駆け出した外で膝に手をつき、肩で息をしながら自分の胸に触れた。心臓がバクバクと脈打っている。
大丈夫。まだ死んでいない。あれはきっと妄想癖が引き起こした白昼夢だ――。そう自分に言い聞かせ、深く息を吸い込む。静かに、長い時間をかけて吐き出すと、少し落ち着いた。
(仕方ないよね。大好きな物語の始まりの場所だもん)
初めてあの物語に出会ったときから、ずっとずっと魔法界に憧れていた。11歳になれば自分の元にもホグワーツからふくろう便が届くと本気で信じていて、誕生日は1日中窓の外を眺めていた。もちろんふくろうはやってこず、次の日大泣きして両親を困らせたものだ。
(もったいないことしたな……)
現金なもので、自分が生きているとわかったとたんに、もっとよく見てくればよかった、せっかくだから話してくればよかったと思い始める。だからなのか、またしてもおかしな光景が目に飛び込んできた。
『……は、ハグリッド?』
ロンドンの街中に、分厚いコートを着た大男がいた。縦にも横にも普通の人の倍はありそうなその男は、周囲からの視線を気にすることなくあちこちを指差しては何かを言っているようだった。人混みから飛び出た長くてもじゃもじゃの髭と髪に遠くからも注目が集まっている。
ノアは手の甲をつねって夢ではないことを確かめてから、走ってその巨大な背中を追いかけた。
(え?なに?撮影?イベント?)
ハグリッド似の大男は1人ではなかった。後ろに小さな男の子がいる。顔は見えないが、くしゃくしゃの髪もおさがりらしきチェックのシャツも見覚えのあるものだ。なんとか会話を聞こうと近づくと、“マグル”という単語が聞こえてきてドキッとした。
(まさかそんな……まさかね……?)
やがて2人は1件のお店に入った。黒くて薄汚れた外観の、ほとんど壁のような入り口だった。2人が入っていく姿を見ていなければ、そこに店があると気づくこともなかっただろう。道行く人も本屋とレコード店の間には目もくれずに歩いていく。
(も、漏れ鍋……)
背中を冷たいものが伝った。しかし1度目の不思議体験で感覚が麻痺してしまったのか、周囲に人がいることの安心感からか、今度は好奇心が勝った。ノアはそっとドアを開けた。
仄暗い店内の風景は間違いなく漏れ鍋のそれだった。そして大男はハグリッドで、男の子は11歳になりたてのハリーだった。バーテンとの会話が、そうだと証明していた。
(嘘でしょ?これって賢者の石のシーンだよね?)
目の前で繰り広げられている光景をノアは見たことがあった。次々とハリーの元に人が集まり、声をかけ、握手を求めていき――そして、クィレル教授の登場。すべてが映画のとおりに進んでいく。
「もう行かんと……ハリー、おいで。買い物をせにゃならん。忙しくなるぞ」
ハグリッドがハリーを呼び、ノアがいるドアとは別の場所から出て行った。パブに残った人達はその後もずっとハリー・ポッターの話をしている。
ただ1人、入り口に突っ立ったままの少女だけが、一言も発することなく店の奥を見続けていた。
(これは……あの駅でやらかしたっぽい……?)
