朝焼けのスピネル
- ナノ -

23

恋の始まり。
それはエスカに人間味が備わった瞬間だった。

きっと彼にとっては多数の友人の中の一人だっただろう。
ライバルの中の一人だっただろう。
キバナにとって特別な会話ではなくても、声をかけ続けてくれたこと。
そして何より正面から同じ舞台で戦い続けてくれたこと。

――それは、エスカにとっては宝石以上に煌めく、生涯大切にしたいと想う恋心の欠片だったのだ。



バトルも後半に差し掛かり、スタジアムを照らすライトが夜空を照らしている。
キバナが残している二体――それはキバナにとっても特に信頼を置いているポケモン達だ。当時のジムチャレンジの頃から、彼と共に旅をしてきたメンバーのフライゴンと、ジュラルドン。
エスカも二体のことはよく知っているが、それはキバナにとってのエスカの残っているポケモン達も一緒だった。
ユキメノコ・ドラパルト・グレイシア。よく知っているからこそ、対策もシュミレーションもしてきた。

バクガメスとポットデスが倒れた後、砂塵吹き荒れるフィールドではフライゴンとユキメノコが対峙していた。
タイプの相性だけで言えば、ユキメノコの方が有利だと思われそうだが、キバナのポケモンとして長年幾つものバトルを戦い抜いてきているフライゴンではない。
砂塵に紛れて攻撃をしてくるフライゴンの動きを何とかこおりのつぶてで防いでいるユキメノコだが、押されている状況だ。

フライゴンのドラゴンクローが当たった瞬間、受身を取ったユキメノコは反撃におにびを命中させた。

『おっとエスカ選手、おにびでフライゴンの動きを止めたー!これで攻撃力は半減します!』

その攻撃を予期できなかったのはキバナがユキメノコと当時何回か戦ったことがあるからこそだ。
攻撃技やあられといった技を中心とした構成だったが、攻撃力をそぎ落としてくる状態異常も利用するようになったのだ。


「マジかよ……はは、かなり構成変えてきたな……!?」
「さあユキメノコ、たたりめ!」


状態異常の相手に通常の倍の威力で攻撃する厄介な技。
おにびで攻撃力を大幅に削ぎ落とし、そしてシャドーボールよりも高火力となったたたりめで削りきるーーそんな作戦に気付いて、キバナはフライゴンに旋回するように指示する。
砂嵐に隠れたフライゴンの影が一瞬映るけれど、すぐにまた砂煙の中に姿を消してしまう。

「っ、れいとうビーム!」

砂嵐に紛れたフライゴンの翼に命中する。飛行速度が落ちた所で、フライゴンにたたりめをぶつけようとしたのだが。
砂塵の風を利用して身を捻ったフライゴンは多少当たるのを避けずとも直撃を避けて、次の攻撃に移れる体勢を取っていた。

「そこだ、かみくだく!」

温存していたユキメノコにとって弱点となる攻撃に、エスカは目を開いてユキメノコに次決着を付けようとするだろう攻撃を予測して叫ぶのだが、ユキメノコは動けなかった。
威力を半減させているとはいえ、命中した弱点の技は耐久力の低いユキメノコを怯ませたのだ。
受け身が取れない程の勢いでフィールドに身体を吹き飛ばす。

「悪いな決めさせてもらうぜ!」

キバナというトレーナーはその隙を見逃さない。
すなあらしの中現れたフライゴンは翼を広げ、試合に決着をつけるべく、地面を揺らす。
地面に叩きつけられた直後、そのフィールドごと揺らすじしんの攻撃が弱ったユキメノコを追撃する。
揺れが収まった頃には、ユキメノコは目を回してフィールドに倒れ込んでいた。
天候を利用するキバナというトレーナーのバトルの真骨頂。観客から見てもキバナが今日、非常に調子がいいというのは目に見えて分かった。

ドラパルトと、大分消耗しているグレイシアしか残されていない。二体同士で並んでいるが、エスカは自分の劣勢を冷静に判断していた。
キバナのフライゴンとジュラルドンの練度の高さは勿論知っている。追い詰められるのは仕方がないが、それでも負けたくはないのだ。
それが、トレーナーとしての矜持だ。


「一度キバナと一緒に戦ったけど……キバナを相手に戦うのは初めてね、ドラパルト」


ボールを優しく撫でたエスカは、空に向かってボールを投げる。エスカが次に出したポケモンは、未だに無傷のドラパルトだ。
ドラゴン使いに対して、エスカが唯一持っているドラゴンタイプのポケモンとのバトルは観客が見たかった絵だろう。
ドラパルトの厄介さはドラゴンタイプを知っているからこそ、キバナは湧き上がる高揚感に口角を上げて笑う。

