朝焼けのスピネル
- ナノ -

08

「キバナさん、随分と機嫌がいいですね?」
「んーそう見えるか?」


汗をスポーツタオルでふき取りながら、垂れた瞳を動かして指摘してきたジムトレーナーを見る。
稽古をつけてもらってるナックルジムのジムトレーナーは、厳しく指導してくれる中でも何時も温厚かつ笑顔の多いキバナが何時にも増して上機嫌に見えて、問いかけるとやはり八重歯を笑顔を返してくる。
モンスターボールから出ているジュラルドンも、キバナの表情に合わせるように笑っている。

ジュラルドンまでご機嫌なんて、いよいよ何か特別なことがあったんだろうかとキバナの元に長年居るジムトレーナーは察するも、何があったかまでは想像できない。
色んな出来事をSNSにあげるキバナだが、昨日は特に投稿は無かったらしいと他の同僚も言っていた。


「昨日めちゃくちゃ上手い飯を食べたってだけなんだけどな」
「はぁ……」


それだけか、とトレーナー達は拍子抜けする。
ロトムが出した写真を見返して「そうそう、これが美味かったんだよな〜」とジュラルドンと顔を合わせる。
シーザーサラダとデミグラスソースのかかった野菜の添えられたハンバーグに、コンソメスープ。
確かに美味しそうだが、何となくその食器がお店のような物ではない気がした。

キバナが上機嫌になるのも当然と言えるだろう。
昨日、食事を家に作りに来てくれた想い人のキッチンに居る姿は、それだけ高揚感や期待感、それに幸福感を掻き立てる絵だった。
リクエストを聞いたエスカは慣れた様子でマーケットの売り場を回って、食材を手に取っていく。
キバナが持って来た物をカゴに入れてもらい、ふわりと「こういうのも好きなんだね」と自分のパーカーを羽織った彼女が微笑むから、指先を伸ばしそうになる。
食っちまいたい――そんな風に、気が逸りそうになるのだ。

アパルトメントの途中まで帰路は同じだが、彼女が潜る部屋の扉だけが何時もと異なる。キバナが鍵を開けて部屋に招き入れると、エスカは瞬いた。

「……私の部屋と同じ間取りな筈なのに、お洒落」

部屋の間取りは一緒とはいえ、置いてある家具やインテリアは異なるもので、非常にキバナらしいシックでお洒落な部屋だった。
趣味はファッションというだけあって、部屋の中もお洒落にまとめられていた。
キバナは買って来た物をキッチンに置いて、彼女に新たに見繕ってもらった調味料を別に置いていく。

キッチンの使い勝手は分かっているつもりだ。
キバナには寛いで待っていていいと声をかけて、早速調理用の器具やボウルを取り出して料理に取り掛かったエスカだったが、視線を感じて顔を上げた。
にこにことカウンターテーブル越しに作業を見ようとしているキバナの姿があった。


「オレ様のことは気にしなくていいぜ」
「は、恥ずかしいから、そっちで待ってて」


未だに自分のパーカーは着たまま作業をして、照れている様子にキバナは思わず『何で一緒に暮らしてねぇかな……』と考えたが、気が早くなるのは悪い癖だ。
エスカが置いた荷物の中にあるモンスターボールが料理の匂いに反応してか、かたかた揺れているような気がした。
一際揺れている彼女のゴージャスボールをとんとんと叩くとドラパルトが出て来て、キバナの姿を確認した瞬間に機嫌よく鳴いて飛び込んだ。

「うおっ、エスカのドラパルトに会うのはドラメシヤ以来か。お前本当に人懐っこいな〜」

ドラパルトは笑顔を見せてキバナの背中に乗っかり、キバナは自分の手持ちにはいないドラパルトの首を撫でた。
ポケモンは元々の性格こそはあるが比較的、主人の性格に寄って行く傾向がある。だが、エスカのポケモン達は彼女と似たような性格のポケモンは少ないような気がした。
キッチンからドラパルトがキバナにじゃれている姿が目に入ったエスカは、微笑ましい光景に小さな笑顔を浮かべた。

「キバナがドラゴン使いだからかな。ドラパルト、キバナが好きみたいで」

――エスカの言葉に、キバナはドラパルトを撫でていた手をピタリと止める。
そう思ってるのは、ドラパルトだけか?


