リベラ
- ナノ -

アクアブルーの家出事件


――ほんとーに、気分は最悪だった。
貸したもんは返せってちゃんと仕事をしたってだけなのに、アズールには怒られるし。
終業時間まで居る必要もないやって後片付けとか全部ジェイドに任せてモストロ・ラウンジ二号店を後にする。
帰ったら今日はコツメちゃんが居るはずだ。何時もはそれで楽しい気分になるって言うのに、今日はイライラが収まらなかった。

コツメちゃんとは同棲したばっかりで、新しい家を借りて住み始めた頃だった。
賢者の島の工房で二年間修業を積んだコツメちゃんが無事に卒業をして、小さな店舗を借りて小さな工房を開いた。
コツメちゃんには内緒で、裏で口利きをしてかなり割安で借りたって言うのは秘密だ。
ジェイド以外の他人と同じ部屋で暮らすって経験はなかったし、今までの自分の性格を考えたら飽きるだろうと思ったけど――やっぱり、コツメちゃんは違った。

何時もの帰宅と違うことがあるとすれば、機嫌が滅茶苦茶悪いせいで「ただいま」って言葉が出て来なかったことだろう。
扉の音に気付いたのか、コツメちゃんは玄関に顔を出して出迎えてくれた。

「あれ、お帰りなさいフロイド君。今日は早いんだね?」

先に帰ってたコツメちゃんは、夕食の準備をしていたのか、リビングの方から良い匂いが漂ってくる。
何時もなら「なになに〜今日は何作ったの〜」と興味津々にキッチンに覗きに行く所だったけど、モストロ・ラウンジでの頭の中を渦巻く苛々は収まらない。


「モストロ・ラウンジ、そろそろ閉店時間のような気がするんだけど……」
「……今さぁ、オレちょ〜機嫌悪いのコツメちゃん」


モストロ・ラウンジ。その単語が出た瞬間に、反射的に刺々しい言葉が口を突いて出る。
目を丸くして驚いているらしいコツメちゃんの表情が見えた筈なのに、オレの口は止まらなかった。
機嫌の荒波に任せて、激流のような感情が押し寄せて、止まらない。何時もはコツメちゃんの前では無意識に出そうと思わないし、自然とそうしようとするのに。

「オレが何時帰って来ようと、何しようとコツメちゃんには関係ねーじゃん。オレ、そういうとこ干渉されんの超嫌いなんだよね」

――あ、れ。
言った後に、間をおいてはっとした。
コツメちゃんは、オレが気分が乗らないって理由でサボろうとあまり気にしないタイプの人間だ。
時に注意をしてくれることはあっても、常に琴線に触れないレベルで甘やかしてくれる。
別に今回だって、勝手にオレが過敏に反応しただけで、コツメちゃんは『モストロ・ラウンジ』という単語を出しただけだ。

やばい、こんなこと言うつもりじゃなかったのに、コツメちゃんに今オレは何て。
何時もは穏やかなコツメちゃんが閉口したかと思うと、まだ鞄をリビングに置きっぱなしだったのか、それを掴んで魔法のクローゼットもその中に入れたのが見えた。
そして、真っ直ぐと自分を見上げて、苛々も何も吹き飛ばすことを伝えて来たのだ。

「……今は離れよう、フロイド君」

ご飯はそこにあるから、そう悲しそうに呟くと、コツメちゃんは俺の横を通り過ぎていく。
コツメちゃんと二年間、喧嘩なんてしたことなかった。
それは、相性が良かった以上に、コツメちゃんが穏やかな上に大人で、芯が強かったからだろう。

パタンと扉の音がして出て行ったのを反射的に追いかけようと固まっていた身体を叩いて家を飛び出たが、コツメちゃんの背中はもう遠くに行っていた。
――やらかした。
そう思った時には時既に遅しで。
リビングには作り立てらしい夕食の香りだけが残り香のようにあるだけだった。

(コツメちゃん、オレに愛想尽かしてもう帰ってこないかもしれない)

居なくなって、帰って来なくなるなんて。別れようと
そんな未来を考えると、居てもたってもいられなくなった。
端末を取り出して、閉店作業を終えたばかりだろうジェイド・リーチと登録された連絡先に電話をかけた。
さっきまでジェイド達にも散々八つ当たりをして帰ったなんてことはすっかり忘れて。


『おや、何ですかフロイド。機嫌が悪そうに途中で帰ったというのに』
「ジェイドぉおお!」
『!?フロイド?』


――機嫌が悪そうに帰ったから引き留めることもなく帰したのに。
涙交じりに叫んで駄々っ子のように助けを求めてくるフロイドの通信越しの声に、モストロ・ラウンジでアズールと共に驚いた様子で顔を見合わせるジェイドが居たのだ。



「……何ですかこのキノコが生えそうなくらいじめじめしたフロイドは」
「威勢よく帰った後の落差が凄いですね」


三十分もしないうちに、家を尋ねに来たのは連絡をしたジェイドと、会話を聞いていたアズールだった。
ソファに突っ伏して落ち込んでいるオレをつつきながらも、緊急事態が起きたということだけは察してくれたらしく、無視せずに家には来てくれた。
「何があったのか」という問いに対して、ぽつりぽつりとコツメちゃんに言ったことを喋りはじめると、二人はどんどん渋い顔に変わっていく。