(エスカのドラパルトはダンデのドラパルトと比べて攻撃特化というより、スピード特化だったな。短期決戦か)

キバナはすなあらしが続いている間に決着をつけようと、先手を打ってドラゴンクローを指示する。
だが、そのドラゴンクローを読んでいたエスカはゴーストダイブを指示し、ドラパルトはその場から姿を消した。


「流石、やっぱり速いなエスカのドラパルトは……!だが……!」
「何をする気……、っ!ドラパルト!」


地面の中に潜り込んで消えてしまったドラパルトの姿を探してきょろきょろと辺りを見渡していたフライゴンだったが、キバナは冷静にじしんを指示する。
砕けた地面の岩々が身体に当たり、ゴーストダイブを相手に当てる前にダメージを負ってフィールド上に飛び出て来てしまったドラパルトに、エスカは苦い顔をする。
機転が利く冷静な指示はジムリーダー最強を名乗るに相応しい人だ。

すなあらしのダメージを食らいながらも、ドラパルトとフライゴンは空中戦を繰り広げる。
フライゴンのストーンエッジを砂嵐吹き荒れるフィールドを高速で移動するドラパルトは技を避け、石がフィールドを守る障壁に当たって砕け散る。
避けながらもドラパルトは砂に隠れようとするフライゴンに、ドラゴンクローを掠めながらも当てていく。


「そろそろ砂嵐も終わるか……っ、ドラゴンクローだ、フライゴン!」
「それなら好都合ね……至近距離なら外しはしないわ、ドラパルト!」


フライゴンのドラゴンクローが当たった瞬間。
ドラパルトが所持していたきのみの力でその威力が弱まった。かみくだくは防げないが、決めに来るときは必ずドラゴンタイプの技で仕掛けてくると予想していたからだ。
ドラパルトの頭部に納まっていた二体のドラメシヤが高速で発射され、すなあらしの中でも紛れられなくなった至近距離で二回の攻撃がフライゴンの体を吹き飛ばした。
その一撃で終わらず、ドラパルトは素早い動きで追撃する。

氷のような瞳にその瞬間を映し出す。
フライゴンの体はフィールドに吹き飛ばされ、起き上がろうと首を持ち上げようとするが、ふっと糸が切れたようにフィールドに倒れ込む。
先に最後の一体になったのがキバナの方だったことに動揺が広がり、どよめきは波紋のように広がる。
そんな試合の様子を冷静に見守っていたダンデとルリナは、追い詰められたように見えるキバナと、優勢のように見えるエスカを見て、どちらが勝つかは未だに分からない均衡状態だと判断する。
勿論本人たちが一番自覚していることだろうが。


「二人の試合は、熱くて面白いな。思わずリザードンと混ざりたくなる!」
「あれだけキバナに連勝しておいて……まぁ、そういう所が凄くらしいけど……」
「それだけ、二人の試合がトレーナーを刺激するものだということだが、この後の試合展開をどうするか楽しみだ」
「エスカ……ジュラルドンを相手にどのタイミングでダイマックスを使う気かしら……私との時は、グレイシアじゃなかったけど」


何せ、キバナのジュラルドンは彼の手持ちの中で最もキバナの指示を理解しており、練度は高く、純粋に強い。
それに対してエスカのドラパルトも傷付いており、パートナーであるグレイシアも二戦の活躍もあり、半分ほど体力がなくなっている状況だ。


――最後の一体。オレ様のパートナーの、ジュラルドン。
あぁ、あの時もエスカには最後の一体まで引きずり出された。セミファイナルトーナメント準決勝の相手は二体のポケモンを見せることは無く終わったが、エスカには苦戦した。
機転は利くのに精密機械のような印象を当初受けたことを思い出す。
当時はエスカの涼やかな瞳に滲んでいる穏やかな色が気に入った。感情の波が無いように見えて、闘争心や高揚感が気に入った。ただ、それだけ。


「ここまで追い詰めてくるなんて、やっぱり流石だぜ、エスカ」


彼女の人生に、自分という人間が特別であることをキバナは知った。
他の人間にもきっと見せているだろうと思っていた表情や言動。その一つ一つが特別なものであると。

キバナは瞳を細めて、ジュラルドンのボールを握り、ダイマックスバンドを光らせる。


「キョダイマックスだ、ジュラルドン!」


――エスカにだけは、オレ様は勝ち続ける必要がある。


フィールドに降り立ったキョダイマックスの姿のジュラルドンは、高層ビルを思わせるような姿へと変わる。
ドラパルトを見下ろし、咆哮する。キバナの指示でキョダイゲンスイを使用しようとしたジュラルドンに、動きの速いドラパルトは即座に反応する。