「まぁ、オレ様はドラゴンじゃなくても、ゴーストタイプも……ゴースト使いも好きだぜ」


わざと。まるでエスカに言っているように聞こえるように。
ちらりと彼女の顔を覗き見ようとしたが、フライパンを持ったエスカは丁度換気扇があるから見えない位置に居た。
音からして淡々と作業しているらしい彼女に思わず肩をすくめたが。

その顔が真っ赤になっているなんて、知らなかったのだ。


少し時間が経って、ソファ前のローテーブルに、ご飯が盛り付けられた食器が並べられていく。
――シーザーサラダとデミグラスソースのかかった野菜の添えられたハンバーグに、コンソメスープ。
一人暮らしをして長いとはいえ、男の一人暮らしだというのもあってこんなに手の凝った料理を見栄えよく綺麗に作ったことはない。


「おっ、美味そうだな。オレ様の家で食べられる物とは思えないというか」
「ありがとう。口に合えばいいんだけど……」
「あ、ちょっと待ってろ。良いものがあるんだ」


料理に合うような貰い物のちょっといい赤ワインを取り出して、キバナはワイングラスを二個取り出した。
一人で飲むのはなかなか勿体ないが、こういう特別な時に開けるのが丁度いい。
エスカに赤ワインは好きか確認をしてから、手慣れた様子でコルクを空けてグラスの一番太くなっている部分にまでワインを静かに注ぐ。

そして、丁寧に大きさを分けて大きめに作ってくれてる辺りに気遣いを感じて、つい笑顔になる。
ポケモン達の分も作ってくれているようで、出てきた普段表情の分かり辛いジュラルドンまで笑顔を見せている。
一口分を切って頬張る。
じんわりと口内に広がる優しい味。家庭料理って感じで、美味い。当時キャンプでカレーを一回か二回お裾分けしてもらったような気がするが、料理も出来るなんて、最高だろ。
いちいち「美味いなー」と声に出しながら食べていたら、エスカは「キバナは褒め上手過ぎる」と呟きながら、羞恥心を誤魔化すようにこくこくと喉を鳴らして赤ワインを飲んでいく。
そのペースが少し、早いような気はしていた。
意外と飲める口なのかとキバナもおかわりを注いでいたのだが。段々と口数が彼女にしては妙に増えているなと思って、食べ終わったタイミングで流石に声をかけてみた。


「おーい、エスカ?」
「ちょっと、ねむい気がして……他のお酒より、ワインは、酔い易くて」
「そうだったのかよ。悪い悪い」


人によってはワインが身体に合わず、酔いやすいという話も聞くが、顔色を変えずに飲んでいたから気付かなかった。
うとうととしていることを自覚して水を飲んではいるが、やはり酔いが醒めている気配はない。
立ち上がろうとしたけれど、立ち上がった直後に視界がゆがんだのかじっと立ち止まるエスカに、キバナはソファに座り直すようにと手を引く。
何の抵抗もなく、腕に納まった彼女に、一瞬煩悩がちらついたような気がした。


「……お持ち帰りしちまうぞー」
「私、重いから、持ち帰っても大変だと、思う……」
「荷物かよ。酔ってるせいかなんか発想が明後日なんだよな」
「とりあえず、食器だけ洗ったら、戻るね……」
「あーいいって。それはオレ様がやるからよ。元々誘ったというかここで作るように提案したのはオレ様だしな」


眠たそうにうとうとしながら、こくんと頷いてお礼を述べるエスカを眺めながら、垂れた瞳が無意識に細められていく。

――このまま、本当に食われちまっても知らねぇぞ。
オレ様は優しくしたいから、現段階でそのままベッドに連れ込んでなんてことをするつもりはないが。

これだけ眠たそうだと家に泊まっていけと言いたくもなるが――現時点でそれは流石に次の日からベランダにも出て来てくれないような気がして踏みとどまる。避けられることこそ、避けたい。
それに、彼女の家は隣だし、元々自分の部屋だったのもあってスペアキーもある。
ソファから立ち上がった後も倒れないように腕を引くと、簡単にすっぽりと腕の中に納まる。酔っているなら、肌の感覚も鈍くなるよな。

