朝焼けのスピネル
- ナノ -

11

ナックルシティのジムは、8つあるジムの中でも最難関と謳われるジムだ。
故に、トレーナーにとってもジムトレーナーになりたいと憧れの的になっている。
勿論トレーナーにもそれぞれ得意なタイプもあるから、ジムの優劣関係なく、自分が憧れたジムリーダーの元に行きたがるトレーナーの方が多いのだが。

キバナのジムには、若い優秀なトレーナー達が集まっている。
日々、キバナによってトレーニングを受けている彼らは、全員が全員ドラゴンタイプ使いという訳ではない。
だからこそ一つのタイプだけではなく、あらゆるタイプの研究を欠かさない。そういった意味で、彼等にナックルジムのジムトレーナーは優秀であるという自負があるのは確かだ。
そんなナックルジムを担当する委員の人に対する興味を、彼等は持ったことが無かった。
実際に訪れるトレーナー達と戦う責務を負っているからこそ、別のセクションであるジムの運営に興味を持たないのも当然だろう。
だが、今回の実行委員は異なった。現に日々話題となっていた。


「キバナさん、またかなり機嫌がいいんだよね」
「そしたら、エスカさんのことじゃない?」
「多分そうだよなぁ……」


トレーニングを終えて、控室で休憩をしているトレーナー達はキバナの機嫌が妙に良いことに引っ掛かっていた。
クールダウンをしに行ってこの場から居なくなったのをいいことに、キバナに関する話をする。
キバナは普段明るく穏やかではあるが、バトルの時はスイッチが切り替わったように猛々しくなる。
そういった面をもう知っているトレーナーとしては、彼の機嫌が特にいい方向の時は分かり易いのである。

スポーツタオルで汗を拭きながら、ドリンクを飲んでいた彼らの控室の扉をトントンと控えめに叩く音が聞こえて全員が顔を見合わせる。
扉を叩いている時点でキバナではないのは確かだろう。「どうぞ」と声をかけると、中に入って来たのはこのジムとスパイクタウンのジムを任せられている実行委員を担当しているエスカが入ってきた。
もう今では彼等にとって、馴染みの人となっていた。


「こんにちは、エスカさん」
「どうもこんにちは。トレーニングの後だったんだ。変なタイミングに来てごめんなさい」
「いえいえ、いいんです!キバナさんですか?」
「今日は受付担当者の人と打ち合わせに来てただけなの。それで、トレーナーの貴方たちにも意見を聞こうと……」


回答に対して少しがっかりした様子のトレーナー達に、エスカはびくりと肩を揺らす。
何か悪いことでも言ってしまっただろうかとおろおろしているエスカに、彼等は慌てて弁解する。
キバナに会いに来たと言ってくれることを勝手に期待してしまっていただけなのだ。しかし、全員目くばせをして「キバナが彼女のことを好きだ」という余計な情報は伝えないようにと頷く。
三人の含んだような顔をじっと見ていたエスカは、彼らが全員眼鏡をかけていることが気になってふと問いかける。


「そういえば、何時も気になってたんだけど、皆どうして眼鏡をかけてるの?偶然?」
「えっと……元々目が悪い人も居るんですけど、キバナさんがこのジムに居たら眼鏡をかけておいた方がいいって言ってくれて」
「キバナはかけてないのに?」
「キバナさん、よくすなあらしを使うじゃないですか。キバナさんはもう慣れているらしいので眼鏡なんて無くても大丈夫らしいんですが、僕らはやっぱり目の前を見るのが大変で」
「なるほど……そういう理由だったんだ」


キバナの試合は天候が目まぐるしく変わることで有名だ。
その中でも特に砂嵐をよく使う彼のバトルを間近で見る彼らが目を傷める可能性があるのは確かだろう。
キバナの気遣いに、流石だと感心しているエスカを見ていた彼らは、再び顔を見合わせて頷く。聞くなら今しかないだろう、と。


「あの……エスカさんって、お付き合いしている人とか、いらっしゃるんですか?」
「……え?」
「素敵な女性だから、そういう方がいるのかな、なんて」
「……えっと、そんなことはないんだけど。それに、そんな人は居ないけど……」
「!そうなんですか!好きな方とかも、居ないんですか」
「……好きな人?」


エスカの表情があまり変わらないことに、三人は固唾を呑む。
動揺しているようには見えないから、エスカに好きな人が居るかどうかを表情と声音では測れない。
暫く黙った後、エスカは微笑みながら小さな声で「内緒」と答えたのだ。


