16話

 愛されていた自分がいるというのは何よりも耐え難い事実だった。
 愛されていなかったのだと知って家を出た。愛されていなかったのだと言い聞かせて生き延びてきた。たとえ愛されていなかったとしても大切な仲間を見つけることが出来たことに、自分の人生の意味があった。
 今更になって母が、父が、自分を愛していたと知って、では今までの人生は何だったのだろう。愛されていないと信じ切っていた自分はなんて滑稽だっただろう。
 だから身体が真実を拒絶した。それがどんなに獄寺にとって優しく温かいものだったとしても今更耐えられなかった。
 それでよかった。死ぬまでこのままの自分と付き合っていくつもりだった。
『君が傷つくのは嫌だった』
 それなのに、たったその一言と真っ直ぐな目の所為で溶けていく。今まで作り上げてきたものは脆く冷たい氷の器だと知った。そして目の前の男差し出した手が温かく優しいものだということも、知った。

死に至る愛 O

 昨日の騒動など無かったかのように静かな日だった。
 朝起きてリビングに行った時にはすでに朝食は作られていて、雲雀だけが居なかった。時間はいつも通りだったから恐らく雲雀が先に起きて作っていたのだろう。獄寺に配慮してか、入江に余程強く言われて折れたのか、どちらかは知らないが昼食も同じだった。
 一緒に食べる相手がいないのに食事が温かいというのは不思議だ。昼飯のオムライスにはご丁寧に並盛の旗まで刺さっていた。
 静かな食事には慣れていたはずだった。今まではずっと一人で食べてきたし、それが当たり前だった。それなのに一人で食べる食卓がこんなにも何か欠けている。たった数週間の出来事だったのに内側から全て書き換えられてしまったみたいだ。
 大きめのオムライスを食べ終え、部屋に戻る。ここ最近ろくに動いてもいないのに食べてばかりいたから体重が増えてしまった。元々細身な方ではあったから困るほどではないが、元に戻ったらまずは運動をしよう、と一人あれこれと考える。しかし手紙の事や母親のことだってろくに収まったわけでもなくぐるぐると絡まって邪魔をする。
 考えをまとめるために誰かと通話しようとも、今日は生憎沢田も入江も出払っていて通話はできないようだった。山本や笹川ですらも外せない用事があるらしい。そんなスケジュールを組むなんて一体今のスケジュール管理は誰がしているのだろう、と呆れてしまう。
 と、ふと思い出す。枕元に置かれた電話に。
 一度も使ったことがないし、鳴ったこともない。初日に雲雀から案内をされたきり触ることなど無かった。一日一回、それだけなら要望を言っても許す、と。一日一回だなんて、それ以上に獄寺のことを世話していたくせに。
 顔を合わせることはできないが、機械越しに声を聴くくらいは許されるだろうか。
 獄寺はベッドの縁に腰を下ろし、恐る恐る受話器に手を伸ばした。ダイヤルのボタンもない簡素な電話は、受話器を耳に当てると自動的にどこかへと繋がる。呼び出し音が数回。
 こくりと唾を飲み込む。
『…何』
「あ、」
 雲雀の声だった。自分から掛けておいてまさか本当に出るとは思わず、言葉が詰まった。
 受話器を握る手に汗が滲み、目が泳ぐ。
「えっと、ヒバリ? か?」
『だから、何』
「…ご、獄寺、だけど…」
『聞けば分かる』
「……そうか」
 相変わらず淡白かつ冷たい言い方だ。けれど通話が切られる気配はない。電話の向こうでは雲雀が獄寺の言葉を待っている。その沈黙は電話越しでも居心地が悪くない。
「……飯、ありがとう」
『食べたんだ』
「美味かった」
『ならいい』
「……お前は、」
 元気か、と言いかけて止まる。自分が原因で吐血した人間に言うべきではない。
 言葉を迷い、一瞬間があく。
「……その、身体とか、大丈夫なのか?」
『最初から何もないけど』
「あっただろ。輸血したじゃねぇか」
『勝手にされただけ』
「なんで意地張んだよ…」
