circus
- ナノ -
チャイムの音が、校舎中に響き渡る。

一日の授業全ての終わりを知らせる鐘の音に、エミルはぷつんと集中力が切れたかのように机に頭を乗せて息を吐いた。
授業に疲れた、というよりも新しい環境に気を張っていたというのが本音だ。
横からはくすくすと笑う声と共に、「おつかれさまでした」という声が降って来る。その声の主は今日一日、非常に上機嫌だった。

「疲れましたか?」
「こうやってずっと座って話を聞いてノートを取って……というのが久々だったもので。あと、身分隠して会話するの疲れました……」
「ふふ、エミルさんの全力の普通の人の演技は見ていて少し面白いですけどね」

疲れている様子さえも楽しまれていることに、エミルは口元を引きつらせる。
本来の自分を知っている人からしたら、誤魔化すような会話はさぞ胡散臭く聞こえることだろう。
エミルの店主としての顔と、ただのアルバイトの顔としての使い分けは流石だと思いつつも、荷物をまとめる彼女を見ながら、ジェイドは思う。
その表情以外の、本来の素の彼女を知っているから、こうも楽しいのだと。

3−Eの教室を出て行く生徒達は、放課後からのエミルの行動が気になるようだったが、誰一人として声をかけて来なかったのは『今日一日、隣に常にジェイド・リーチが居て、なおかつその上でオクタヴィネル寮に寝泊まりするから』だろう。

「そういえば、エミルさんの今日から寝泊まりしてもらう場所はオクタヴィネル寮になります。本当は僕の部屋でも良かったんですが、一応ゲストルームを使うことにしています。福寮長としてご案内致しますね」
「……やっぱり、私がオクタヴィネル寮に滞在することになったの、ジェイド君一枚噛んでませんか……!?」
「いえ、そんなことは」
「なんて嘘っぽい発言でしょう!?……オクタヴィネル寮にお邪魔するの、何だか変な気分がしますね」
「そうですか?時々デリバリーで僕たちの寮にも来て下さるではないですか」

それに、僕と会う時も――そう言いかけただろうジェイドを笑顔でエミルは制した。
普段はミステリーショップの二階に静かに寝泊まりしているから、少し部屋を出れば多くの人とすれ違うような共同生活は新鮮だった。

ミステリーショップを休ませてもらっているともなると、この放課後という時間に一体何をすればいいのかと思案する。勉学に励むべきなのかもしれないが、生憎二週間という期間でそこまで真剣に勉強に励むつもりはない。
学生が行うことと言えば他には――部活。それから、ジェイド達オクタヴィネル寮生はモストロ・ラウンジの運営がある。

この放課後は別行動で部活でも見るべきだろうかとジェイドを見上げて、声をかけようとしたのだが。教室に明るい声で「ジェイドー」と呼びかける人物が教室に入って来る。

「ハマシギちゃんもおつかれ〜オクタヴィネル寮に戻ろうよー」
「あれ、でもお二人はモストロ・ラウンジのお仕事があるのでは?」
「まぁねー。でも、寮服、部屋に置いてるし。取りに行くのと荷物置く用があるから一旦戻んの。つーか、ハマシギちゃんもモストロ・ラウンジに来ればいいじゃん」
「えぇ、良いことを言いますねフロイド。エミルさんもモストロ・ラウンジで少し働いてみませんか?」

突然の提案に、エミルは少しだけ顔を青くして全力で首を横に振る。
ラギーに聞いているように、モストロ・ラウンジでのバイトは実入りが良いとは聞くけれど、バイトをしなければいけない程困っている状況でないのなら、なるべく内部に入り込まない方がいい場所ナンバーワンだ。
ジェイドと付き合っているという時点で、その発言胃信ぴょう性も何もないのかもしれないが。

「善は急げですね。アズールに聞いてきます」
「ちょっと待ってください!?」

必死に止めようとするエミルの両脇を固めるように、ジェイドとフロイドが両サイドを挟んで、そのまま彼女をアズールの元へと連行する。
アズールの教室を訪れた、エミルを引き連れてきた双子に声をかけられて姿を確認したと同時に、アズールはすぐに直観する。『双子が楽しもうとする案件を持って来たのだ』と。

「こ、こんにちは、アズール君」
「これはどうも、エミルさん。貴方が一応仮で転入してくる話はジェイドから聞いてましたが……制服を着ているのはあまりにも見慣れない光景ですね。学園長と何か契約でも交わしましたか?」
「ふふ、お察しの通りです。ただ、ミステリーショップのアルバイト、エミルとして接していただければと思います」
「えぇ、貴方の素性が知られれば、取引先として僕にとっても都合が悪いですからね。……ところで、そこの二人に連れられてどうしたんです?」
「ねーアズール。ハマシギちゃんもモストロ・ラウンジで働いてもいい?」