――全員から仕事に必要な意見を聞き終わったエスカが帰ってしまった後、キバナは休憩を終えたジムトレーナー達とミーティングをするために、ブリーフィングルームへと足を運んでいた。
キバナが部屋に訪れたと同時に立ち上がって頭を下げるジムトレーナー達ではあったが、彼等の表情が妙に微笑ましそうな、どこか企んでいるようなそんなものだったことにキバナは首を傾げる。


「どうしたんだ、お前ら?」
「キバナさん、さっきエスカさんが立ち寄ってくれたんですけどね」
「えっ、来てたっていうのにエスカはオレ様に何の連絡もなしか?冷たいっていうか、スルーかよ……」
「キバナさんの仕事をあまり邪魔する訳にはいかないからと言っていましたが……」
「ま、そういう所がエスカらしいか」


彼女の淡々として見える性格は今に始まったことではない。
前も、話しかけなければ横を素通りして行かれることもあった位なのだから。


「それで、お話してたんですけど。エスカさんに好きな人が居るんですかっと聞いたら、内緒ってはぐらかされたんですよ」
「!?へ、へえー……」


ジムトレーナーから飛び出した衝撃的な一言に、キバナは目を開く。
一瞬興味が無さそうに視線をわざとらしく逸らしたが、続きが気になるのかちらりと視線を向けてくるジムリーダーに、トレーナー達は『この人は本当に分かり易い』と思いながら笑いを堪えていた。
意味深に曖昧な言い方をするエスカに、煽られている気にもなるのだ。
好きな人はいないと断言されていたら、ルリナに言われたことはもう今のエスカにとって過去のことであり、脈なしの確率が上がっていた所だったが。
先日一緒にワイルドエリアに行ってくれたことも含めて、少しは彼女の中で特別な人間の部類に入っているのではないかと期待して止まないのだ。

ただ、やはりこの件を胸の内に秘めておくのもむず痒くなったキバナは、手早く友人にメッセージを打つ。
ダンデは都合が合わないと来られないだろうから、ナックルシティと近い場所に住んでいる彼に。


――夜も深くなった時間帯。この時間から騒がしくなる場所がある。
一日の疲れや不満を忘れる為に。或いは仲間とただ楽しむために。アルコールを交えて、
ナックルシティのパブに、二人のジムリーダーの姿はあった。突然呼び出されたネズは、キバナがぐっと喉を鳴らして酒を飲む姿に、またかと振られるだろう話題を予知していた。
そして、案の定その話題だったのだ。


「ってことなんだよネズ!」
「急に飲みに誘われたかと思えば……そんなことですか」
「そんなことって、おいおい。……ワイルドエリアに一緒に行った日も、誰でも誘う訳じゃないって言ったんだけどな」
「はぁ……そこまで言っているなら、誰に好意を抱いてるのかもう聞いてしまえばいいではないじゃないですか」
「……」


単刀直入に一番決着の着く方法を提示してくるネズに、キバナは苦い顔に変わる。
それで親しい男友達だからといって話してくれた挙句、違う男の名前を挙げられるのは最悪のパターンだ。
キバナは手に持っているグラスをカランと鳴らして、鼻腔を掠めるアルコールの香りに、自らの気が緩んでいくのを感じていた。
お酒が入ってくると、普段は言わないようなことも、するすると糸が解けるように出てくる時がある。


「なぁ、ネズ。『エスカはキバナが好き』って数年前にルリナに言われたんだが、どう思うよ」
「……それ、本当ですか?」
「その直後にルリナは否定してきたけどな」
「エスカの感情は分かり辛い所がありますからね……でも、異性としてかどうかは俺には断言出来ないですけど、好きなことには変わりないのでは?」


友達としての好きか、それとも異性としての好きなのか。
その分類を考えなければ、間違いなくエスカはキバナのことを好いているだろうと周囲も断言出来る。
だが、キバナの求めてるものはそれではない。男女としての関係だ。
その辺の特別な感情が希薄そうなエスカにどうその変化を求めていくのか、難しい所だった。

ーー触れたいか?
抱き締めたい。
ーー甘えられたいか?
存分に愛してしまいたい。
ーー求められたいか?
抱いてしまいたい。

そんな欲望が酒の力も借りて露見してしまいそうになる自分に気付いて、キバナは誤魔化すように更にぐっと喉にアルコールを流し込む。


「酔いつぶれないでくださいよ、キバナ。俺はキバナを運べませんから」
「はは、オレ様はネズを家に送り届けたことあるけどな」
「……あの時の『酔い潰れたの、アニキ』と呆れた顔になってるマリィは今も忘れられませんよ……」


