circus
- ナノ -
氷の体温を持つ少女にとって、一番苦手とする授業が遂にやって来た。
ぶかぶかな白衣を着て、なんとか邪魔にならない程度に腕まくりをして、ゴーグルを頭に乗せる。
薬品が髪につかないように、ポニーテールをして、準備だけはばっちりなのだが。エミルが苦手とする理由が、付けている手袋にあった。

今日の授業はクルーウェルが担当している魔法薬学。ジェイド・リーチが一番得意としている科目だ。
体温を調整する手袋を付けているとはいえ、寒さに弱い動植物や、煮込む際に温度が重要となる繊細な調合に向かないからだ。
勿論、その事情は学園長を通してクルーウェルには伝わっている為、エミル自身が全工程をやらなければいけないことにならないよう、配慮がされている。

「配慮をしてもらったの、凄く嬉しいんですが……やっぱりジェイド君ですか」
「えぇ、学園長には事情を知っているのなら是非とも!とお墨付きを頂きましたよ」
「そうやってさり気なく囲い込まないでくれませんか!?」
「ふふ、魔法薬学で好成績を収めていて事情を知っている生徒ほど、適任者は居ないと思うのですが?」
「正論過ぎて言い返せない……」

魔法薬学の授業を行う温室まで、エミルとジェイドは並んで歩く。
二人が移動を共にしていたことに、最初は不思議そうな目で見られたが、オクタヴィネル寮の副寮長が二週間、学園長に頼まれて面倒を見ているのだという情報が広まって、今では二度見してくる者も少ない。
ジェイドの言う通り、魔法薬学に関してのフォローは彼以上の適任者は居ないのかもしれないが。そうなるように仕向けられた感があって、エミルとしては複雑な気分だ。

「僕が植物を刻んだり、温める作業はしたいと思います」
「ありがとう、ジェイド。お菓子作りと一緒でその繊細さが難しいんですよね」
「おや?でもエミルさん、お菓子は作れましたよね」
「チョコとか、温度調整が難しいものはやっぱり苦手で」
「そうでしたか。まぁ、僕がその分振る舞いますから。こう見えても料理は得意な方なので」

モストロ・ラウンジのメニューを考案出来る程に料理が得意どころか飛行術以外は大抵のことならこなせる男なのだが、エミルに改めて言葉で伝えるのは、思惑があったからだ。
貴方はまだ意識していないかもしれませんが、番なのだから遠慮せず不得意分野は頼ってもらいたい、という主張だ。
そこまでエミルに伝わっていたかは怪しいが、気恥ずかしそうにエミルは指先にくるくると髪の先を巻き付ける。
学生としての彼女は、本来の彼女とは言い難いのだろう。だが、制服や白衣など。自分と同じ姿が見られると言うのはジェイドにとっては楽しく、そして嬉しいことだった。

「エミルさん、白衣、可愛らしいですよ」

周囲に人が居ないタイミングでエミルにしか聞こえないように囁かれた口説き文句に、エミルはぴしりと固まる。
翻弄して楽しんでいるのだと分かっていながらも、ポーカーフェイスを決め込めない自分が、ジェイドの前だとどこまでもエミルという一人の少女になっていることを自覚する。

「ボロが出ちゃうから、そういうの駄目ですってば……」
「おや、いっそのことバラしてもいいんですけどね?」

将来的なことを考えると、それでもいいというのに。
手順を踏まなければいけない回りくどさに、時々気が逸りそうになるが。
彼女の素の表情は自分しか知らないと思うのも、それはそれで楽しかったのだ。

――魔法薬学は、一つの課題をペアになって行うことも多い。
調合すべき題材を決められ、その薬を上手く調合できるかどうかで採点をされる。

「仔犬ども、くれぐれも爆発は起こさないように」

クルーウェルの指示と共に、それぞれが調合を開始する中、エミルは普段立ち入れない魔法薬学室を眺めて、目を輝かせる。
なんて素敵な素材の宝庫なのでしょう、と。
ただの感心だけではない眼差しで眺めているエミルに気付いたジェイドはくすくす笑う。
きっと、彼女は"珍しいもの"というざっくりした認識ではなく、一体どれくらいの価値がそれぞれにあるのかを解っている。
どこまでも商人らしいのだ。

