circus
- ナノ -
この異常事態の中で、唯一不幸中の幸いがあるとするのなら、授業が全て終わった時間帯からこの状況に陥ったということだろう。
一時的にクラスメイトになっている大多数には見られずに済み、あとはオクタヴィネル寮に戻って夜を明かすだけで元に戻る。
しかし、大人しく部屋に帰って大人しく時間が過ぎるまで眠って無事明日を迎えるなんてことが出来る訳もなく。
エミルは中庭のベンチに座る形で挟まれて身動きが取れなくなっていた。

「あはは、ハマシギちゃんジェイドに嵌められて犬になったんだ。おもしれ〜」
「……笑い事じゃないですからね、フロイド君」
「ふふ、エミルさんに良く似合いますよね」
「笑い事じゃないですからねジェイド!?」

中庭ではリーチ兄弟の笑い声が響き、その間に囲まれるようにエミルは帽子を被って座っていた。
先ずこの学園の生徒では、彼らに好きで近付こうとする人は限られるだろう。
人除けになってくれているのは今の状況に限っては有難い話だった。そもそもの原因がジェイドであるということは置いておいて。
帽子の下で、犬の耳が感情を表すようにぴんと立っている。
自分の彼氏に弄ばれている、なんてことがあっていいのだろうか。
魔法薬学に詳しいが故に、騙す気満々で彼はわざと違う魔法薬の効果を教えたのだ。勿論、本人が楽しむために。

「……フロイド君と同じ教室の方が平和な気がしてきた」
「ハマシギちゃん、オレのクラスに来る〜?」
「目の前で浮気をされるとは」
「え、浮気判定厳しくないですか?ジェイドにやられたことを考えたらそう言いたくもなりますけど!?」

まるで悪いことをしていると言われているようだが、こんな事態になればもっと普通のクラスに生きたかったと思うのも自然だろうという視線を送る。
本人にはまったくもって意味がないのだが。
中庭で騒いでいることに彼らに、普通の者は近付かない。しかし、彼らと知り合いの場合は話が違ってくる。
同じ二年生であり、エミルの店の常連であるラギー・ブッチは、ふと抱いた違和感に、廊下から中庭へと寄り道をした。
ひとりひとりの匂いを正確に覚えている訳ではないが、それでも彼女の匂いが何時もとあまりに違っていたからだった。
ラギーの「エミルさーん」という声に、エミル本人とリーチ兄弟は同時に振り返った。

「どうも、ラギーさん!ラギーさんが今救世主に見えます」
「えぇ?ジェイド君とフロイド君と何だかんだ仲いいじゃないっすか。……というかオレが顔出したのはそんな助けるつもりとかじゃなくて。なんか何時もと匂いっつーか違くないッスか?」
「えっ!?そ、そんなことありませんよラギーさん。やだなぁ、気のせいで……」
「コバンザメちゃん鼻が利くじゃん。今ハマシギちゃん犬になってんの」
「不慮の事故でして」

勝手にひょいと帽子を外されて犬の耳を見せられたエミルは「勝手なことしないでください!?それに不慮の事故ではないですから!」と二人に訴えるが、その姿を確認したラギーは匂いの違いに納得した。
何時もより自分たちに近い匂いがしたのはこの為だったのかということと、犬であるということも。
そして何かと店を通して縁があるらしいこの問題児、リーチ兄弟に絡まれているということは、彼らに仕込まれたのだろうと。

「同じクラスだし、ジェイド君がやったんすね?あんまりエミルさん怒らせると商品とか売ってくれなくなりますよ」
「おや。……確かにそうですね」
「……何ですかその笑いは。ラギーさんの言う通りですからね」

──まるで、店主と顧客という関係が無くなっても付き合っているから関係ありませんが、とでも言うような隠れた本音に気づき、エミルはラギーに同調する形で誤魔化す。
尻尾がぱたぱた動きそうになるのを手で押えて、せめてもの抗議で呆れたように睨みを効かせる。
余程のことをされない限りは、今となっては愛想を尽かして縁を切ろうとする訳もないのだが。

「しっかし、エミルさんはイヌ科か〜予想通りっていうか、シシ、似合うじゃないッスか」
「なんですかその含んだような言葉は……」
「なんつーか、オレら的に猫っぽいか犬っぽいかって何となく分かるんで、ぽいなーと思ったんですよ」
「ふふ、犬は飼い主が大好きって言いますもんね」
「あ、あぁ、サムさんのことですかね!?えぇ、サムさんのことは大好きですよ」

にこにこと悪戯に笑っているリーチ兄弟に心で「頼むからこれ以上は黙って下さい」と言わんばかりにエミルも笑い、部活もないなら帰りましょうとジェイドの背中を押す。
この関係が絶対気付かれたくないという訳ではないにしても、学園生活のサポートをオクタヴィネル寮の副寮長にしてもらっている中で気付かれるのは非常に恥ずかしくて避けたいことだった。
これ以上校舎内に居れば、ラギーのように鼻が利く生徒に怪しまれるだろう。
そう強く説得して今度こそ邪魔をされずにオクタヴィネル寮への帰路につくエミルの尻尾は、腰に巻いたカーディガンで隠れているとはいえ疲労でくたりと垂れていた。

「そーいえばさぁ、犬にもなれるなら人魚にもなれるんじゃね?」
「人で楽しい実験をしようとしないでください。それに、私が人魚になった瞬間に水の中で呼吸できなくて終わりますよ。私の周りの水、体温零度以下の時は氷になりますから」
「あーその問題があったか。ねージェイド、なんかいい方法見つかってねーの?」
「……残念ながら。こればかりは難しい問題ですね」

オクタヴィネル寮に続く道から見える透明度の高い温かな海を寂しそうに見つめるエミルに視線を移し、ジェイドはエミルの帽子を取った。
その耳は寂しそうにぺたりと垂れていて、星祭りの時も『何時かジェイドの故郷である海に行ってみたい』と零していたことを思い出す。
積極的に邪魔している訳ではないにしても、彼女の体温を戻す方法は未だに分からないのが現状だ。
今回獣人族になっているものの、その身体は何時もと変わらず氷のように冷たい。

「エミルさんが靴を脱がなくとも……僕が陸で一緒に生きていけば問題はありませんから」
「……えっ」
「なぁに、オレ今、婚約の証人になった感じ?」

陸で、一緒に生きていく。
学生である彼にとってその言葉がどこまで本当なのかどうかは分からない。
しかし、人魚であるジェイド・リーチが陸でこの先も生きていくと言ってくれたのは、特別な意味がそこにはあるとエミルも分かっていた。
フロイドの冷静な指摘も相まって、エミルは何時ものように「面白い冗談ですね〜」と流すことも出来ずに、目を丸く開いて。
言葉が返ってこなかったものの、ジェイドはエミルの耳を見て察する。赤く染まった頬もそうだが、嬉しそうに耳が垂れて、尻尾がゆらゆらと見え隠れしていた。
それだけでも、獣人族になる薬を騙す形で使ってもらって良かったと強く実感していた。

「ふふ、エミルさんが普段かなり喜んでくれていたというのが分かりましたから、獣人化も悪くありませんね」
「!?あぁもう違うんですこの耳と尻尾は……!」
「あはは、ウソばればれー」

エミルは耳を押さえて深い深い溜息を吐く。
感情のままに動いてしまう耳や尻尾の前では謎多い毅然とした店の主人として形無しです、と。
そしてまた、嬉しいという感情を否定できないからこそ、目の前のジェイドとフロイドは微笑ましそうに笑っているのだと思うと尻尾がまたゆらゆらと動くのだった。
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