朝焼けのスピネル
- ナノ -

07


先日はエンジンシティを訪れていただろう隣の部屋の住人を思い起こしながら、キバナは朝日が照らす鮮やかな色の扉を見つめて、通り過ぎる。
エスカのことは、自分だけがよく分かっているという漠然とした考え方。自惚れ。
そんなものが根底にあった。
何せ彼女はジムリーダーと競う舞台のリーグでは試合をしなかったジムチャレンジャーで、自分と一枚の切符を争った。

正直他のジムリーダー達よりも苦戦した記憶が今も鮮明に思い出せるが、その後はジムチャレンジを続けずに実行委員に入った彼女を数年経っても忘れず、過去の人にしていないのは。
正面から冷やかな視線の中に熱い焔を滾らせているのを見て、ジムチャレンジを初めた頃から時々会っては縁を深めていた自分くらいだと思い込んでいたのだ。
あの時のジムチャレンジ決勝戦は大々的に全国放送されているのに。現ジムリーダー最強となっている自分と瞬きするのも勿体ない程の試合をしたのに。

その熱意はダンデにも届いた。
だから彼は、ガラルリーグを広げて強いトレーナーが沢山誕生して欲しいという夢を語って、エスカはそれに応えて委員となった。

(寧ろよく、今までで誰のものにもなってないよな。……はっきりと聞いてはないが)

彼女に気になる男性が居るのかだとか、付き合っている異性が居るのかは聞いてはいないからあくまでも仮定の話になるが。
自分の家に住むことを承諾したことや、彼女と親しい人達からそういった話題を聞いたことがないことや、何より『エスカはキバナ君のことが好き』という言葉を律儀に信じているが故にだ。
だが、何時誰のものになるかなんて分からないのに。

「……オレ様、こんなに押しが弱かったか?」

ふと浮かんだ自問自答を口にして、キバナはため息を吐いた。
自分の家という名の隣の部屋に来てもらうことには成功しているんだから、あとは意識してもらうように自然と距離を詰めていって、周囲からの印象や噂も味方につけてしまえばいい。
それだけ整えて、あの淡白に見られがちだが情の深い彼女に響くかどうか。

好きな女を振り向かせるにはどうしたらいいかという難題を解決すべく、ネズがナックルシティに来たという話を聞き付けて、連絡を入れる。

ーー今回のジムチャレンジについて少し話したいんだがいいか?
ーーえぇ、勿論。……俺も最後かもしれないので、話しておきたいですね。

そんなやり取りを交わして、何を話されるかも知らない彼を掴まえたキバナはナックルジムの中で、ジムチャレンジをしているネズの妹の話題から自然な流れで至って真面目に切り出すのだ。


「なぁ、ネズ。オレ様も今、……というかずっとだが活躍を見守ってるやつがいるんだけどな」
「そんなトレーナーが居たんですか」
「そいつを恋人にしたいというか、寧ろいっそ嫁にしたい奴が居るんだがどうしたらいいと思うよ?」


キバナの相談に、ネズは隈の出来た目を開いて瞬く。
付き合いたいという相談を一本通り越して嫁にしたいなんて言ったことはともかく、キバナのような人が出す話題なのかと驚いたのは当然の反応と言えるだろう。


「……貴方がそんな相談をするとは驚きました。そんなことを考えなくともキバナはそういうことには余裕があるだろうと漠然と思ってましたが」
「オレ様に脈があるのかないのか、分かりづらくて苦労してるというか」


何せ、キバナといえば実に多くの人に慕われていて、本人も斜に構えずに愛想のいい気さくな性格だ。人との距離を詰めることなんて苦労しないだろう。
そんな男が真面目に思い悩んでいるというのが心底不思議に感じられた。
しかし、ネズから見たキバナへの印象だが、案外この男は一途だという認識だった。気が多いどころか、トレーナーとしての姿勢にも現れているが目標以外への余所見をしない。