普段密閉せずに保管している棚にも珍しく布が被せられているのは、事前にエミルの体質を聞いていたクルーウェルの判断だろう。
調子が悪い時でもなければ、冷気が常にこぼれるようなことは無いのだが、貴重な素材も中にはあることを考えると、当然の保険だとエミル自身も納得していた。

「この中の素材に、例の薬を作れるようになる物はあるんですかね」
「ふふ、持ち出し厳禁ですよ?しかし、教室に置いてあるような本の調合で僕が見落としてることはないと思うのですが」
「ジェイドがこの教室内でピンと来るものがあったらとっくに知らせてくれてますよね」

──付き合っているとはいえ、ジェイドのスタンスは変わらない。
このナイトレイブンカレッジに来た時ほど今では必死にはなっていないようだが、エミルの体質改善を阻止することだ。

彼女が身の危険を晒さずありのままで居られて、そして自分だけが触れられる状況はジェイドにとってあまりにも都合がいいのだ。
レシピのことは本当だが、もしかしたらこの中に目的の薬を作る素材がある可能性は捨てきれない。
しかし、エミルには恋人が阻止しているとは思われないように、そこだけは隙のない彼女を出し抜き続けるのだ。
獲物を狙う時は逃げ道をなくしてから。狩りの鉄則だ。

生徒たちの各テーブルに乗せられている植物や、他の調合するための素材。ジェイドは慣れた手つきでエミルが読み上げるレシピ通りの重さに計って刻んでいく。
ちらりと周りの生徒を見ても手早く、教科書も自分で見るのではなく、エミルに読み上げて貰っている中で、ジェイドは一つ一つの行動が素早かった。

「さ、さすが。本当に手際がいいですね」
「ありがとうございます。それではこの器に入れたものを沸騰直前に入れていただけますか?」
「えぇ……この粉末を入れれば……わ!私でも完成の色になりました……!」
「これで完成です。これは一時的に魔法効果を高める薬になりますね」
「そうなんですか。……残念、やっとうまく作れた薬を試してみたかったのに、魔法を強くするとなると、駄目そうですね」

平静こそは装ってるものの、明らかに残念そうに肩を落とす。
製品を作るために何度か調合を試してみたのだが、錬金術とは異なり、自分の手で刻んだりしなければいけないせいで上手くいった試しがなかった。
魔法を強くする、ということは、エミルにとって冷気を強める可能性が高い。この教室を北の深海のような冷たさにする訳にはいかなかった。

「ちなみにこの薬、完成前に急速に冷やすと違う薬品に変わるんですよ。花の蜜を垂らす前の物を少しだけ別の瓶に取っておきました」
「へぇ〜そうなんですね!手順の途中で温度を変えるだけでもそんなに効果が変わるんですね」
「えぇ。なので試しに触ってみてください、エミルさん」

ジェイドが事前に自分の興味のために用意していた、瓶に1回分ほどの少量の液体が入った緑色の液体は、エミルが片手の手袋を外して暫く握ると、色が変化して薄い黄色の液体に変わっていく。
0度くらいの急速冷却を普通にする時は、氷水の入ったボウルに浸けたりするのだろう。
エミルは手袋をはめ直して、瓶に入った薬を眺める。
錬金術は得意だが、魔法薬学には精通していないために、これが一体なんの薬へと変化したのかが分からなかった。

「ちなみにこれって何の薬ですか?」
「確か、市販のものより格段と疲れを取る効果があるらしいですよ。飲まなくても、塗るだけで効果があるそうです。特に耳の裏がいいそうですが」
「耳の裏?塗る場所によって指定があるんですね。そっちの方が実用性あるし、効き目によっては自分用にストックしてもいいような」

