朝焼けのスピネル
- ナノ -

04

鍵をひとつ。
どんな形であれ、君に分け与える。
メインキーではない、棚の中に仕舞われ続けていたスペアキー。
シックなデザインのモーテルキーホルダーを付けたスペアキーを渡された女性は、その違和感に気付くこともなく受け取る。
敢えて、別の人間が用意したキーホルダーを使わせることの意味を、彼女は理解しているのだろうか?



「荷物、ここに重ねていいですかー?」
「大丈夫です。ここに置いて頂けたら整理しますので」


エスカが新しく住む、アパルトメントの304号室。
そこに運び込まれていく段ボールの山は積み上げられていき、ベッドやデスク等の家具は指示した場所に設置されていく。
重い荷物を引っ越し業者の男性たちに運び込んでもらい、慌ただしく引っ越しは進んでいく。


「荷物、多くてごめんなさい」
「そうですか?一人暮らしの女性はもう少し何時も多い気がしますよ。エスカさんの引っ越しは寧ろスムーズにいったというか」
「私のこと、知ってるんですか?」
「えっ、勿論ですよ!同じ位の歳というのもあって当時キバナさんとのバトル見てて、僕もあんな風に戦ってみたいなーって憧れたんですよ」
「俺もあの時の試合、見てたなぁ。今も覚えてるし」
「……ありがとうございます」


その言葉に照れる訳でもなく、驚きながらもエスカは礼を述べた。寧ろキバナとダンデ君の試合の方が余程高揚するだろうに、と純粋な疑問故にだった。
それに、そんな前のジムチャレンジ最後の試合を人々は覚えているものなのだろうかと首を傾げると、新しい照明にふわふわと天井近くを飛んでいたシャンデラもエスカの動きを真似して身体を傾ける。
ただ、キバナと自分の試合は天候が目まぐるしく変わる意味では派手だったことは確かだ。
彼の攻撃の際に砂嵐になったかと思えば、エスカの攻撃であられに変わり、フィールドの気温がぐっと低くなる。

そもそもこの部屋は彼らが語るキバナの家なのに、と思いながら、引越しの作業を終えて帰っていく彼らを見送る。

――其れはかつての選手時代。
スボミーインで隣の部屋になったことはあった。
あの無邪気な笑みを浮かべて宜しくな、とフードの中に収まって肩に掴まるナックラーと共に挨拶をしてくれたキバナは、今では遠くの人になったような気がしてしまう。
彼がジムリーダーとなり、自分が実行委員になって。連絡は殆どキバナの方からくれていたけれど、何時このメッセージが途切れてしまうんだろうとぼんやり考えては、足を止める。
彼のように愛想がいいわけでもなければ、気遣いに長けた面倒みの良さがある訳でもない。
同じジムチャレンジを戦った友人ではあるが、有名になり、人気者になったキバナの中で自分の存在が無くなっていくのは寧ろ当然だろうと認識していたのだ。

「未だに、こんなに気を遣って貰えるなんて」

ガムテープをはがす手を止めて、エスカは自分の頬にぺたりと手を置く。
やっぱり、自分の手が冷たくて気持ちいいと感じるくらいに少し熱い。キバナに提案された時には何かと理由を付けて拒否しようとしたが、言い包められてこうして引っ越ししてしまっている。
荷解きの途中で、今朝送ったメッセージに気付いたらしいルリナから電話がかかってくる。通話ボタンを押して「ルリナ?」と返すと「メッセージ見たんだけど!」と大きな声が耳を突き抜ける。


「エスカ、引っ越したの?しかもナックルシティ!?」
「うん。バウタウンから少し離れたからエンジンシティでの集合とか出来てたのが少し減りそうだけど」
「仕事の往復大変だっただろうけど突然過ぎるというか……ソニアにも言った?あの子はブラッシータウンに居るのが殆どだし、残念がるんじゃない?」
「メッセージでそんな感じの内容を貰ったよ」


ソニアからも『うそ!?ブラッシータウンからも会い易かったのに〜!?』というメッセージが来てたことを思い出してくすくすと笑う。
三人で会う時は殆どエンジンシティだったけれど、電車を使えば会えないこともないのだから。


「家ってどんな感じなの?」
「……ちょっと狭いから人を招くのは無理そう」
「ナックルシティだと家もそんな感じになるんだ?エスカがバウタウンから離れたのはかなり残念なんだけど、モデルの仕事でそっちに私も行くことだってあるし」
「ありがとう、ルリナ」
「そういえばナックルシティと言えば、なんだけど……」
「?なに?」
「えーっと、なんでもないわ」


歯切れの悪い彼女の意味深な言葉に疑問を覚えながらも、追及はしなかった。
ナックルシティに住むということは、キバナの居るところだけど、そこはどうなの?と聞きたかったルリナだったのだが。
通話が切れて、エスカは五秒ほど時間を置いて溜息を大きく吐いた。