フロイドが直球で突っ込んで来た提案に、アズールはぱちぱちと瞬く。
エミルがオクタヴィネル寮に来ることで、モストロ・ラウンジに来ることを予想していなかった訳ではないが、双子から提案されるとは、と。
断った所でこの二人が乗り気になっている以上、無理だろうことはそれなりの付き合いになってきたアズールにもよく分かっていた。

「モストロ・ラウンジの内部を私が知ってしまってもいいんですか、アズール君。良くないですよね!」
「というか、ジェイドの縁がある時点でその点は僕も諦めているんですから、貴方も諦めなさい」
「……アズール君にまさかそんなことを言われるなんて……でもほら、寮服も式典服も流石にありませんから」
「あぁ、ご安心くださいエミルさん」

アズールの指摘はご尤もと言うべきだろう。ジェイドと付き合っている時点で、関わりを最低限にしたいなんて無理な話だ。
モストロ・ラウンジで働くなんてことは出来ませんよ、と言いたかったエミルの声を遮ったジェイドは笑顔で、至極当然のように先回りをする。

「……ジェイド?」
「オクタヴィネル寮に来るという話を貰った際に、念のためにということで寮服も手配するよう学園長に頼んでおいたんです。今日から使う部屋に届いていると思いますよ」
「……」
「さっすがジェイド〜準備万端じゃんー」
「ふふ、恐縮です」

――こうして、付き合っている筈の相手に先回りされて囲い込まれて、いともたやすくモストロ・ラウンジでアルバイトをすることになったエミルは今になって再度思うのだ。
入る寮を間違えたかもしれないと。


鏡舎に触れて、オクタヴィネル寮への道へと足を踏み入れる。
何度も通ってはいるけれど、オクタヴィネル寮までの通路は、海中ということもあって実に神秘的だった。魚が泳ぐたびに揺れて流れが出来る海中。下に視線を落とせば、色とりどりの温かい海特有の珊瑚が目に入る。
オクタヴィネル寮に入ると、既に戻って来ていたオクタヴィネル寮生がエミルに目を留めて「あっ」と声をあげる。それでも声をかけないのはやはり、ジェイドとフロイドの姿が見えたからだろう。

「本当に沢山の生徒の方が寮には住んでいるんですね……知ってはいたんですけど、新鮮です。ちなみに、夕食とかは?」
「各寮で夕食を取れる食堂がついています。ただ、僕たちはモストロ・ラウンジで取ることも多いですね」
「ハマシギちゃんに頼んだみてーに、夜食も自由だからねぇ」

廊下の窓から海中が見えて、泳いでいる魚が見えるのは少し不思議な気分だ。
ジェイドが案内したのは、何度かエミルがオクタヴィネル寮に泊まる際に利用したゲストルームだった。副寮であるジェイドの部屋と近い場所にあるのは、間違いなく意図的だろう。

「エミルさんの部屋はこちらになります。以前にも使って頂いたゲストルームですね」

扉を開いて案内されたゲストルームは綺麗に準備されていて、自分が送った荷物も既に届いているし、ジェイドが言っていたように寮服までもが何故かハンガーにかけられている。
用意周到な準備に、やはり今回の件、学園長がジェイドに情報を渡してしまったのだろうと確信して頭を押さえる。
現在の家賃や水道光熱費を天秤にかけられて承諾してしまったが、寧ろ食事代すら貰っても良い位ではないのか、と。

(学園生活に欠かせないらしい制服や実験着、それから運動着はともかく……どうして寮服まで……!)

ジェイドの先回り能力を甘く見ていた。それが正直なところだ。

「荷解きと着替えが終わりましたら迎えにあがります。ふふ、エミルさんの寮服、楽しみですね」
「オレらも着替えてこよーっと。今日はオレめちゃくちゃやる気出てきたぁ」
「フロイドの気まぐれがやる気ない方に傾かなくて良かったです」

それでは、と後で迎えに来ることを伝えて出て行った二人を呆然と見送り、鞄を机に放り投げてベッドに転がって溜息を吐く。
逃げられない状況になってしまった以上、背に腹は代えられないと理解し、がばっと起き上がったエミルはハンガーにかけられていた寮服を手に取った。
グレートセブンの一角である海の魔女を思わせる漆黒のジャケットと菫色のストール、ハット。それから。

「ちゃんとこっちは女性用になってる……!タイトスカートって、これ特注じゃ……」

ジェイドの手際の良さは流石ともはや感心する域だった。両服も当然男性用しかないのだから、制服と同じように精々丈を合わせたくらいだと思っていたのに、彼が手配した分は女性用になっている。
ハンガーから手に取って合わせてみた時に、少し、格好いいと思ってしまった自分の頬をつねる。

「……というか、スカートのサイズが……丁度なんだけど……」

合わせたことで気付いてしまった瞬間に、エミルの頬が沸騰したように紅潮していく。
服のサイズを伝えた訳ではないのに、タグに書いてあるサイズは何故か丁度良かった理由に気付いて、ストールで顔を隠す。
何せ、ジェイドは確かに良く知っている筈なのだ。それが恥ずかしくて、誰も部屋に居なくて良かったと安堵する。