魔法薬学に詳しいジェイドが息を吐くように嘘をついているとは思わず。
クルーウェルに完成品を提出し終わり、合格点を貰い、授業を無事に終えた所までは良かった。

「なんだか一日疲れましたね。授業も連続で五日間受けると結構堪えるというか」
「先程作った薬を試してみてはどうですか?」
「あぁ!そうですね。飲まなくても塗ればいいんですっけ?」

とろりとした薄い黄色の液体を、乳液を塗るように手のひらに零した姿を隣で眺めているのは捕食者だ。
ジェイドに勧められるままに興味本位で、冷やした方の少量の薬を耳の裏に塗っていったエミルが身体に異変を覚えたのは僅か2分もしないうちだった。

「な、なんか変な感覚がするんですけど本当にこれ疲れを取る薬です……!?」
「えぇ、確かそのはずですが」

ここでようやく、エミルは気づく。
ジェイド・リーチが楽しむ時に見せる含んだ顔をしていることに。
はめられたと思った時にはもう既に遅く、むずりとした感覚が尾てい骨の付近と頭にしたことで、反射的に頭を掻こうとした時に触れた何かに、固まった。
ぴくりと動いたふさふさの何か。恐る恐る窓に視線を移して、映っている自分の姿を確認した瞬間に叫び声が廊下に響き渡った。

「み、耳!?尻尾まで生えてるんですけど!?これレオナさんやラギーさんのような物では!?」
「おや。すみません、僕としたことが作れる薬を間違えてしまいましたね。どうやら獣人族に一時的になる薬だったようです」
「わざとですね!?だから楽しそうだったんですか!」

エミルは駆け込むように来た道を戻る。
ジェイドの口から出る情報が信用無くなったからこそ、教室に残っていたクルーウェルに症状を確認しようと彼の元を尋ねると、クルーウェルはエミルの姿を見た瞬間に状況を察知した。
薬が出来る直前に急激に冷やせば、一時的に獣人族になれる薬が完成するが、それをやったのかと。
そして尚且つ使ったのかと。

「クルーウェル先生、見た目からも分かるようにご相談です……」
「なるほど……あの薬品に触れたのか。ジェイド・リーチが居れば大丈夫だと思ったが、まさかじっくり触れた上で、さらに使うとはな」

──私が効果をわかった上で使った訳じゃないんです、クルーウェル先生。はめられたんです、自分の恋人に。
なんて言える訳もなく。
商人の好奇心に対して呆れている様子のクルーウェルに弁解できない歯がゆさに、今頃外で楽しそうに笑っているだろうジェイドを思い浮かべる。
「少量なら一日、朝日が差す頃には効果が切れている筈だ」とは言われたものの、一日はこの姿で過ごさなければいけないことに、気が遠くなる。
実験室を出ると、エミルを待っていたジェイドは開口一番に「似合っていますよ」とわざと煽るのだ。

「……ジェイド」
「ふふ、そう怒らないで。しかし、何の動物になるかと思えば犬ですか。凄く、らしいですね」

ライオンやハイエナだとかではなく。エミルの耳に生えているのも、尻尾も。犬のものだった。
人懐っこいかと言われたら、表面的な部分のみだが。それでもジェイドから見たエミルは確かに動物に例えるのなら、犬だった。
本人ははめられたことにご立腹のようだが、ジェイドが試すように頭を撫でると、耳がぺたりと折れて尻尾が揺れる。
何て素直な耳なのだろうと、喉を鳴らして微笑む。
本人にも制御不能な動きなのか、尻尾を手で止めようとしているのにゆらゆらと感情をそのまま表すかのように揺れていて、顔はリンゴのように真っ赤だ。

「わわ、本意じゃないんですからね!?私怒ってるんですからね!?」
「ふふ、愛されていることを実感しますね」

彼女に首輪をつけた所で、目を離したらすぐに渡り鳥のように居なくなりそうな所はあるが。
その予想外な所こそが彼女の魅力だと思いながら、今日はどうこの状況を愉しもうかと、ジェイドの口元は弧を描くのだった。
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