……本当のことを言おうかと悩んでいたけれど、結局言えなかった。
狭いどころか、前エンジンシティに住んでいた部屋よりも広いし、立地もキバナが言っていた通り、高級住宅地というほどでは無いがこの街の中でもいい方だ。思わず尻込みしてしまう程に。
流石、ジムにでは無くキバナ自身にマクロコスモスバンクがスポンサーに付いているだけある。

引越し業者が帰り、積み重ねられたダンボールの封を切りながらも、キバナが貸してくれることになった部屋を眺める。
本当にこの二部屋を借りていたようで、キバナが軽く整理をしたというトロフィーやプレゼントだとか衣類の数々がリビングとは別の一部屋に纏められていた。
寝室にしていいと言ってくれた部屋にも恐らく沢山あっただろう荷物を、この一室にまとめてくれたのが分かった。

「確かに、スポンサーとかファンから貰ったものとかも本当に沢山あるのね」

二部屋借りていたのが理解できる位に、一部屋に押し込められている。
住んでいた訳ではないから家具や照明以外の家電はないとキバナは申し訳なさそうに言って「なんなら買ってこようか?」まで言い出した時には、エスカは眉を顰めて断固拒否をした。
一部屋貸してくれるというだけでも甘やかされ過ぎなのに、気前がいいにも程がある。

「凄い……綺麗な家……」

2LDKの部屋は想像以上に立派だった。
先日一回だけこの部屋だと鍵を貰うついでに案内をしてもらったけれど、昨日まで住んでいた部屋より明らかに立派だ。一人で住むには勿体ない位に。
その中でも部屋を入って廊下を通り、リビングとの間にあるカウンターキッチンが立派で、エスカは目を瞬かせる。
小さなキッチンで料理をしていたことを考えると、料理も楽しみになりそうだ。
きらきらと胸を躍らせながら窓を開くと、眼下に広がった景色は壮観だった。石造りの街に、その奥に広がる雪の降るワイルドエリア入り口付近。
遠くからでも見えるアーマーガアやケンホロウが飛ぶ空の方は晴れ間が見える。

「ワイルドエリアが本当に見える……!」

トレーナーとしては、毎日天候が安定しないが故に出てくるポケモンも変わるワイルドエリアは魅力的に映る。
ワイルドエリアがよく見えるとキバナの言っていた通りだった。
誰かに伝えたくもなったけれど、肝心のルリナとソニアに言えない状況が勿体ない位だ。振り返って部屋の中を物珍しそうに眺めて楽しんでいるポットデスとシャンデラを手招いて見せようとした時。
ガラッと隣の部屋の窓が開く音がしたと同時に「よっ」と声をかけられる。
壁から顔を出して覗き込んできたのは、朝から用事があると言っていたキバナだった。


「キバナ、帰って来てたんだ」
「さっき帰ってきた所でな。引越し作業一応終わったみたいだな」
「本当にありがとう。改めて見て素敵な部屋だから感動してた所」
「そう言ってもらえるならよかったぜ。家具の設置とかなら手伝うけど、まだそこまで荷解きで来てない感じか?」
「ううん、大丈夫。後でゆっくりやるつもり」


隣同士のベランダ越しに会話をしているというのも不思議な感覚だった。
手すりに肘をついてエスカの顔をまじまじと見つめていたキバナは、遠くのワイルドエリアに目が輝いているような気がする彼女に満足げに笑った。

親切心半分、下心半分だったから、家賃は元々自分が払ってるし要らないと言ったものの、エスカは譲ろうとしなかった。
家賃や光熱費全額支払うという主張を何とか跳ね除けて、4割で妥協してもらった。
それでもかなり渋られたのだが。


「お隣さんになった訳だし、宜しくな」
「宜しくね。お世話になった分は返したいから言って」
「はは、そこまで気にするなって。この間言ってたみたいに時々飯作ってくれるだけでも最高のお返しだし」
「……そう?あ、キバナが何か用事とかで遅刻しそうになったらインターホン押す位は出来るけど……電話の方が良いのかな」
「……」


変わらない表情でさらりとそんなことを言われ、キバナはベランダの死角に入ってエスカに見られないように頭を抑えて天を仰ぐ。
エスカと隣の部屋――正直、言い方を変えれば自分の借りている家の一室に住んでもらっているだけでも色んな感情が燻っている状況なのに、本人は淡々と冷静な言葉を紡いでいるのかもしれないが火に油を注がれている気分なのだ。
――というか、ベランダを挟んで会話ができる状況って最高だよな。


「今日は引っ越し作業で疲れてるだろうし、近くの店で夜に引越し祝いしようぜ。エスカの手料理はまた今度、落ち着いてから期待してるからな」
「……うん」


キバナの言葉に少しの間を置いてから短く答えて、ベランダの死角にすっと入る。
律義に冗談半分で言ったことをやってくれる気があるんだなと笑っていた彼は、一瞬エスカがわざと陰に隠れたことに気付かなかった。
恋心が弾けてしまわないように、胸を押さえながら。ひんやりとした外気を大きく吸い込んだ。