15話

 血が流れ、そして倒れていく。苦しくて痛くて死んでゆく身体であったはずなのに、彼は最期まで獄寺を見ていた。自分のものではない感情に支配されて死んでいった。
『目が合った人間を無差別に倒していくと聞いたけど、死なないじゃないか』
 涼しげな顔でそんなことをさらりと言っていた雲雀を思い出す。
『雲雀君はバイタルが一切揺らがなかったんだ』
 納得はいかずとも事実を淡々と話した入江を思い出す。
 大丈夫であるはずだ。だって雲雀は獄寺の傍に居たって何の不調も訴えなかったじゃないか。それどころかずっと世話をして、相手をして。それから。
 それから? そんなものは何の保証にもなりはしないのに。
 人一人を失ったことを忘れていたか。目の前で倒れていった男の顔を忘れたか。
 肩で息をしながら、雲雀の部屋の前に立つ。以前来た時は確かここだった。扉の向こうからはしきりにブザー音が鳴っている。ノックしている場合ではないと判断し、ドアノブを握ってゆっくりと開けた。
「……ヒバリ」
 床に散らばった花瓶の欠片としおれた花。視線を横に動かすと、そこには膝をついた雲雀の姿があった。獄寺が来たのに反応もせず、何度か咳き込む。その度に床に血が飛び散っていた。足元には血だまりがいくつか広がっている。
「…ああ、君」
 痰が絡まった声とともに雲雀が顔を上げる。
 血が流れ、そして倒れていった部下と同じだった。口元は血に濡れ、鼻血を拭った痕がほほの方まで伸びている。けれど目だけは変わらず真っ直ぐに雲雀の瞳のままこちらを見た。
 反射的に目を逸らし、扉を半分閉めて雲雀との間に仕切りを作る。
「入江を、」
「来なくても良かったのに」
「入江を呼んでるから、黙ってろ」
 手元のデバイスを操作し、入江へと救援信号を送る。もしかしたらヒバリのデバイスが鳴っている時点で向かっているところかもしれないが、そうでもしなければ叫び出してしまいそうだった。
 身体が冷えていく。指先が震える。あの日見た光景が網膜に貼りついて消えてくれない。あの時のように雲雀が死んだらどうしよう。雲雀が死んでしまったら、オレは。
「…オレが、」
「君の所為じゃない」
「でも」
「そんな簡単なことも分からないなら黙ってて」
 苛立たしげな声。そして次に何かを強く打ち付ける音がして、ブザー音が途切れた。
 扉の向こうで雲雀が動く気配がする。咳は止まらないのに、こちらへ来ようとしている。ここを離れなくてはと思うのに、足が動かなかった。手がドアノブから離れてくれなかった。
 程なくしてドアノブが向こう側から引っ張られ、扉が開け放たれる。よろついた足取りで雲雀が正面に立ち、目が合った。鬱陶しそうに血を拭うが、その手もすでに赤く濡れていて意味がない。一体どれだけ血を吐いたのか、想像に難くない惨状だ。
「…君なんかに僕は殺せない」
「……」
「一度言ったことを何度も言わせないで」
「獄寺君! 雲雀君から離れて!」
 遠くから入江の声がする。固まっていた身体が弾かれたように動き、雲雀から距離を取って廊下の壁に張り付いた。
 目の前を入江が息を切らして通り過ぎる。雲雀の性格を考慮してか、どうやら一人で来たらしい。
「雲雀君!」
「呼んでない」
「輸血が必要な出血量だ。すぐ持ってくるから君は動かないで」
「邪魔。帰って」
「獄寺君、これ以上は絶対に雲雀君と接触しないで部屋に戻ってて」
 突っぱねようとする雲雀にも負けじと入江はテキパキと指示を下す。いつもは一歩下がった位置に居たがるが、やはり白蘭の隣に数年いただけあって切り替えは早い。
「救護班! 雲雀恭弥輸血準備お願いします」
 デバイスに向かって指示を飛ばしながら来た道をスタスタと帰っていく。獄寺はただ黙ったままその背中を見送るしかできなかった。

死に至る愛 N