 もしかしてあの時頑として倒れたがらなかったのは、ただ意地を張っていただけなのかもしれない。まるで人間じゃないみたいだと乾いた笑いを漏らす。
「…わ、」
『わ?』
 また言葉が詰まる。どうしてこうも言葉が上手く出てこないのだろう。悪かった、と言いかけた口は開いたまま固まった。
 きっと以前と同じく何故悪くないのに謝るのかと責める言葉が返ってくるだけだろう。
「…あー……えっと…」
『……』
「……し、んぱいした」
 かろうじて出たのはぎこちない言葉だ。なんだか妙に気持ちの悪いことを言ってしまった気がして顔に熱が集まる。変な汗まで垂れてくるものだから、空いた手でぱたぱたと扇いだ。
「っなんもねぇ!」
『君に心配されるほど弱くない』
「なんもねぇっつってんだろ忘れろ!」
『でも気持ちは受け取っておく』
「……そーかよ…」
『それで? 用件は何』
「……」
 何も口実を思いつけないまま掛けてしまったことを後悔する。柄に合わず誰かと話をしたいと思ってしまったことをどう説明すればいいだろう。
「…無い。けど、話したくて」
 少し迷った挙句、結局出たのは回り道できなかった言葉だった。
 獄寺が言葉を絞り出したのに対し、雲雀は軽く返答をする。
『何を?』
「……なんだろ」
『…だったら昨日の話をして』
「昨日」
『そう、昨日』
 目を伏せ、昨日のことを思い出す。昼過ぎからメヌエットを教え、その後雲雀が血を吐いて倒れた。いや、その前に。
「……昨日…母親からの手紙を見つけた。多分、荷物ん中に紛れ込んでたんだと思う」
『手紙…』
「初めて読めた」
『何が書いてあったの』
「……う、生まれてきてくれて、ありがとうって」
『そう』
「…オレは、」
 手紙の内容を思い出し、言葉が喉の奥につっかえる。いまだ吐き出し切れていない何かが詰まっているかのようだった。あともう少しなのに、一歩踏み出せない。
「…オレは……」
『…』
「オレは、望まれて生まれたんだろうか」
 声が掠れる。軽く咳き込み、語尾がしぼむ。上手く言えたかどうかも分からない。
 受話器を握る指先が震えていた。手のひらに当たる硬い感触に神経が集中していた。
 電話の向こう、数秒の沈黙の後、小さく息を吸う音が聞こえた。
『……それは、僕がそうだと答えて何かなるの?』
「…え?」
『僕が肯定したところで君自身が肯定したことにはならない』
「……」
『君は、その手紙を読んでどう思ったの』
「オレ、が…?」
 枕もとに置いておいた手紙を手に取り、指先で広げる。昨日何度も読み返したこの手紙。文字をなぞるように紙面をそっと撫でた。
「……た、ぶん。…多分、あの人はオレが生まれて、嬉しかったんだと、思う…」
『うん』
「…毎年プレゼントくれて、ピアノを教えてくれて…それで…名前もくれて、全部、全部くれて……」
 視界が歪む。声も震え、涙が滲んでいく。
 おかしい。あれだけ泣いたばかりなのにまだ涙が出る。熱い大粒の塊が頬を伝い、落ちていく。拭いたくても身体が上手く動かなかった。頭は言葉を紡ぐのに必死で、身体を動かす指令なんて出してくれない。
「…オレのこと、精一杯愛してくれた」
『……そう。気付けて良かったね』
 雲雀の声がじわりと染みて、胸の中に落ちていく。
 こんな単純なことを受け入れるのに一体どれだけの時間を掛けただろう。きっと雲雀が居なければ振り返ろうとすることすらしなかった。そのまま朽ちて死んでいくだけだった。
 ふと、雲雀の顔を見たいと思った。案外優しく笑うのを知った。真っ直ぐに真剣な目を向けるのだと知った。だからもう一度雲雀と向き合いたかった。
 そしてまた、二人で話をしたかった。
「……ヒバリ」
『なに』
「ありがとう」
『…礼を言われる覚えはないけど』
「…オレの手術終わってから一回でいいから会えるか?」
『アポを取ってからなら構わないよ』
「分かった。じゃあ、」