「ドラパルト、耐え忍ぶわよ。ゴーストダイブで避けて!」

スタジアム全体を揺らがすような攻撃を、地面に潜り込むことで避けたドラパルトはジュラルドンの背後に回り、その尻尾でジュラルドンの足元を薙ぎ払う。
一瞬よろけはしたが体勢を立て直すと、一撃食らうことは想定済みだったのか、間髪入れずに再度キョダイゲンスイを使用する。
その衝撃に体力ぎりぎりで耐えたドラパルトは険しい顔で息を荒げる。自分だけではこのジュラルドンを倒しきれないかもしれないと解りながらも、それならせめて一矢報いる為に。

ドラパルトの発射口から射出されたドラメシヤによる二回の攻撃はジュラルドンにとって効果があったが。
体力が向上している状態のジュラルドンには、決定打とはならなかったのだ。
猛々しいキバナの指示で出されたダイドラグーンがドラパルトを襲い、審判は土煙で見えなくなっていたドラパルトの姿を確認して叫ぶ。


『エスカ選手のドラパルト、戦闘不能!これで両者ともに、最後の一体になりました!』


――エースポケモンのジュラルドンと、半分は体力を消耗しているグレイシアだけになった。
ドラパルトが耐えてくれた攻撃の回数を考えると、グレイシアもあと一撃耐えきれば、何とかなるかもしれないが。
キバナは、本当に強い。肉薄出来ているのが信じられない程に強いし、何よりかなり対策をされているのも分かる。

それなのに。
こんなにも鼓動は逸る。
しんしんと積もっていた筈の雪は溶けて、溶けて。
貴方への敬意や自分とのバトルに真摯に向き合ってくれていることの感謝。それから、恋心。表面上に現れて、隠せなくなる。


「貴方に託すね、グレイシア」


頷いたグレイシアをボールに戻したエスカはバンドを輝かせて、ダイマックス化させる。
湧き上がる観客の声は、殆ど聞こえていなかった。元々ファンサービス等はしない方ではあったが、試合中もスタジアム全体の雰囲気を感じることは出来た。
しかし、キバナとのバトルの時は常に、耳に届く音が選ばれる。

雑音はそぎ落とされて、そぎ落とされて。
目の前に居るキバナと、そのポケモンに焦点が合わさる。


「そろそろ終わる頃ではあったけど……キバナの得意フィールドから私の得意なフィールドに変える」


エスカの指示に従い、グレイシアは足元から冷気の塊を放ち、フィールドを氷漬けにする。キョダイゲンスイとダイアイスがぶつかり合い、冷気がスタジアムに広がっていく。
はらはらとあられが降り出したと同時に、時間切れになったジュラルドンのキョダイマックスは解けて、元のサイズに戻って行く。
巨大な体となると、削られていた体力は一時的に増えるが、避けることが難しくなる。
グレイシアにとって有利な環境は整っている。あとはもう、お互いの体力が尽きるタイムリミットまで最後の気力を振り絞るだけだ。

タイプの相性的には圧倒的に不利なグレイシアではあるが、ダイマックスした際に振らせたあられの中、ゆきがくれの特性を利用して、ジュラルドンのストーンエッジを避けていく。
ジュラルドンの技は全て攻撃技だ。そうなるとミラーコートはもう使えない。
グレイシアの攻撃は主に氷の攻撃になるだろうと考えていたキバナだったが、ここでも過去とは異なる誤算が生じる。
エスカが指示したのはめざめるパワーだった。想定外の攻撃を避けきれなかったのだが、ジュラルドンの体が大きく傾いたことにキバナは目を丸くする。

「めざめるパワー……ってもしかしてジュラルドンのダメージ見る限り、はがねに有効なタイプか!?」

かくとうタイプのめざめるパワーをジュラルドン対策に用意してきたエスカの策に気付いたキバナは、ジュラルドンにボディプレスを指示して、めざめるパワーを使用しようとしていたグレイシアを圧し潰そうとする。
間一髪避けたが、フィールドに付きだした岩々は突き刺さり、ただでさえ体力の少ないグレイシアが限界に達していることをエスカは分かっていた。
もう十分よくやってくれたと言いたい所だが、負けたくないと考えてしまうのはトレーナーであるからであり、そしてそれは戦っているグレイシア自身もだった。


