coral
- ナノ -

言葉に出来ない幸福論

バトルファクトリーに、事件が起こった。


そうは言ったものの、別に盗難があったとか係員が襲われたという物騒なものではないが、バトルファクトリー全体の空気は非常に重たい物になっていた。
何時もならフロアで談笑しながらも仕事をしているアズサなのだが、今日は深い溜息を吐きながら無駄にマウスを右クリックして気を紛らわしている。珍しくその場にネジキの姿は無く、パソコンが稼動する音と時計の針が進む小さな音さえ響いている。

ネジキの噂が災いしてだろうか、元々この施設に勤めている係員の数は全てを一人でこなしてしまうコクランが居るバトルキャッスルよりも少ない。事務業のみを行っている人はアズサしか居らず、他の係員は皆挑戦者の対応をする役に付いている為人手が足りなくなった時のみ記録整理を手伝っている。しかし、それもアズサが行っている為にこのフロアに来る事もあまり無い。
だから自然とネジキと二人で居る事が多かったのだ。勿論、他の係員との仲も良好なのだが、やはり彼と居る時間が圧倒的に長かった。

はぁ、ともう一つ大きな溜息を付いた時、助手である白衣を着た女性がフロアに入ってきた。


「今日も部屋から出て来ていないんですね、ファクトリーヘッド」
「……そうなんです。こんなの初め…いえ、私がバトルファクトリーに来た日以来です」
「私達としては彼が部屋から出てこないのはごく当たり前の事だったのですが……最近の彼は少し雰囲気が変わりましたからね、アズサさんを無視して没頭するなんて一同心配しておりますよ」


困ったような顔をして助手の女性は廊下の奥へ視線を送る。閉じられたネジキの部屋の扉が開くことは無く、重たい空気さえ漂っているのだ。流石の私でも出て来いと扉を爆破するなんて荒業は出来ない、というよりもする気にならない。

全ての原因は昨日のバトルファクトリー挑戦者とのバトルにあった。
ネジキは非常に頭が良く、フロンティアブレーンの中でも随一と言える強さを誇っているが、彼だって必ず負けないという確証は無いのだ。

詰まる話、ネジキは二一戦目とはいえ挑戦者に負けた。

このバトルファクトリーに勤め始めてから一度も彼が負けた所を見た事がないし、助手曰く約十一ヵ月ぶりだというのだから、その事実の方が驚いたものだ。毎日数多くの屈強な挑戦者が来ているというのに長く負けていなかったとは。


「バトル終了後から会っていないのですか?」
「いえ……少し部屋で作業をしますので、って言ったきりです。……入ってくるな、って意味ですよね」
「彼は誰よりもフロンティアブレーンとして、そしてファクトリーヘッドとして真面目…とでも言っておきましょうか。自分を負かせる挑戦者に会う事を何より楽しみにしておりますが、それ以上に負けたくないというプライドがあるんですよ」
「今頃、次は負けないようにと知識を増やして色んな状況に合わせた戦略を練っているのは分かってるんです、けど……」


けど、と言葉を切ったアズサの顔を助手が無意識に覗き込むと、今にも泣き出しそうな顔をしていて目を疑った。
ファクトリーヘッドが何をしようが余計な口出しをしない、それは此処で働く人間にとって暗黙のルールの様なものだった。怒られるからではない、ネジキが他人に興味を示さない為に注意した所で意味の無い物だと知っていたからだ。
だから今回の件も今までと状況が少し違うとはいえ、彼に干渉しようと考えている者は居ない。目の前の、彼女を除いて。


「このままだと…次の挑戦者が来るまで、出てこない、気がするんです。だから、」



部屋に響くのはパソコンのキーボードを叩く音や起動させている自作の機械の音のみ。瞼が重いのを誤魔化すように目を擦り、また画面に向かって色んな状況に応じたシュミレーションを繰り返す。
時計の針は既に昼を指しており、丸一日経っている事が分かる。その間睡眠も休息も取っていないネジキは本来疲れているはずなのだが、今の彼には疲れなどどうでもよかった。

それ以上に次こそは負けてはならないという思いが強く、眠気が襲ってくるどころかやけに頭が冴えていた。
心のどこかでアズサはどうしてるだろうか、と考える自分が居るのだが、これではいけないと頭から無理矢理振り払う。再び止まっていた手を動かそうとしたとほぼ同時。
部屋にフロンティアブレーンを呼ぶ時に掛かる音楽が流れくる。


これは丁度良い、成果を出す機会がこんなにも早く来るとは。


「……次こそは、負けられないからなー」



勝ったその先に待っているのは?

――この時点では、昨日今日の延長線である飽くなき勝利への追求しかなかった。


ちょうさ・ぶんせきマシーンで画面を覗くとその組み合わせに眉を潜めた。一言で言ってしまえば非常に対策の練りづらい組み合わせなのだ。
レアコイル、エンペルト、サイドン。二十勝の時点でこの組み合わせならば、これは変えてこないだろう。

レアコイル対策として炎か地面を持ってくればエンペルトに交代される。エンペルト対策として電気を持ってくればサイドンに交代され、サイドン対策に水か草を持ってくればレアコイルに交代される。
負けたとはいえ昨日の挑戦者以上に頭の切れる人が来ているようだ。

これは面白い、ネジキは笑みを浮かべるとレンタルポケモンの保管庫へと向かい、三個のモンスターボールを手にとって何時も自分がバトルフィールドに登場する際に使用するリフトがある部屋へと足を運んだ。


