リベラ
- ナノ -

ネイビーブルーの灯台


──好かれるには、どうしたらいいんだろう。

そんなことを人生で考えて悩む必要があるなんて思いもしなかった。
誰からどう好かれるかなんてもの差しで測る意味を感じなかったからだ。
自分が好きかどうか。
今話したいかどうか。
それだけが重要で、それだけが自分の判断基準。

世界が崩れていこうとしているというよりも、温かい海水が深海に流れ落ちてくるような。
そんな感覚。
けど、それが今までは心地よかったはずなのに、今はこんなにも息苦しい。
好きという感情を知らなきゃよかったなんてことは思わないが、苦しいという感情を知ったのは、初めてのことだった。


「……フロイドが何時までも来ない」

廊下でモストロ・ラウンジに行く前の集合時間。シフトが入っていてもフロイドが来ないことは多々ある。
アズールの苛立った様子に、いつものジェイドはよくあるやり取りだと受け流しながら見つかったら連れてきますと言いながらもフロイドに強制することはない。
だが、きょうは思い当たる所があり、口元に手を当てて思案したジェイドは提案した。


「今日は一緒に探しに行きませんか。フロイドが心配なので」
「フロイドを心配?事故にあった、とかではなく気まぐれで来ないだけだろう」


――昨日、寮に帰って来た時から今朝まで、フロイドの反応は何処か上の空だったことにジェイドは気付いていた。
だが、フロイドに「何かありましたか?」と聞いても、昨日は「……なんでもない」としか答えなかった。
しつこく聞いたところで、フロイドに邪険にされてより一層機嫌を損ねる気配を感じたジェイドは追及を止めたのだ。
彼の性格を考えれば、何か気に食わないことがあって機嫌を損ねたとしても、ずっとその調子が続くわけでもない。何か別のことに関心が移って楽しめば海の気候のようにころりと変わるはずなのに。
モストロ・ラウンジにも来る気がないともなると、いよいよ余程のことがあったのだろうと察する。

どこにいるか検討もつかなかったため、二人がまず足を運んだのはフロイドの教室だ。
日が傾いて、暖かな橙が教室を色付けている。いつもは賑やかな教室も、生徒は殆ど残っておらず、がらんと無人のように見えたが、一人だけ生徒がいた。
フロイドは教室の机に突っ伏して微動だにせず、首は窓の方を向いていた。
ぼんやりと空を見ているようだが、電源が完全に切れているような様子に、アズールは思わず"本当にあれはフロイドなのか"と言いたげにジェイドに視線を向けた。
彼のやる気がなくなることは別に珍しいことではないが、心ここにあらずという様子は珍しいことだった。


「フロイド、どうかしましたか?」
「あーアズール?ジェイドじゃん。今日のオレ、閉店しちゃったからまた今度ね」


顔を机に付けたまま気の抜けた声で答えるフロイドの様子がおかしいことは、アズールとジェイドにもよくわかった。
黄昏れる、そんな言葉がよく似合うような状態だ。ジェイドはフロイドの座る席の隣に腰掛け、「どうかしたんですか、フロイド」と再度問いかけた。
何せ、この時間帯はモストロ・ラウンジや部活以外にも彼の日課になっている場所があるはずだ。校舎の端にある、作業室。
彼が気に入っているミア・ブラックストンという女性がいる場所だ。
フロイドが手に握っているコンパスは、相変わらず作業室のある方角を指している。
しかし、動いているのか、その動きに合わせてゆっくりと針が動いて行ってるのはミアという人を指している証拠だった。


「あのさ」
「はい」
「コツメちゃんにさ」
「はい」
「好きって、言った」


フロイドの口から出た告白は、教室の時計の針が進む音に混じって溶けていく。
彼の様子がおかしい原因に納得して静かに頷いたジェイドと、彼女に好意を持っているということ自体が初耳だったアズールは長い睫毛をぱちぱちと上下させて瞬く。
ミアを気に入っているのは反応が楽しいリドルに絡むような感覚なのだろうとアズールは真剣に捉えていなかったために、理解が追いつくのが遅れる。