「シア……!」
「えぇ、グレイシア、これで最後よ!フリーズドライ!」
「ジュラルドン、アイアンヘッドだ!」


グレイシアが放った氷の息吹に足元から凍り付いていったジュラルドンだったが、それだけでは止まらなかった。
直撃したアイアンヘッドによって小さなグレイシアの体が吹き飛ばされ、ジュラルドンは半分ほど体を凍り付かせた状態で衝突した衝撃で後方に吹き飛ぶ。
砂煙をあげながらフィールドを滑った二体の状態を確かめるべく、観客たちは固唾を呑んだ。

立ち上がろうとするも、ふらりと先に倒れて目を回したのは、エスカのポケモンだったのだ。


『――グレイシア、戦闘不能!よって……勝者、ナックルジムのジムリーダー、キバナ!』


沸き立つ歓声にスタジアムは揺れる。
キバナのジムチャレンジ時代の接戦。それの再現どころか、洗練された試合を見られることが出来たからだ。
グレイシアを戻したエスカは空を仰ぎ、スタンディングオベーションしている観客たちを見る。

勝負と言うのは常に残酷だ。片方の勝利を願い、片方の敗北を願う。
それでも、両者の研鑽や拮抗する洗練された技術に対して純粋に尊敬し、感謝する性質があると、エスカはリーグ委員を通じて知っていた。

悔しさも勿論あるけれど――それ以上の清々しさが胸の奥まで吹き抜ける。
全て出しきって、あの頃以上に晴れやかな気分だった。
風によって運ばれる冷気が肌を震わせる冬から、春風の温かな風と柔らかな日差しに雪が解けて、新芽が芽吹く気分とはこういう事なのだろう。
ふっと微笑みを零し、戦ってくれたポケモン達を労うようにボールを撫でて、フィールドの真ん中へと歩み寄る。

キバナはエスカの解けた顔に、少年のように笑った。


「……最高に、いい試合だったぜ、エスカ」
「……うん。ありがとう、キバナ」


エスカもまた今まで見せたことの無いような綻んだ表情で微笑み、キバナと握手を交わす。
その時の体温を、高揚を、きっと何時までも忘れることは出来ないだろう。


――準決勝の勝者による決勝が行われたのは翌日の夕方のことだった。
兄であるネズのジムを引き継いだマリィとキバナによる決勝戦。兄であるネズが自分よりも才能があると太鼓判を押すマリィの強さは確かに本物だったが、優勝トロフィーを手にしたのは現ジムリーダー最強のキバナだった。
閉会式が行われ、一部と二部のジムリーダーによるトーナメントは新米ジムリーダー等の活躍もあり、大歓声の中、幕を閉じたのだ。

こういった大会で優勝トロフィーを貰うのは慣れていたキバナにとって、優勝という肩書は嬉しいが、本当に欲しいトロフィーではないことを常々思っていた。
何せ、本当に欲しいのはダンデを倒したことによるチャンピオンという称号だった。
だが、今回の優勝は特別喜んでいることをキバナは自覚していた。エスカとの試合を何年かぶりに出来たというのは、それだけ意義があったのだ。

(こんなに嬉しい"大会での優勝"っていうのは、久々だな)

余韻に浸りながら、キバナは早々にスタジアムを出てホテルへと戻るのではなく、きっと来てくれるだろう人を待っていた。
無人になった控室という場所で、彼女の答えを聞くために。


――決勝戦を見届けたエスカは、控室に向かってカツカツとヒールを鳴らしながら向かっていた。
一体どんな言葉を伝えようか。そんなことを考えてみても、胸の鼓動が速くなるばかりで、結局答えはまとまらなかった。
それでも、たった一つの想いだけは明確だ。それは昔から変わることのない想いだ。
控室の扉を開いたエスカは、ベンチに座るキバナを見つけて、凛と鈴の音のような声で呼び止める。キバナはひらひらと手を振り、エスカをそのターコイズの瞳に映した。


「……優勝おめでとう、キバナ」
「ありがとな。新チャンピオンに挑む人間として、ジムリーダー最強は最低限譲れなかったしな」


彼が最強のジムリーダーたる理由を、身をもって再認識した。
チャンピオンにはなれないなんて囁かれていても、エスカにとって一番特別なトレーナーはキバナだ。その事に、変わりはない。