 結局すべてが終わったのは夜だった。雲雀が素直に治療を受けたのか、原因は何だったのか、詳しいことはまだ知らない。獄寺は部屋で待つことくらいしかできなかった。
 平等に与えられているはずの時間がいつもよりずっと長く感じた。何も考えられず、かといっていっそのこと寝てしまうこともできずに部屋の壁を見ていた。
「雲雀君の命に別状はない。…まあ、分かってたとは思うけど…」
「そうか」
「ようやく寝てくれて助かった。治療してるこっちが死ぬかと思ったよ…」
 緊張がほどけた顔で入江が笑う。しかし笑い返せるだけの余裕は獄寺になかった。視線だけ動かし、椅子に座ろうとする入江を追う。
「…ヒバリのアレは、オレの近くに居たからか」
「それについては今すぐにハイかイイエで答えられるような話じゃないな」
「でもアイツと一緒だった」
 脳裏に焼き付いて離れない、人が目の前で死んでいく光景。獄寺の目を見つめたまま息絶えたあの男。雲雀もあのまま倒れて死んでしまうかと思った。その瞳に獄寺を映したまま逝ってしまうのかと。
「…少なくとも、雲雀君の処置が早くできたのは君のおかげだ。困った話だけど彼、デバイスの通信を切ってたからね」
「……そうか」
 あの時念のためと入江に信号を飛ばしたのは間違いじゃなかった。それだけでも罪悪感が少しばかり薄れる。
 やはり軽率に近づくべきではなかった。初日に流されて一緒に食事なんて取ったから雲雀と会話するようになって、こんな事態になってしまった。あれだけ部屋が離れていたのだから、本当は距離を取っておくべきだったのだ。
 顔を上げ、入江と目が合う。
「……お前は、大丈夫なのか」
「え? 僕?」
「ヒバリだって最初は効かないだの何だの言ってたけどこうなっちまったじゃねぇか」
「いや、まあ…それは僕の判断が甘かったというか、雲雀君が強硬だったというか…」
 入江は苦々しげに目を逸らし、まごついた態度で言葉を濁す。先ほどまでテキパキと先導して動いていた人間と同一人物だとは思えない狼狽え方だった。
「手術までの間、オレを元の部屋に戻してくれ」
「ああ言うと思った。そんなことしたら雲雀君は毎日君の顔を見に来るよ。それくらいだったらこの部屋に閉じこもって顔を会わせない方がマシだろ?」
「見に来るわけねぇだろ」
「いいや見に来る。さっきまでだって輸血の引っこ抜いて君のところ行こうとしてたんだから」
「嘘つけ」
「こんなつまらない嘘つくわけないだろ! 僕にだってもうちょっとマシなジョークくらい言えるさ!」
 情けない悲鳴を上げながら頭を掻きむしる入江を横目に、そんな雲雀の姿を想像する。今までだったら想像することすらしなかっただろう。しかしなぜだろうか、ほんの少し、ああそんなこともあるかもしれないと思った。
「…心配してんのかな、アイツ」
「そうだよ! ……って、え?」
「オレがまた、ちっせぇガキみてぇに落ち込んでると思ってんのかな」
「…そ、そうだろうね」
 入江の顔が驚きと困惑で不自然に引きつる。まるで超常現象でも見ているみたいな顔だ、と場違いにも呑気な感想が浮かんだ。
 雲雀の気持ちを素直に想像する獄寺がおかしいのか。それはそうだ、余計なノイズもなく雲雀のことを考えるなんて初めてだ。
 ──君が傷つくのは嫌だった。
 その一言が全ての雑音を消し去る。後に残るのは真っ直ぐに向き合った雲雀の瞳だけ。
 遠くを見るような目でぼんやり思い出していると、入江の表情が和らいだ。
「……獄寺君、早速雲雀君と話をしたの?」
「話?」
「手術前にできるだけ話しておいてほしいって言ったでしょ」
「ああ……別に大した話は…」
 したか。
 いつもの調子でしていないと答えようとした寸でのところで止まる。一瞬目を逸らしてしまったため、入江は何かを察してクスリと笑った。
「それなら良かった」
「いや、しようとしてしたわけじゃなくて…」
「会話なんてそんなものさ」