 涙を拭いながらパソコンを起動して三週後の予定を確認する。術後は一週間様子見の為入院する必要があった。しかしその後であれば、仕事も多くないし雲雀と会って話をするくらい容易いだろう。
 指先で画面をなぞり空いている日を指定しようとしたその時、目の前が大きく揺れた。そしてすぐ次に大きな地響きが部屋全体に轟く。
「ッ!? 地震か!?」
 あまりに大きな縦揺れに椅子が傾き、思わず机に手を付く。揺れ自体は一瞬だったが、まるで全てを壊してしまうような強さだった。
 息を飲み、ゆっくりと深呼吸をしてから再度受話器を握り直す。
「…ヒバリ、今の地震、大丈夫か…?」
『ん? ……ああ、地震』
「お前、今の揺れで分かってないのは相当だぞ…」
『全て終わったから外出てきたら』
「は?」
『地下に引きこもってばかりいたら空の色、忘れるよ』
「いや、何言って…」
『僕の部屋の奥、出入り口のハッチがあるからリングで開けて出てきて』
「で、出るわけねぇだろ…」
『君が心配するようなことは何もない。早く』
「な…」
 獄寺の返事も待たず、通話が切れる。後に残った通話終了の音が規則正しく鳴っていた。
 突然何の話をするかと思えば出てこいだなんて。そもそも雲雀の基地の入り口がどこに通じているのかも分からないのに、もし外に出て人と会ってしまったらどうする気だろうか。
 色んな不安は頭の中にぐるぐると渦を巻くけれど、結局リングをはめて立ち上がった。
「くそ、アイツ…」
 部屋を出る間際、鏡に映った自分の顔が視界に映る。また泣いてしまった所為で目元が赤い。ふやけて情けない表情がもとに戻り切れていない。しかし悪い表情とは思わなかった。きっと雲雀が見れば満足して笑うだろう。
 雲雀の部屋の方向へと、廊下を足早に歩く。薄暗くただ真っ直ぐな廊下は相変わらず人の気配はない。雲雀の部屋も通り過ぎ、行き止まりに地上への階段があった。廊下との境目に置かれた認証機へと手を伸ばし、そっと炎を灯す。
 ゆっくりと外への扉が開き、隙間から日の光が差し込んだ。人工の光ではない分、遠慮がなくて眩しすぎる光だ。思わず目を細めながら階段を上がり、外に顔を出す。
 最初に感じたのは緑の匂いだった。青々として爽やかな木々の香り。そして次にすがすがしい風が身体を通り抜ける。雲雀の言う通り、ずっと引きこもっていたからこの感覚を忘れていた。
 視線の先に広がる真っ青な空を見上げ、深呼吸を一回。
「…ここは、」
 見たことがあった。何度か来たこともある。幼い頃は時々祭りがあって沢田たちと遊びに来たものだ。
 遠くの方にある鳥居を眺め、ここは並盛神社だと確信する。
「不健康」
 背後から声がして、ハッと振り向く。そこには雲雀が立っていた。まるで散歩でもしていたかのような恰好をして、トンファーについた血を払っている。
「煙草は吸ってなかったのに、日の光浴びてないからそんなに体調悪そうなのかな」
「は?」
 急に突拍子もないことを言うものだから、一瞬呆気に取られて固まった。しかしすぐ我に返り、咄嗟に距離を取る。腕で顔を庇い、目を伏せた。
「お、オレに近づくな! 急に出てくんなよ! あっち行け!」
「君が心配するようなことは何もないと言ったはずだけど」
「ダメだ。帰る」
「こっちを見て」
 一歩。雲雀の足が視界の端に現れる。
 軽率に出てきてしまったことを後悔する。少し許された気になって油断していた。
 足元に血だまりが出来る想像をしてしまう。冷たい土の上に倒れる雲雀の姿を一瞬でも考えてしまう。
 目を瞑り唇を噛みしめる。すると雲雀は一つ大きなため息を吐いた。
「僕は君の前で死んだりしない。死に場所くらいは自分で選ぶ」
「……」
「こっちを見て」
 穏やかな声だった。朝の挨拶のように優しく自然で凪いだ声。
 微かに瞼を開け、ぼやけた視界で地面を見つめる。震える胸に息を吸い込めば、程よくひやりとした空気が肺を満たした。
 血の匂いはしない。鮮明な赤も映らない。恐る恐る腕の隙間から雲雀の姿を確認する。真っ黒なズボン、だぼついたシルエットのパーカー、それから白く伸びた首。
