪の中に入る――のではなく。二人を見守り、一線を引いた上での隣に居られることを許されるだけで良いと思っていたからこそ。
少しだけ、二人の恋というのは難儀であった。愛の抱き方は、知っている。
しかし、恋というものを隠さず、殺さず。相手に伝えるというのは二人にはそれだけ難しいことだったのだ。

ルドガーはキッチンに入り、二人を祝う為の豪華な料理を手際よく作っていく。その半分以上は、兄の好物であるトマトを使用した料理だ。
自分も料理は得意だと自負は出来る方だが、ユリウスにとって――そして今では自分にとっても世界で一番美味しい料理を作るのはルドガーだ。それは間違いない。
キッチンから漂う美味しいそうな香りに、レイは子供のように心を躍らせながら料理を待ち、そしてこの家の主を待っていた。
玄関からほどなくして鍵が開く音がして、思わずレイは顔を上げて扉を開けて入って来るだろう人を待ち侘びる。
「ただいま、レイ。ルドガーも、もう居るか?」
「おかえりなさい、ユリウスさん。はい、ルドガーも来てますよ」
「それは楽しみだ。祝福されていることに、感謝しないとな」
「……ふふ、そうですね」
レイはユリウスのコートを受け取り、自分と同じ気持ちを抱いている彼の言葉にくすりと微笑む。
――だって、この恋はきっとお互い偶発的な切っ掛けがない限り、実らせることを考えもしなかっただろうからだ。少なくとも、私はそう。
彼の領域に弟以外が入れる訳もないのだからこの恋は伝えるべきでもなく、綺麗な思い出として引き出しの奥にしまって鍵をかけてしまおうと自然と、当然のように考えていた。
そして貴方もまたそんな自分の在り方を自覚していた。だから気軽には恋をした――なんて言える訳もないのだ。ルドガーと天秤にかけ無ければいけない時、"必ず"切り捨てるのだから。
ごくごく普通で自分以上に誰かの幸せを願ってしまうような、大人しくて気優しいと言われがちな私も。きっと、歪んでしまっているのだ。
そんなユリウスだからこそ好きなのだと、断言出来てしまうのだから。
「兄さん、帰って来たのか。おかえり、お邪魔してるよ。しかも丁度出来た所だったんだ」
「あぁ、ただいま。ルドガーの料理は久々だな。レイも、偶には誰かが作った物を食べた方が、美味しいと感じるだろうしな」
その気遣い自体が、レイにとっては思わずぐっと熱いものが込み上げてくるものがあった。
誰かの特別になろうとしなかった自分が、こうも自然と、誰かにとって欠かすことは出来ない日常のピースになっていることが信じられなくて、喜ばしくて、幸せで。
三人で思い出話をしながらルドガーが並べてくれた温かな料理を食べて、一層思うのだ。
諦めるべきだと思い込んでいた私に、夢を夢のままにしなくていいのだと。
ルドガーは二人の間に一体何があったのか――追及し過ぎなかった。
彼らだけが知っていればいい葛藤も、愛情もあると理解していたからだ。
彼がユリウスの家を出て行った後、それまで賑やかだった家は少し落ち着いて、ゆったりと穏やかな時間が訪れる。せめて片付けくらいはやらせて欲しいルドガーに伝えていたレイは洗った食器を戻し、キッチンから出てリビングのソファに腰掛けているユリウスとの会話を弾ませる。
久々にこの家を訪ねてくれたルドガーの存在はそれ程、二人にとっては大切だった。
「やっぱり、ルドガーが作ってくれた料理は美味しかったなぁ。ユリウスさんが好きな物も把握して、新しいレシピを開発してる所が流石だなぁって」
「ユリウスさん、か……」
「え?」
「レイ。その呼び名を、変えるつもりは無いか?」
ユリウスの提案に、レイはゆっくりと、大きく目を開く。
二人が友人だった頃から、助手と探偵という間柄の時も決して変えることは無かったその呼び方を、恋人という関係になった後も変えようとしなかったのは一体何故なのだろうか。
ほぼ無意識に、何時も通りに『ユリウスさん』と呼んでいたが――確かに、レイの落ち着いた丁寧な印象を前提にしても、距離感を感じるかもしれない。呼び方を変えるなんて、簡単なことの筈なのに。
立ち竦んでしまったレイに、ユリウスはソファから腰を上げて、レイの頬に触れる。触れてもいい距離に居る――この手で。決して綺麗ではないこの、手で。

「俺は、君を必ず幸せにできると断言できない男だ。……君が、俺との未来を想像してはいけないと何処かで歯止めをかけていたのも、今ならはっきりと分かっている。名前も、話し方も、癖以上にその名残なのだとも」
「ぁ……」
「君にとって、俺が……最良の男なのかは、分からない」