「100%、それはフロイドが悪いかと」
「……どーやってコツメちゃんに嫌われずに戻って来てくれるか分かんねーの」
「喧嘩の時の仲直り方法ですか……生憎僕にはこれといっていい案が思い浮かびませんね。あまり経験がないですし」
「だからお前は向こうが諦めてくれてるからだろう、ジェイド」


アズールの指摘にも、顔を竦めながら「こうして僕も家に帰る時間が遅くなっている間にも、寂しがってくれているんですが」と素で嘘をつく所がジェイドらしい。
絶対そこまで寂しがられてないし。
ソファに伸びて溜息を吐き続けている身体を起こして、コツメちゃんからのメッセージが入ることのない端末の画面をぼうっと見詰める。


「家を出て行ったというなら、ミアさんの行き場は恐らく工房でしょうね」
「素直に謝りに行けばいいだろう、フロイド」
「……会いたくねーって言われたら、オレ立ち直れないんだけど」
「今無視したら、きっと本当に家を出て行かれると思いますけどね」


ジェイドの指摘にオレの心がバキバキに砕かれるようだったけど、オレの方がコツメちゃんを傷付けたってことはちゃんと理解してた。
このまま放っておいたら修復不可能になる、なんてとてもじゃないけれど勘弁だ。
ジェイドとアズールに囚われの宇宙人みたいに玄関まで引きずられていって、そして自分の足でしっかりと立ち上がる。
向かう先はコツメちゃんの工房。逃げられる可能性もあったけどそれでも『今から迎えに行くから』というメッセージを入れて、夜に街灯の光が映える街を歩きだす。
街を歩きながら「こんな夜道を街灯があるとはいえ、一人で行かせたんですね」という正論に、今回ばかりは怒ることも出来ず、その通りだと甘んじて受け入れるしかなかった。

街の大通りから少し外れた脇道を入った場所。
工房は小さいけれど、看板は目立つように取り付けられている。新しい工房だけど、コツメちゃんのお祖父さんの縁で口コミは広がってるのもあって結構依頼は多くきてる。
こういう技術職で、コツメちゃんみたいな女子がやっているのは珍しいし、人当たりの良さを思うと接客でファンが付きやすいだろうし、何より腕がいい。
外から見ても店は真っ暗だったものの、ランプの灯りが付いているのが店の奥に見えた。
これは確実に、ここに来ている。
その確信を得た同時に扉を押すと戸締りはしていなかったのか、カラン、と音を立てて扉が開く。

「……フロイド君」

休憩スペースにいるわけでもなく、コツメちゃんは作業台の横に設置してあった椅子に腰掛けて、ぼうっとしていた。
きっと、メッセージを呼んでくれたんだろう。そうでもなければ、不用心に閉店後の店の照明を消したまま鍵を開けるなんてことはしなかったはずだ。
怒ってるコツメちゃんになんて言おう。
近付いて、お互いの顔がランプの光でよく見える位置になった所で、腰を折り曲げて視線を合わせる。

「……オレが悪かったから」

素直にごめんって、心の底からこんなに素直に相手に伝えようと思ったことってなかった。
何時もそっちが怒り過ぎなんじゃん。とか、そんな風に考えてる所すらあったのだから。

「ごめんコツメちゃん、嫌いにならないで」

ぽろぽろと海水みたいなしょっぱい雫が目から零れていく。
コツメちゃんに嫌われたくない。
駄々をこねるみたいに謝っていたら、コツメちゃんが頬に手を伸ばして、指先で涙を拭ってくれた。


「ちょっと、傷付いたかな」
「うん」
「でも、フロイド君が来てくれて仲直りしようと思ってくれたから」
「……うん」
「それに、こんな風に好きって伝えてくれたの、嬉しいよ」


抱き締めてくれるオレより小さなその身体は温かくて。宥めるような優しい手に、オレ、すっげー馬鹿なことしたって再認識する。
ぐす、ずびっと鼻を鳴らしながらコツメちゃんを抱きしめる。今日は暫く離さないでいよう。


「雨降って地固まる、ですか」
「ごめんね、巻き込んで。アズール君、ジェイド君」
「まったく、初めてのことだから驚きましたよ。ミアさん、フロイドがどうも迷惑をおかけしました」


コツメちゃんは抱き締められたまま、後ろで今回の家出騒動の顛末を見守っていた二人に頭を下げた。
――そして、流石のオレでも教訓になったのだ。今後コツメちゃんに当たることだけは止めようと。


「……なんてこともありましたね、アズール。今日あの日のことを思い出しましたよ」
「今日も飽きたって帰ってしまいましたが……今回は大丈夫でしょう。『コツメちゃん摂取しよ』とか言ってましたし」


その事件を思い出しながら、客人の居なくなったホールで戸締りを確認するのはジェイドとアズールだ。
機嫌が悪そうにモストロ・ラウンジをあの日のように途中で出て行ってしまったフロイドだが、今回ばかりは大丈夫だろう。
あの気分屋のフロイドがこうも一途にミアのことを好きでいることに、安堵しているのだ。
明日にはまたきっと、上機嫌でまたモストロ・ラウンジに顔を出すのだろう。


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