 さて、と話を区切り、入江が立ち上がる。デバイスで時間を確認しつつ、部屋を出る準備を始めた。
「悪いけどもうそろそろ戻らなきゃ」
「…こっちこそ悪かったな、付き合わせて」
「ううん。有意義な時間だったさ」
「……ヒバリは、どうすんだ?」
「彼は意地でもこの施設から離れようとしないからね。ちゃんとデバイスは繋げたし、時々見に来るとも。だけど君との面会は残念ながらダメだね。雲雀君の方から来てもできるだけ拒否してほしい」
「分かってる」
「じゃあね、おやすみ」
 おやすみ、だなんてそんな時間か。
 入江が出ていったのを確かめ、時計を確認する。いつもだったら晩飯をとっくに食べ終えている時間だ。腹をさすってみると、案外素直に腹の虫が鳴いた。こんな時でも腹は空くらしい。
 勝手に食べていいものかと迷いながらも、一人キッチンに向かう。そこは当然のように静かで暗くて何もなかった。朝片付けてからそのままだ。
 いつもはそこに雲雀がいて、獄寺に背を向けたまま淡々と料理をしている。規則正しい包丁の音も、鍋が緩やかに沸騰する微かな音も、よく覚えている。
 真似をしてコンロの前に立ってみる。しかし鍋がどこにあるのかもよく知らない。火の付け方すらも怪しい。
 キョロキョロと見回していると、ふとコンロ横の棚に置かれた籠が目に入った。雲雀の字で「困ったとき」と書かれたタグがぶら下がっている。そっと指を掛けて引いてみると、中身はレトルト食品だらけだった。あれだけ丁寧に毎食手作りしていた雲雀が集めたとは思えないラインナップだ。カレー、パスタソース、インスタントラーメン、その他諸々。
 カレーの箱を一つ、取り出す。箱には小さなメモが貼り付けられていた。
「……冷凍御飯は冷凍庫の引き出しの中。電子レンジで三分…カレーは沸騰したお湯で五分……鍋はコンロ上の棚…」
 覚書のメモかと一瞬考えたが、そんなわけはない。あんな手料理をレシピの一つも見ずに作っている雲雀がレトルトに手間取るはずがない。だとしたらこれは。
「……オレのためか」
 夜中に腹を空かせた獄寺が食べると想定して買いそろえたのだろうか。それともこうなることを予想していたから備えたのだろうか。いずれにせよこれは獄寺の為に用意されたものだ。
 むず痒いような、苦しいような、そんな感覚に身体が縛られる。
 ゆっくりと息を吐き、何かを自覚してしまいそうな自分を誤魔化すようにコンロ上の棚に手を伸ばした。
 鍋を取り出し、水を入れる。そしてレトルトパウチをそのまま入れて火にかける。たったこれだけの動作だが、同時にいくつもこなしている雲雀に比べてぎこちない。
 次に冷凍庫を開け、引き出しの中から小分けにされた冷凍御飯を取り出した。カチカチに固まったそれを電子レンジに放り込み、指定された時間をセットする。
 片方ではぐつぐつと煮え、片方では低い音とともにぐるぐると回りながら温められている。待っている時間は退屈だ。雲雀だったらこの間に何か他の物を作るだろうか、とぼんやり考える。いや、そもそもレトルトなんて温めないか。
「……」
 ちん、と高い音で電子レンジが完了を告げる。獄寺は電子レンジからご飯を取り出し、ついでにカレーを温めていた火も止めた。少し早いが多少ぬるくても構わないだろう。
 ご飯を乗せた皿にカレーを掛ける。スパイスの効いた香りが食欲をくすぐり、また腹の虫が鳴いた。
 カトラリーボックスからスプーンを取り出し、一人分の食事をテーブルまで運ぶ。
 いつも雲雀がしているようにランチョンマットを敷き、なるべく見た目を整えるようにカレー皿を真ん中に置いた。
 獄寺の席に座り、スプーンを取る。そこに雲雀はいない。誰もいない宙に向かって「いただきます」と手を合わせた。

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