 真っ黒な瞳と目が合った。
 日の光が眩く雲雀を照らす。綺麗だ、と思った。真っ直ぐでゆがみのない綺麗な男。
「死ぬように見える?」
「……見え、ねぇけど…」
「だったらこの話は終わり」
 雲雀はそう言って仕込みトンファーを仕舞った。
 そういえば先ほどトンファーに付いた血を払っていた。ここで戦闘が行われていたということだろうか。
 一体何があったのかと視線を動かした獄寺を咎めるように雲雀は表情を歪める。
「何」
「…いや、ここで何かあったのか…?」
「君を探している連中がいたから咬み殺しただけ」
「オレを、って…は!?」
「全て終わった。詳細は君のボスから聞けば」
 さも当然のことのように言う雲雀に、獄寺は再び呆気に取られ固まる。
 獄寺を探している連中、つまりは獄寺に改造特殊弾を撃った組織の人間だろう。少し前に笹川が特殊弾を回収しに来るかもしれないと言っていたのを思い出した。まさか獄寺の知らないうちに雲雀が始末をつけていたとは思わなかったが。
 恐らく先ほどの大きな揺れは雲雀自身が起こしたものだったのだろう。どれだけ派手な戦闘をしたかは知らないが、こんなところでよくやるものだ。
「……なんつーか…」
「なに?」
「…うん。分かった」
「何を」
「お前の事、前よりかは分かった」
「ふうん」
 風が吹き、前髪を揺らす。室内にいた時は風に乱されることなんてなかったから忘れていたが、思ったよりも伸びていたようだ。
 雲雀もまた、鬱陶しそうに前髪を払う。
「ヒバリ」
「ん?」
「なんで外出て来いなんて言ったんだよ」
「…僕のこと分かったんじゃないの」
「前よりかはだよ」
「……」
 雲雀は考え込むように腕を組んで、一度獄寺から視線を外した。
 ハッキリものを言う男でも、言葉を選ぶ時はあることを知った。寧ろここに来てから獄寺と向き合ってくれた雲雀はずっとそうだった。
 傷つくのを見たくないから。
 その言葉の奥にある感情も、ようやく理解が出来た。
「顔が見たかったから」
「そうか」
「うん」
「満足したか」
「した、かな」
 獄寺の顔を再度見つめ、雲雀は納得したようにうなずいた。
 泣いたままで出てきたからきっと弱い子供のような顔をしているだろうに。熱くなった目元をこすり、再度雲雀の名を口にする。
「ヒバリ」
「…何」
「ありがとう」
「…君はすぐ礼を言うし謝るね」
「そうだな。でも、ありがとう」
「礼を言われることは、」
「オレのこと好きになってくれてありがとう」
 雲雀の言葉が途中で切れる。獄寺の言葉を飲み込むまで数秒、いつもは飄々とした顔が微かに驚いてこちらを見た。
 瞬きを数回した後、雲雀が何かを言おうと口を開いた。しかし吸い込んだ息は言葉にならない。だから獄寺が代わりに言葉を続けた。
「…好きでいてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
「あちょっと待った」
 雲雀の返答に笑ってしまいそうになった瞬間、不意に喉の奥が何かで詰まったような感覚がした。咄嗟に口を押え、ゆっくりと息を吸おうとする。
 しかし喉の奥の何かは獄寺の意思とは関係なくせり上がってこようとしていた。丁度えずく感覚を刺激され、蹲って詰まっている何かを吐き出す。
「っ、おぇ」
 雲雀と距離を取り、地面に直接吐き出す。
 カン、と軽く地面にぶつかる音がして、何かが転がった。涙目でぼやけた視界の中、何かを捉える。硬い感触の音だったがそんなものを食べた覚えは無かった。
「……銃弾」
 黒く小さな、特徴的な形のそれは、確かに銃弾だ。
 無意識に胸元を押さえていた。あの時撃たれた場所。銃弾が埋め込まれている心臓の有る場所だ。
 とくとくと心臓が脈打つ音が身体に響いていた。

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