「キバナのような人にもそんな悩みがあるんですね」
「結構スキンシップはしてるんだが、反応が表情だけじゃ分かりづらいんだよな。オレ様には割と笑ってくれたりするのは可愛いんだけどな?」
「……ん?」
「昔からずっとそんな感じで脈ありかどうかさえ分からないっていうのも虚しいっつーか」


ネズの知り合いの中に、一人だけその特徴で合致する人物が浮かぶ。
そもそも、自分と彼女を知り合わせてくれたのは他でもないキバナだ。


「……、まさか、エスカですか」
「お、よく分かったな」
「貴方、随分と真逆の女性を……いや、一番長い縁ですか」


長い付き合いになっているからこそ、寧ろこの数年今まで意識したことは無かったのかと言いたくなるような相手だが、青年になる前から知っていると関係の変化に踏み出すのも難しいのだろうかと察する。
特にエスカとなれば、確かに人と比べて感情の起伏が読み取りづらい所がある。
友人という立場だと笑顔を見られたり、外から見る表情よりも豊富だと感じるが、彼女の特別な好意を測るのは難しそうだとネズは目の前で悩んでいるらしいキバナを見て肩を竦める。


「家が近所とか言ってませんでしたか?かなり近いって聞きましたが」
「エスカが言ってたのか?今、オレ様の部屋を一室使ってもらってるんだよ」
「……」


八重歯を見せて笑ったキバナとは対照的に、ネズは眉を寄せて呆れた様な表情に変わる。
どうしようかと悩んでいるも何も、やはり距離の詰め方や行動はキバナらしいと思わずには居られない。十分既に状況は揃えていっているのかと。
だが確かに、エスカが引越しの話をしていた際に照れていたかといえば、微妙だ。キバナがそこまでしているとはいえ、脈ありかどうかは不明だった。


「彼女がそれをキバナが意識して行っているのかと捉えるのかーーそれとも、人がいいキバナの人助けの提案と捉えるかは分かりませんね」
「そうなんだよな〜そこなんだよな」


キバナ自身もいい男を見せつつ外堀を埋めている自覚はあるのだがーー埋めきれていない感覚が常にしている。
彼女が自分を特別だと思っているのか、そして異性だと認識しているかは計れない。


「だがまぁ、絶対に逃さねぇよ」
「……エスカも大変と言いますか。厄介な男と腐れ縁になりましたね」
「あ、今可哀想にって目したな?」


笑顔の反面、鋭い眼差しの奥に潜む普段隠している執着心を向けている相手を思い浮かべて、気の毒に思わずにはいられなかった。
この男は目標に一途ーーつまりは、落とすまでは、諦めようとしないだろうと容易にわかったからだ。
しかし、エスカにはそれくらいの相手で丁度いいのかもしれないと、ネズの中で漠然とした予感があった。何せ彼女は、感情豊かな人に引っ張られて新しいものを見ている所がある。
生憎と自分はエスカの感情を何となく噛み砕いて会話するしか出来ないが、手を引けるのはこういう男なのだろうと思わずには居られない。


「まぁ、エスカがキバナと会いに行きたくなくなっても、スパイクタウンには来てくれるでしょうからいいんですけど」
「おいおいおい」


そこは協力してくれよという訴えに、ネズは素知らぬ顔をする。
友人である以上、彼女が思い悩んで苦しむ姿は見たくはないと思うのは当然だ。
だがーーそれと同じくらいに、二人が上手くいけばいいと思っているのも事実だった。


ナックルシティを後にするネズを見送る頃にはもう陽も落ちて、月が照らす時間帯になっている。街灯に紛れるようにランプラーが宙を漂い、街を店から零れる灯りが照らしている。
背の高いキバナだが、夜の街ともなると、パーカーの色や肌の色もあって昼よりも目立たなくなる。

家にゆっくり戻ろうかとナックルジムを出て、吊り橋を渡ったキバナは、視線の先に見えた全体的に白い印象の想い人に気付いて駆け出した。
モンスターボールから出ていた彼女のユキメノコが先に気付いて、つんつんと肩を叩き、キバナが駆け寄ってきていることを伝えている。