君が否定をしてくれるだろうと、何処かで期待してしまっているような、狡い男だ。
首を横に振ってくれるレイを見て、あぁやっぱりと安堵しかけたユリウスだったが。
レイという女性は何時も、自分を受け入れる在り方が自分の想像を超えてくることを失念していた。
だって、彼女は言葉で己を巧みに誤魔化しがちな自分に対して、言葉をもって伝えてくれる女性なのだから。

「それを言うなら、私は、貴方の為になることを出来ない人です。助言をすることも、否定をすることも、私は出来なくて。何時だって貴方の選択を見守ることしか出来ない人間なんです」
「レイ……」
「貴方がそういう人間を望むだろうからそうしている、のではなくて……誰かの強い意志は私にとっては眩しくて、憧れでもあって。どんな種類の物であっても、それに対して真っ直ぐと迷わずに居られる姿に惹かれても居るんです」

決して他人には光には見えないかもしれない、迷いなき道だとしても。
それがユリウス・ウィル・クルスニクという人間を構成する生き方であり、レイが愛した男だった。
必ず幸せにするとは断言できない?それでいい。ユリウスがそうして嘘を吐かず、その上で最大限大切にしてくれようと思ってくれていることにこそ、意味があったのだから。

「だからこそ……ユリウスが、好きなんです」

この胸の奥に燈る熱を、もう知っている。
正体に気付かないように、答えを導かずに、点と点を結ぶことを止めていた卑怯者は、もうここには居ない。
愛に応える為に――そして自らの愛を示すように、膝を負って顔を傾けて唇を重ね合わせる。応える為に少しだけ唇を開いた彼女を食らうように、貪るように、丁寧に――荒らして。
唇を離した時には銀の糸がつうっと伝い、頬を紅潮させて息を乱す彼女に、申し訳ないと思う訳でもなく、高揚してしまうような男だ。
「君が好きになってしまった男は、こういう男だぞ?レイ」
「い、意外と……その、積極的で驚いてる、けど」
「……これでもまだ抑えてはいるんだが」
「えっ……!?……でも、ユリウスが誤魔化さなくなったのが、嬉しいし……それに、好きになってしまったではなくて、好きになることを受け入れてくれた人、ですから」

まったく、甘やかされ過ぎてうっかり彼女への愛し方も過剰にならないものか――そんな贅沢な不安を抱いてしまうが、つまりそれは『夢見た普通の幸福』なのだろう。


――四番街の名探偵、ユリウス・ウィル・クルスニクの事務所には連日、多くの依頼が寄せられる。
警察が聞き込みだけでは追えない犯人像を捕えて、針の穴に糸を通すような鋭い観察眼と、ただ一つの真相を導き出す探偵に縋る者も多い。
このアパートは一室の中が二階建てで、一階が事務所となっていて、二階は居住スペースとなっている。一階には彼が外に出る際に身に付けるコートと、ハットがフックにかけられている。
家事が苦手なユリウスだが、家の中は埃が殆どない程に綺麗に掃除され、デスクの上の書類や本棚の中に入っている本も綺麗に整頓されている。

目を覚ましてシャワーを浴び終えたユリウスは、仕事着に着替えてデスクについた。
そしてそこに置かれた、今日ポストに届いていたらしい手紙を目にして、ふと手を止める。

『ユリウス・ウィル・クルスニク様』

そう書かれた手紙がデスクの上に数多く積まれているが、一番上に乗せられたその手紙には切手が貼っていない。手に取って裏を見ても、差出人の名前は書かれていない。
ユリウスはその手紙の封を開き、中の手紙を確認する。
その内容を読み、手紙の最後に差出人の名前が書かれていたのだから、ユリウスはまるでそう、初恋に出会った少年のようにふっと微笑むのだ。

――今日は特別な日だから、行きたい場所があります。
何処なのか、推理をしてください。
……なんて。試している訳ではないんです。
きっと、貴方が行きたい所と同じだろうから。

レイ・ジェイ・クルスニクより。

なんて可愛いことをするのだろうかとくすくす肩を揺らして笑い、ユリウスは椅子から立ち上がる。
だが不思議なことに真実を明らかにするだけで、その先は知らぬ顔をして来た探偵だった自分が、こうもその先のことを想像して胸が躍っているだなんて。
二階で家事をしているレイに、答えを伝えよう。名探偵らしく。
ルドガーの店で、ディナーを食べよう。一年目を迎えた、レイとの結婚祝いをする為に。

霧がよく立ち込める街は晴れていて、温かな陽射しが窓越しにクルスニク家を照らすのだった。

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