軽い体を肩を抱えて歩きながら彼の家へとたどり着くと出迎えたマリィの軽蔑した顔を見たネズが酔いながらもかなりショックを受けていたのを覚えていたキバナは笑った。
キバナの体格を考えれば、男二人がかりで持ち上げてなんとか移動させられそうな位だ。
それを本人も承知しているし、ネズと二人で飲んでいるとなれば余計に酔い潰れるわけにはいかないと自制心が働くのだ。

そのおかげもあって、ネズとパブを出て別れたキバナは、火照る体を手で仰ぎながら帰り路を歩く。
ぼんやりと、キバナはたゆたう思考を巡らせる。
この間のワイルドエリアで久々にポケモントレーナーとしての凛とした姿を見られたのは良かったな、だとか。
自分が捕まえたいと思っていたこおりタイプのポケモンを見付けた時に流石に分かり易い位目が輝いていたのは可愛かったな、だとか。
一緒にダイマックス戦をしてみた時の、二人でのバトルは堪らなく楽しかったな、だとか。

意識を飛ばさずに帰宅できたのは、そんな風に想いを巡らせて考えていたからだろう。
帰宅したキバナは荷物を机に置いて、キッチンの冷蔵庫を開ける。
店で水を飲んで中和してきたとはいえ、明日に支障をきたさないようにと追加で水を一杯飲み、頭を冷やすようにベランダを空けて外の涼しい風を浴びる。
「あー……」と声を上げながら、冷たい空気を吸い込んで、ふわふわと浮つく頭を冷静にする。

冷静にしようとしていたのだが。
ガラリと音を立てて隣のベランダの扉が開く音に気が付いて、思わず隣のベランダを覗き込んだキバナはエスカの姿を見付けた瞬間に頬を緩めた。
目が合ったエスカは手をひらひらと振って挨拶を交わすが、ほんの少しだけ赤らんだ顔に、キバナが普段家で飲むときよりも酔いが回ってる状態なのだと気付いた。


「ベランダが開く音がしたから居るかなと思ったんだけど。……キバナ、大丈夫?」
「ちょっと酔いが回っててな」
「珍しい……私と飲んだ日も大概キバナは平気そうなのに。明日もあるのに本当に平気?」
「水飲んでおいたから大丈夫そうだぜ」


親指を立てるキバナの顔を覗き込んで、酔い潰れる程ではないようだと納得して「それじゃあ早く寝た方がいいわね」と呟く。
このままだと部屋の中に戻ってしまいそうだと感じたキバナは、ゆっくりと口を開く。
先ほど散々冷静になろうとしていたのに、全く冷静になっていないことをぼんやりと自覚していた。


「……なぁ、エスカ?」
「なに?」
「遠慮して今日は先に帰ったって聞いたんだけどな」
「うん。ジムリーダーの仕事をあまり中断させるわけにもいかないから……」


相変わらず、そこに関しては淡々と悪気もなく答えるのがエスカという女性だ。
公私を程々に分けようとする所には寧ろ真面目さを感じられる美点でもあるのだが。
キバナの本音はそんな着飾ったものではなかった。
風呂上がりなのか、髪をまとめ上げて部屋着を着ている女性を見下ろして、散々ネズに零したはずの本音が湧き上がってくる。


「エスカだったらオレ様は、何時でも大歓迎だぜ」
「……!」
「あー、なんか変な話しちまったな。先に寝るぜ」


好きな人を誘うような細められた目は、彼女を真っ直ぐと射抜いていた。
エスカにしか見せたことのない顔。しかし彼女にも見せないようにしていた顔だ。
自分が今どんな顔をしていたか、我に返ったキバナは無邪気な顔で笑い、エスカに礼を述べて自室へと戻って行く。

部屋に戻った後、頭を掻いて「こんなんお前が好きだって言ってるようなもんだよなー……」と呟いて反省するキバナの姿なんて、言われたエスカには見えてない。
長く付き合いがあるけれど、初めて見た表情だったのだ。
バトルの時に見せる獰猛な、闘争心剥き出しのあの目に似ているけれど、それでも少し違う熱を帯びた色。

――きっと、お酒を飲んでいたからだ。
そう思いたいのに。

「やっぱり、キバナはずるい……」

キバナが居なくなった後の静かなベランダで、エスカはしゃがみ込む。
胸に手を当てると、とくとくと鼓動が早くなっていた。
普段は静かな胸の鼓動も、感情も。簡単に不具合を起こす。そんな心の未熟さに、エスカは困惑していた。
恋心というものが膨大な熱を帯びていることを、彼女は理解しきらずに。

そして本当に本当に、小さな声で「……好き」と呟き、静かな夜に溶かしていくのだった。