無意味に手でひらひらと熱くなった頬を仰ぎ、寮服に手早く着替える。シャツの大きさもぴったりなことに、もう言葉が出てこなくなる。
寮服に袖を通し、髪型も少しアレンジして、シックな雰囲気に合うように身だしなみを整える。白いボウタイもしっかりと結んで位置を整える。
足元はヒールではなくてウィングチップの革靴。これも何故かサイズどころか、形が妙に合っているような気がしてならないが、思考を止めた。
くるりと鏡の前で自分の姿を確認して扉がとんとんと、叩かれる音が聞こえて、扉を開いた瞬間に、ジェイドの丸い目がきょとんとエミルを射抜いて、瞬間解けた方な顔に変わる。

「やっぱり思った通りだ。本当に似合っていますよ」
「ぇ、あの、……えっと、ありがとう……」
「もっと早く用意すればよかったですね。これがペアルック、というものでしょうか?」
「……フロイド君とも同じですから……!」
「えーやっぱりもうこのままハマシギちゃん本当に転入しちゃえば?」

褒められて顔が赤くなってしまうのを隠すように俯くエミルにご満悦という様子のジェイドを見て、フロイドは「こんなに分かり易く惚気るんだ」とけらけら笑った。

リーチ兄弟と共に客としては行き慣れたモストロ・ラウンジへ向かうが、開店前の時間に行くことは初めてのことだ。
寮服姿で現れたエミルに、モストロ・ラウンジで開店準備をしていた生徒達はざわつく。
そして自分達と同じようにアズールもしくはリーチ兄弟に無理矢理参加させられたのでは――そんな予感を抱いた彼らが瞬時にエミルに抱いた感情は、同情だった。

「寮服を着てる……!」
「エミルさん……!?どうしてモストロ・ラウンジに……まさかここで働くんですか?」
「えぇ、オクタヴィネル寮に置いていただくので、二週間だけ不定期にアルバイトを。皆さんよろしくお願いしますね。あっ、ちゃんとサムさんにはお休みして違う所で働いてみます〜って言ってますよ」

モストロ・ラウンジで声をかけてくる生徒一人一人に、エミルは気さくに、朗らかに挨拶をする。
取り繕うようなものではなく、あくまでもエミルの素の処世術を元にした対応だった。とはいえ、嘘八百を並べているのは間違いない事実だ。
その様子をテーブルに寄りかかりながら眺めていたフロイドの「超嘘じゃん」というぽつりと零した呟きを、ジェイドは笑顔で「今のエミルさんはミステリーショップのアルバイトらしいですから」と制する。
エミルが到着したのを横目で眺めていたアズールは、エミルの衣服に肩を竦める。

「宜しく頼みますよ、エミルさん。しかし……ジェイド、本当に寮服を手配してたのか」
「えぇ、エミルさんがオクタヴィネルに一時的にでも入るのなら用意するに越したことはないと思いまして」
「まったく、食えない男だ。普段の接客スキルを考えると細かな説明は不要そうですかね」
「それに客側でよくオレたちのこと見てるし、大丈夫でしょ」
「メニュー的に冷たいものを扱っているみたいですし、何なら私はキッチンで……」
「エミルさんには給仕をして頂きましょう。給仕長でもある僕が、面倒を見させていただきますね」
「どうして!?」

拒否権を与えない様な提案に、エミルは青ざめて首を横に振る。他の生徒も沢山居る中で、こんなにも分かり易く距離を近くされると、本当に関係性がばれそうだと冷や冷やする。
声に反応した周囲の生徒に視線を向けられて、咄嗟に「えっとですね。キッチンでもいいんですよ、ジェイド君」と取り繕ったように声をかける。

「今日キッチンは人が足りていますから。キッチンに入りたい時は僕が一緒に入りますよ」
「……お手を煩わせるわけにはいかないので、他の生徒の皆さんと一緒にキッチンとか給仕に入りま……」
「は?そんなことさせるわけねぇじゃん」
「それをしたら、そうですね……今日のエミルさんの寝床は変更になるかもしれないですね」

言ってはいけない提案をしたと気付いたエミルは「それでもどうぞ!キッチンに入りますから」とも言えず、頭を抑える。

「……ジェイド先輩、ご指導お願いしますね?」
「!」
「……貴方、ジェイドに対して状況悪化させるのが得意なんですか?」
「え?」

悪戯に笑いながら冗談を言ったつもりのエミルの発言が、ジェイドを揺さぶってることに気づいたアズールとフロイドは顔を見合わせて溜息を吐く。
あれだけ何時も店主としては隙がないのに、恐らく無意識にジェイドの琴線に触れる言動が多いことが、彼が番と定めている所以なのだろう。
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