あの世とこの世の境目で、ダンブルドアは汽車に乗ればその先へ行けると言っていた。ハリーは乗らなかった。その場でダンブルドアと会話を続けているうちに靄が濃くなり、気づいたときには元の世界に戻っていた。そう――ハリーはどこにも移動していない。
しかし自分は移動した。どこにでも行ける駅で、本の世界のことを考えながら、魔法界と人間界を結ぶ壁をくぐった。
(わ、わあい。夢が叶った……)
ノアはどこか遠くを見つめたまま、青ざめた顔に引きつった笑いを浮かべた。
* * *
どのくらいそうしていただろうか。次の客が入ってきたところでノアはようやく動き出した。
(これからどうしよう……)
とりあえず近くの席に腰掛け、周囲を見回してみる。出来立てのパイを頬張ったり、噂話に花を咲かせたり……ここに別世界から迷い込んだ少女がいるとは知らず、客も店員も各々の日常を続けている。行われていること自体はノアの知る日常と何ら変わりはない。
ただ、彼らは紛れもなく魔法使いと魔女で、ここは魔法の世界だった。杖を振るだけでろうそくに火が灯り、壁にかけられた肖像画は動き、ときどき机の下をしもべ妖精がかけていく。カウンターの奥を見れば、皿やグラスが宙に浮き、泡立ったり、ぴかぴかに磨かれたりしている。
(ああ、すごい。まさに魔法だわ……)
憧れの世界はやっぱりすばらしく、ノアの心をときめかせた。次第に頬に赤みが戻り、引きつっていた笑顔も自然なものになってくる。
そういうことならばと、切り替えが早いことに定評のあるノアは、これからのことを考え始めた。
(こっちで暮らすとして、問題は保護者ね)
突然魔法界に放り込まれたところで、面倒を見てくれる人がいなければ路頭に迷って終わりだ。お約束的にいって頼れるのはダンブルドアなのだろうが、なんだかいいように利用されそうで怖い。
(ダイアゴン横丁に行けば誰か拾ってくれるかな)
たとえばマルフォイ家。今日はドラコがマダム・マルキンの洋装店に現れる日だったはず。そこで待ち伏せし、仲良くなって拾ってもらえれば万々歳――なのだが、この際贅沢は言っていられない。選り好みした結果誰にも拾ってもらえず、ノクターン横丁の路地裏で野垂れ死になんてことになったら、せっかくの魔女ライフが台無しだ。
(なんだかんだでやっぱりダンブルドアが1番安心安全なのかな……あ)
ハグリッドにホグワーツまで連れて帰ってもらおうと決めたところで、ここにまだ1人、よく見知った人物が残っていることを思い出した。彼もホグワーツの教員だし、闇陣営だし、1年で退場するからその後の家を使い放題。ざっと頭の中で自己紹介用の設定を組み立てたノアは、善は急げと残った客の中で唯一名前のわかる男の元へ向かった。
『あの、すみません。クィリナス・クィレルさんですよね?』
「は、はい。そうですが……な、何か御用で?」
『私、ノアと申します。実は私……あなたの娘なんです』
「わ、私の!?」
クィレルは素っ頓狂な声を上げた。胸の前で組んだ指をせわしなく動かし、誰かのいたずらではないかとおどおどビクビクしながら周囲を見回す。そして違うようだと判断すると、小さな女の子に見覚えがないかよく確かめた。
艶のある黒髪に、同じく黒い瞳。東洋系の顔立ちのようだが、鼻筋は通っていて肌も白い。年はハリー・ポッターと同じくらい。その割には話し方がずいぶんと落ち着いている。大人をだまそうとする子ども独特のそわそわした感じもない。
しかし。クィレルには見覚えもなければ身に覚えもなかった。
「あ……え、ええと、誰か……私の、お、お知りあいの……?」
『母が、父親はクィリナス・クィレルという方だと言ってました』
「い、いや、そんなはずは……そ、その母親はどこに?」
『もういません』
「そ、それは、えっと……」
『もう会えません』
本当にもう会えないかもしれない――そう思ったら、急に悲しくなってきた。涙が出そうになったので俯くと、ますます焦った様子のクィレルが隣に座らせて声を潜めた。
「わ、私はたしかにクィリナス・クィレルですが、け、結婚はしていませんし、こ、こ……子どもも……作った覚えが、あ、ありません」
『わかってます。母は父に子どもができたことを話していないと言っていました』
「いや、あ、あなたの年齢的に……そ、その……絶対に、あ、ありえないことで……」
『それじゃ母が嘘を?』
「いえ!う……嘘ではなく、か、勘違いという可能性も」
クィレルは終始おどおどしながらも、頑なに否定し続けた。気弱だから押せば何とかなるかと思ったが、思ったほど甘くはなかった。子どもの話なのだから当然といえば当然だ。
『そうですか……急にこんなこと言われても困りますよね……』
「え、ええ……そ、そうですね、ざ、残念ですが」
『でも、あなたに見捨てられたら、私は行くところがありません。お願いします。そういうことにしてください』
「そ、そんな無茶な……」
『私の母には予知能力がありました。私もそれを受け継いでいます。私、役に立てると思います』
できればこの手は使いたくなかったが、背に腹は変えられない。ノアは1つ予言をしてみることにした。
『これからグリンゴッツに行くところですよね?』
「な、なぜそそそれを?」
『目的のものはありません。金庫は空です。賢者の石はホグワーツに移動されました』
買い物中のハグリッドが襲われても困るので、もうホグワーツだということにしておいた。クィレルはみるみるうちに青ざめ、押し黙ってしまった。
「……か、確認します。話はそれからです」
立ち上がり、ノアに待つように言って足早に出て行く。戻って来たときは、さらに青い顔をしていた。