ーードカン、という音と共にバトルフィールドに上がる事が二日続くとは。薄れていく黒い煙の間からは挑戦者の姿がぼんやりと見える。どんな人か、と考えるよりも前にネジキは目を丸くする事になった。

一体どうして。
珍しくも動揺している自分が居て、挑戦者に何時も掛ける言葉さえも出てこなかった。バトルにおいて、ファクトリーヘッドとして挑戦者に立ちはだかる時の自分が私情を挟むことなんて今まで一度たりとも無かったと言うのに、酷く動揺してしまっている。
何か声を掛けようと思う前によく見慣れた挑戦者の方が先に口を開いた。


「ネジキ」
「どーして、アズサがこの場に……」
「私がここに居る理由は一つだけ、挑戦者としてフロンティアブレーンに挑みに来た!」
「……、分かりました、受けてたちますよ」


アズサの言葉に納得するよりも先に挑戦者を迎える者としての高揚感が込み上げて来る。
彼女は手強い挑戦者で、非常に優秀なトレーナーだ。一番傍で自分のバトルを見てきて、レンタルポケモン達の事を良く知っている上に記憶力がいい為に仕事で管理しているデータも大体は頭に入っているだろう。だからこそこの三匹を選んだのだろうし、恐らくレンタルポケモン達もアズサを信頼している。

とはいえ、僕も負ける訳にはいかなかったし、単純に手強い挑戦者とのバトルを楽しみにしていたのだ。


時が経つのも忘れて指示を出すネジキとアズサの手持ちは共に残り一体。レアコイルとブラッキーがバトルフィールドで戦っているのだが、どちらが優勢とは言い切れなかった。
初めにバトルした際のダメージが少し残っている上にマヒ状態のレアコイル、そして防御が堅いとはいえ幾度か電撃を食らって持ち物で回復しているとはいえ体力も少なく同じくマヒ状態のブラッキー。
ブラッキーにのろいを指示すると、この隙にと言わんばかりにレアコイルに攻撃指示を出してくる。


「10まんボルト!」
「もう少し耐えてくださいねー……っ」
「っ、ブラッキー!」


電撃を振り払ったブラッキーは苦しそうな表情をしながらも折れそうな足で立ち上がり、再び身構える。攻撃を食らいながらものろいで積んだ分、本来効果はいまひとつでも十分だろう。


「レアコイル、もう一度……!
「ジジジ……」
「マヒ……!?」
「行け、ブラッキー!」


マヒ状態を物ともせず、痺れて動く事の出来ないレアコイルにブラッキーは懐に飛び込んでしっぺがえしを繰り出した。のろいによって威力の上がったしっぺがえしの威力は重たく、レアコイルは吹き飛ばされてそのまま地面へふらふらと崩れ落ちた。
どさり、と地面に落ちたときにはレアコイルは目を回しており、それは戦闘不能を意味していた。

アズサは残念そうにしながらも小さく笑みを浮かべ、モンスターボールを取り出してレアコイルを戻した。


「……バトルお疲れ様。やっぱり、ネジキは強いね」
「一体どーしてこんなこと……」
「私は、ここに来る前までのネジキを知らないから、皆と違って余計な事もするし、いらないお節介な事だってしちゃうし」
「アズサ?」


俯きながら話し始めるアズサはいっぱいいっぱいと言った様子で、心配したネジキはファクトリーヘッドとしてこの場に立っていることも忘れてアズサに近づく。
アズサは特別余計な事をする訳ではないし、むしろ要領がいいから助かっている方だ。一体何故、彼女はこんな話をしているのだろうか。


「で、でも、ネジキと居る時間が好きだから……」
「……アズサ」
「だから、また一緒に、何時もみたいに仕事がしたい……!」


その言葉を聞いて瞬時に理解した。
そういう、ことだったのか。分かったと同時に申し訳無さで埋め尽くされる。
以前は何があろうと無かろうとずっと部屋に篭っており、アズサが来てからはそれはなくなった物の昨日の挑戦者に負けた事が原因で再び以前のような生活に戻りそうになっていた。
もし今日来た挑戦者がアズサじゃなかったとして、勝っていたら。それで満足することなく結局次こそは負けないようにと、もはや執着心のように務めにこだわって再びあの部屋へ行っていただろう。

冷静に考えてみれば、その生活は再び送るべきではないのだと分かっている。何故、そんな簡単な事を忘れていたのだろうか。

俯いたまま手を震えさせるアズサの肩をぽんと叩くと俯かせていた顔を上げて戸惑ったような表情をするが、ネジキが笑みを浮かべているのに気づくと安心したのか、ふと表情を緩める。


「なんか、最近はアズサに色々と気付かされてばっかりですねーあー何か癪だなー」
「え、何で!?」
「嘘ですよ、ありがとーございます、アズサ。……今日の夜ご飯、期待してますから」
「……!りょ、了解!」


やはり、フロアに居る方が僕には良いみたいだ。



(一日ぶりのご飯はやっぱりおいしーですね、おかわりしていーですか)
(予想はしてたけどやっぱり昨日今日と何も食べてなかったんだ……ちょっと待ってて、よそって来るから)
(……アズサって、何だかんだ良い嫁になれるんじゃ、っ、何やってるんですか)
(なな何でもないよ、手が滑っただけだから、お皿は悪くない)
(言ってる事意味分かんないんですけど……)

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