「エスカ」

屈んだキバナは、彼女の首筋に顔をうずめて、吸い付いた。
ちりっと一瞬走ったような痛みに、顔を上げたエスカだったが、気のせいだろうかと歪む視界でキバナを捉える。


「っ、キバナ……?」
「んー?ご馳走様、エスカ。明日も仕事があるならゆっくり休めよ」


気遣う言葉はぼんやりと聞こえているのか「ありがとう」と聞こえてくる。
その言葉の裏に隠して何でもないと誤魔化した、首の後ろに付いた赤い鬱血した痕。鏡を見ても気付かない位置の所有印。
味見をした気分になりながら、エスカが隣の部屋に戻れたのを確認したキバナは、浅く息を吐く。

「……帰したくねぇ」


――エスカがその日ナックルジムを訪れたのは、トレーニングも終わって控室で談笑している夕方のことだった。
朝はスパイクタウンに向っていたらしいエスカが顔を出すと、トレーナー達も彼女のことをすっかり覚えていて挨拶を交わす。
ジュラルドンはエスカが来たことに上機嫌になって鳴き声を上げる。冷たい鋼の身体を撫でるエスカの手がひんやりとしていて気持ちが良いのか、ジュラルドンは笑顔に変わる。


「今日は寄れるか分からないとか聞いてたけど、スパイクタウンの方の顔出しが終わったのか?」
「ううん、さっきまではオリーヴさんとまた打ち合わせしてて。長引かなかったからここに寄ってみたの」


打ち合わせが長引いて、ジムも閉まっている時間だったら真っ直ぐ帰る予定だったらしい。
エスカは朝、キバナにメッセージを入れていたが、改めて本人に頭を下げた。


「キバナ、昨日は酔っぱらってごめん……何言ってたかあんまり記憶が残ってないけど」
「いいっていいって。美味い飯を食わせてくれたしよ。今日は上着着てきたのか」
「うん。夜はまだ肌寒くなるって昨日学んだから」
「……、ま、忘れた時があったらまたオレ様も貸すからよ」


――残念だ。上着を着ていなければ、その首筋についた赤い痕が見えていたかもしれないのに。

二人の会話の様子を見ていたトレーナー達は、キバナがより一層ご機嫌になったことに気付いて、最近感じ取ってはいたが確信に変わったのかひそひそと会話をする。
元々、キバナは誰に対しても屈託なく会話をする親しみがある明るい人ではあるが。
腰を曲げて目を合わせながら会話をして、時々愛おしそうに目を細めて笑う様子は、長年キバナの元に居るのもあって実に分かりやすい。


「キバナさん、明らかにエスカさんのこと好きだよなぁ」
「あの人分かりやすいよな。行動に出るから」


ジムトレーナー達はひそひそと会話をしていたのだが、エスカが軽い挨拶だけをして控室を出て行ったあと。
キバナは彼らを振り返って、笑顔を浮かべて確信を自ら指摘する。


「お前ら、協力してくれたっていいんだぜ」
「き、キバナさん。聞かれてた……」
「えっ、やっぱり片思い中なんですか……!?」
「……やっぱりってなんだよ?」
「ほかの女性ならともかく……エスカさんは流石に伝わるまで何となく時間かかりそうな気がして」


ナックルジムの担当になり、訪れることが増えたエスカに、トレーナー達は始めは声をかけてもいいものかと戸惑っていた。
何せ、遠くから見るだけではクールそうに見えて、慣れ慣れしく話しかけると邪険にされそうな印象を勝手に持っていたからだ。
だが、会話をするとそうでもないことに気付かされる。実に穏やかで、優しい人だ。
ただただ、表情に出ないから今どう思っているのかが読み取り辛い。
キバナが積極的にアプローチをしても、彼女に届くのは時間が掛かりそうだと客観的に思うのも当然というものだろう。


「随分前から知り合いですよね?今の今まで付き合っていないことに驚いていますが」
「付き合う、ねー……いや、正直嫁にしたい」
「キバナさん貴方すっ飛びすぎですよ……」


真顔で返してくるキバナに、呆れた溜息を吐き出す。
この人の性格自体は普段は温厚であるが、こういう所は一人称にも出ているように貪欲で強気だったことを思い出すのだった。