「エスカー」

聞き馴染みのある声に振り返ると、上機嫌な様子で駆け寄ってくるキバナを見つけて、エスカは立ち止まった。
上着を着ていない姿は珍しいが今日は日中温かかったからだろう。


「キバナも帰り?」
「ネズと会っててな。今から帰る所だから一緒に帰ろうぜー」
「そうだったんだ。あ……明日休みだからマーケットに寄っていこうと思ってたんだけど」
「付き合うぜ。お、つまりはエスカの作る飯を食べれたりもするのか?」
「言ってたのにまだ作ってなかったね。うん、勿論。キバナの分も作って持って……」
「オレ様の部屋のキッチンで作業していいからな」


自分の部屋で作った料理を隣の部屋に持って行こうとしていたから、提案に瞬きする。
キバナの部屋のキッチンで料理をするということは、あのカウンターキッチンで見られることを意味しているし、何よりキバナが倉庫にしていた部屋は借りているが、彼の部屋に足を踏み入れるのは初めてなのだ。
特に意識している風でもなく、自然に提案してくる彼の表情を盗み見て、胸の奥にさざ波が立つ。

友人に対して、彼は人がいいと知っている筈なのに。特別なことでは、ないのに。
吹く風がいつもより冷たく感じられて、身体を震わせる。

当のキバナは腕を摩っているエスカに気付いて「寒いのか?」と問いかける。
こおりタイプの使い手で雪の中が似合いそうに見えて、案外寒がりな所があるのは当時ワイルドエリアを何回か共にしたことがあるから忘れてはいない。


「夜の方は意外と寒いなと思って……」
「そうか?オレ様が平熱高いのもあるのか。そうだ、帰る間だけでも上着貸すから着ていいって」


パーカーのファスナーを下ろして脱ごうとするキバナに、エスカは反射的に「いいよ、キバナが寒そうだし」と断るが、風邪引いたら困るだろ、という正論に押し黙る。
困惑した顔でパーカーを受け取ったエスカの心境を察してか、ユキメノコは隣でくすくすと笑っている。
人の気も知らないで。

半袖のシャツだけになったキバナに寒くないかと目で訴えていると、察した彼は手のひらをエスカの頬に当てて「温かいだろ?」と笑った。
指先から熱が伝わって、移って。離れていく手を見ていると、視線を合わせるように屈んでくれているのがよく分かる。

(……よかった、手を離してくれて)

頬が熱くなってることを悟られなくて。


「……おっきい」
「まぁ、オレ様の身長考えたらエスカにはそうだよな」


キバナが貸したパーカーを羽織ると、エスカのスカートまですっぽりと隠れてしまう。袖もぶかぶかで、体格差を意識せずにはいられない。
袖を上げて手を出しながら温かそうな顔をして表情の緩んでいるエスカに、キバナは思わず口角が緩んだ口元を見られないように手で覆った。

(ほんと、可愛いな)

マーケットに向かって歩く様子は外から見たらどう見えてるんだろうか。
ーー恋人に上着を着せて歩くカップルだろうか。
一緒に食材を選んでいる姿に同棲していると思われるだろうか。家での食事会を友人同士でやろうとしている、なんて思われるのは悲しいが。

マーケットに着くと、老若男女問わず買い物をしている。色鮮やかな食材が並べられていて、目移りしそうだ。


「何を作るか決めてないからキバナが食べたいものにしていいよ」
「ありがとな。どんなメニューにしてもらうかねー」


エスカの手料理というだけで、本当は何でもいいのだが。
吟味しながらマーケットを回りつつちらりと視線を外に向けると、通りすがりらしいファンの視線がこちらに向けられていることに気付く。
手をひらひらと振り、片目をパチリと閉じて意味深に挨拶を交わした。
オレ様の上着を素直に着た本人がどう思ってるかは置いておいて、今デートのつもりなんだぜ、と。

すっぽりと自分のパーカーに包まれて淡々と食材を選んでいってるエスカの後ろ姿に、笑みが零れる。
一緒になると、きっとこんな感じなんだろうか。