「……なぁ、エスカ」


ベンチから立ち上がったキバナは真っ直ぐとした瞳に、少しの期待感を織り交ぜて、彼女を見下ろす。
ベランダ越しに話すその距離感がナックルジムを担当してもらい始めた当初の限度だった。
けれど、今は手を伸ばせば届く。そんな距離にエスカは居るのだ。

キバナに伝える為に声を出そうとすると喉が、唇が震えた。元来、感情を曝け出すことは苦手だった。
上手く伝えられず、器用に伝えることが出来ない元来の素っ気なさ。
感情表現が豊かな人々に引っ張ってもらって、新しい景色を見て来た自分自身。
新しい場所へと踏み出す切っ掛けを与えられてきた自分自身。

全て、その切っ掛けになったのは目の前にいる青年なのだ。


「キバナ。私はずっと前から……ううん、この先も」


――貴方に対して、自分にとってたった一つの憧憬を抱いた。
頬が薔薇色に染まることを知ったのは、貴方に出会ったからだ。
この二か月待ってくれた貴方に、その想いを伝えるべきなのだろう。


「貴方に、恋をしてるの」


報われる必要もない。伝える必要もない。
そんな風に考えてそっと胸の奥に閉じ込めて大切にし続けた恋心。

何時の間にか、キバナが歩いていく未来に別の誰かが居て、今当たり前のように出来ているやり取りも日常も無くなるのは少し寂しいと思うようになっていた。
それでも、きっと彼が『誰か大切な人が出来た』と言ったら受け止めていただろう。
寂しさや、胸が締め付けられる息苦しさを初めてその時に知るとしても、貴方が幸せならばそれでよかったと、降り積もらせて消化することはなく、凍らせて。

エスカの一途な愛情に、キバナは唾を呑んで、弾かれたようにエスカの腕を引いて抱き締めた。
ずっとそんな感情を抱いてくれていたかもしれないのに気付けず、ルリナに言われてからも本当なのかどうか分からなかった。
こんなにも、自分の前では感情の糸がはらりと解けた表情を見せてくれているというのに。


「……私、キバナに見える場所に戻れた、かな」
「そんな心配しなくても、オレにとって何時までも無二の好敵手だったっての。そんな所も含めて、エスカのことめちゃくちゃ好きだって昨日自覚したんだけどな」


キバナの言葉に、エスカは特に言葉を返さない。
淡々と流す所があるが、抱き締められてパーカーに顔を埋めたエスカの表情が見えなくなることに気付いて、大分背の低いエスカを見下ろしたキバナは気付く。
その耳が、朱色に染まっていることに。

『気になる人が居たら流石のエスカも固まったり、照れたりするだろうけど』そんなソニアの言葉を思い出して、青年の愛情は膨らむ。
彼女は淡々として見える表情に隠しているだけで、その実は照れているのだ。
好きな相手のいじらしい姿を見て、何も思わない男ではない。寧ろ、続々と震えるような高揚感を覚える。


「……なぁ、めちゃくちゃお預け食らった分、色々奪っちまっていいか」
「……、……だめ」


弱々しい否定だった。
けれど、拒絶している訳ではない伏し目にその言葉の裏側に隠された返答を知る。
感情が希薄などころか、こんなにも自分の一挙一動で照れてくれている姿は、体温でじんわりと溶けていく雪の結晶の華のようだ。

キバナは膝を曲げて屈み、エスカの目線に近い姿勢になると、上を向かせた彼女の頬にそっと手を触れる。

艶やかな唇に触れるように重ね合わせる。一瞬見えたエスカの瞳が羞恥に潤んでいたのを見て、更にもう一度。
食らい付くように口付ける。愛情を誓う騎士のような物ではない、もっと本能的な愛情表現。
そっと吐息を吐いたエスカの頭を撫で、キバナは問いかける。


「今までお隣さんだったが……一緒に暮らそうぜ、エスカ」
「いい、の?」
「結婚を前提にお付き合いじゃ、駄目か?」


照れ臭そうに口にしたその告白に一体どんな反応を返してくれるのか。
拒絶はもうきっとされないだろうとは思いながらも、キバナは彼女の反応を恐る恐る見る。
今度こそ、決して気まぐれや親切心を装った提案なのではないと伝える為に。

氷雪を陽射しで溶かした後の景色が、葉に乗った雫に陽光が反射して光り輝く美しさを知っている。
多くの人が気付けないとしても。涼やかな言動以上に温かな物が彼女には確かにある。


「……ううん、だめじゃない」


憧れて、そして恋心を抱いて秘めると決めたあの頃の少女は、恋心が愛に変わることを知ったのだ。