「……え?告白?コツメってミアさんのことだったよな」
「なるほど、だからですか……」


フロイドの性格を考えると、好意を誰かに気付かれるのは恥ずかしいから隠そうとする、というタイプではない。
寧ろ自分のものだからと主張して牽制しそうな所があるだろう。自分の思っていることをそのままストレートに表に出す。
それがフロイド・リーチという男だ。そんな彼がこうも悶々としているともなると、“悪い結果“という考えが頭をよぎる。


「……コツメちゃん、一年後にはこっからいなくなるんだって」
「まぁそうでしょうね。研修で来ているだけですから」
「でも居なくなって欲しくねーし、気づいた時には、もう好きって言ってた」
「……」
「返事を聞くのが、なんかさ、怖いっつーか」


吐露される、澄み渡った空のような恋心。
もしも断られたとしても、彼女のことをしばらく諦められるような気はしない。やはりそれでも「コツメちゃんが好き」だと言えた。
上手くいくはずなんて自信があるわけでもない。でも、好きで堪らないから、伝えないわけにはいかなかった。
そして、その感情を聞いている二人も、フロイドの初恋をからかうことはしなかった。


「……行きますよ、ジェイド。フロイド、今日のシフトは抜いておきますから」
「おや、アズールが珍しい」


フロイドを無理矢理連れて行くことはせず、アズールは考える時間を与える為に今日のシフトから彼を抜くことをだけを告げると、教室から出て行こうとする。
不器用な気の使い方に、ジェイドはくすくすと笑う。
教室を出て行く前にぴたりと足を止めて、彼は未だに意識が外側にあるフロイドを振り返る。


「――フロイド」
「……なぁに、ジェイド」
「フロイドは、ミアさんのお仕事……まぁ研修ですが、どう思いますか?」
「すげー楽しそうにやってるし、見ててたのしーけど……それがなぁに?」
「いえ。きっと喜びますよ」


この時のフロイドには、ジェイドの質問の意図が解らなかった。
ミアの研修は魔法道具の修理。そんなのは当然知っていることだ。
つまらなかったらそもそも通っていないし、作業の手を止めないミアにフロイドが気ままに話しかけることもしないというのに、何故改めてジェイドが問いかけてきたのか。
「わっかんねー……」と呟きながら、机に脚を乗せて、天井を仰ぐのだった。

血を分けた兄弟が教室を出たジェイドはアズールの背を追いながら思考する。
ミアという人間にとっては、自分のしたいことを否定されるのではなく、楽しそうだと肯定されるのは何よりも嬉しいことなのだろう。
職人としてのミア・ブラックストンもいいのだと、計算ではなく素の感情で伝えてくれるフロイドの言葉は、ミアにとってきっと嬉しいはずのものだ。
その感情が恋に傾くのかどうかは――本人たち次第だが。


「……」
「ブラックストン」
「……」
「聞いているか、ブラックストン」
「え……は、はい!ごめんなさい、クルーウェル先生」


フロイドの居る教室とは離れた教員室。クルーウェルから依頼の品を受け取りながらぼうっとしていたミアに鋭い声が飛ぶ。
呆れた顔をして集中力が足りていないと指摘したそうなクルーウェルに、ミアは申し訳なさそうに頭を下げる。

注意散漫になって、ぼうっとしている原因は、分かっている。
よく遊びに来てくれている、自分に懐いている他校とはいえ後輩のようなフロイド・リーチからの突然の告白だ。

――人生で、告白をされたことが無い訳ではない。
しかし、ミアの職人としての一面を知らずに声をかけて来て、「もっと別のことが似合いそうなのにね」と言ってきた人には迷いもなくごめんなさいと断って来た。
あなたが想像しているよりもっとつまらない人間だと思う、という理由で。
何せ、ミアにとっては祖父に教えてもらった魔法道具の修理が好きだった。きっと、仕事を捨てることは出来ないだろう。
フロイドは、ミアの作業している姿を一度も「つまんない」とは言ったことなかった。長く作業室に入り浸って、話していない間もじっと見ている時間も多かった。
飽き性なはずのフロイドが、だ。

彼にとっては本当に親しい人達以外が欠けた所で、すぐに次に興味が移って忘れてしまうものなのだろうとミア以外の人間もフロイドをそう評価していた。
だが、一年後にこの研修先であるナイトレイブンカレッジを出て行くということを、泣いてくれた男の子が居た。
それは、あまりにも特別なことだった。


「……はぁ。その依頼は今週中でなくともいい」
「えっ、いえ、これは授業で使ってるものですよね」
「お前に渡したのはあくまでもスペア用だ。そんなに急ぐものでも無い。……急いで不十分な出来になるのは不本意だろう」
「……すみません、ありがとうございます。クルーウェル先生」


ただ単に気が散っているというよりも、何か事情があって気落ちしているミアの変化に気付いたクルーウェルは、厳しく追及をしなかった。
集中力が足りていないぞ子犬、と叱られてもおかしくないような状況だというのに、その配慮に感謝して頭を下げ、ミアは教員室を後にする。
何故ミアが人の想いに向き合ってここまで頭を悩ませているかという原因に、本人は心当たりがあった。
あくまでも一年間の研修先。その線引きを、無意識にしている自分に気付いてしまったからだ。

(お祖父ちゃんの縁でここを選んだのは、自分なのに)

矛盾している自分に気付いて、じくりと胸が疼いた。
その線引きからくる迷いから、答えを直ぐに見つけられないのだ。

――フロイドは気まぐれで、何を考えているか分かりづらいところがある。
感情の波が激しく、上級生の男子も圧倒するような凄みもある。
フロイド・リーチという青年のことが怖いのだろうか?

(ううん、怖くはない)

束縛や指示されることが嫌いそうなフロイドが、恋人と言う存在を作りたいと思うようなタイプではないだろう。
身近な異性が自分以外に居ないから、気になったのだろうか。いや、きっと、そうではない。
フロイドは気に入らなければ付き合わない。本人が楽しいと思っている間は、一緒に居る。彼の人付き合いは実にシンプルだ。

クルーウェルから受け取った依頼の品を手に持って、とぼとぼと遅いペースで歩きながら作業室へと向かっていたのだが、その扉の前に見知った人影があった。
似た容姿に一瞬どくりと心臓が跳ねたが、分け目と服装の違いから、張り詰めた緊張を解いた。
フロイドではなく、彼の双子のジェイド・リーチだと気付いたからだ。


「ジェイドさん?」
「こんにちは、ミアさん」


ジェイドと同じ部屋、とフロイドが零していたことを知っていた。つまり、フロイドが告白をした件を本人から聞いている可能性が非常に高い。
このタイミングで滅多に作業室を訪れないジェイドがやって来たことに脈が速くなるのを感じながら、恐る恐る「何か御用でしたか?」と問いかけた。


「いえ、フロイドが持っていたコンパスがこちらの方を指していたので気になりまして。やはり、貴方を指していたようですね」
「それは……フロイド君が、待ってくれてるってことですね。……そっか」
「一つ、フロイドを昔から知っている僕にとって驚くことがあります」


この言葉を、彼女がどう捉えるのかは知らない。ジェイドの興味の範囲外だ。
助け船を出すつもりというよりも、ジェイドはただただ事実を述べる。何せ、見返りもなく助け舟を出すという行為はジェイド――ウツボの人魚の二人がしてこなかった行為だ。
それは兄弟にとっても同じことだが、フロイドに常々感じている感想はいいだろうとジェイドの中で落ちていたからだ。


「貴方が直したコンパス――フロイドが今も持ち続けているんですが、ずっとこの作業室を指しているんですよ」
「え……」
「あの気紛れやなフロイドが飽きずに関心を保つのは、信じられませんが」


本来のフロイドなら、探し物という興味の針はくるくると数時間おきに、数分おきに回っていた筈だろう。
そんな彼が、常に一番に考えているという訳ではなくとも、常に一定の興味を彼女に持ち続けているという事実がそこに在った。

(僕としてはまぁ――どちらに転んでもいいのですが)

フロイドの恋が叶おうと、破れようと、やはりジェイドにとってはどちらでもよかった。
反対しているのではなく、フロイドが彼女と付き合うことでもっと面白い日々が送れるのであればそれもそれでいいのだから。
ただ、関心を保っているという所は、確かにフロイドにとって特別なことだ。


「ジェイドさん」
「はい?」
「……ありがとうございます」


ジェイドの言葉によって裏打ちされた気まぐれな青年の愛情。
それはじんわりと染み渡り、暗闇を彷徨う船が見つけた灯台の灯りのような光となる。
行先を指し示す、指針となるのだ。


- 11 -
prev | next