――見つけた。
雑踏の中で日本語が聞こえた気がして、私は立ち止まった。キョロキョロと周囲を見回し、誰も自分を見ていないことを確認して首を傾げる。
ここはイギリス、ロンドン。キングズ・クロス駅。日本語が飛び交う場所ではないが、聞こえるはずがない場所でもない。
(えっと、何するところだったっけ)
懐かしい言葉に気をとられて忘れかけた目的を思い出すためにぼーっとする頭に鞭を打ち、自分の状況を確認する。
灰色のスカートに、灰色のセーター。白いブラウス。緑のマフラーを巻き、膝までの黒いロングコートを羽織っている。手には小さなトランク型のカバン。
(そうだ。聖地巡礼だ)
雰囲気だけスリザリン生に寄せたなんちゃってコスプレでイギリスを観光してまわっているところだった。9と3/4番線を見に行こうとキングズ・クロス駅に入り、映画で見たまんまの光景に感動するあまり目眩を起こし、1度落ち着くためにカフェに入ってきたところ……な、気がするが、詳細はどうでもいい。それより9と3/4番線だ。
『わああ、すごい、本当に壁にカートが刺さってる!』
ネットで見たとおりの光景に心が躍った。体まで踊りだしそうなのを必死にこらえ、そっとカートに手を伸ばす。たくさんの感動を与えてくれた、大好きな物語が頭の中に甦ってくる。
この先に9と3/4番線があって、紅色の汽車が待っていて、乗車した者を魔法学校へ運んでくれるのだ。もちろん本の中の世界での話だが、こうして同じ場所に立つと、まるで現実世界の話のように思えてくる。ちょっとでも力を入れて前に踏み出せば、あの世界へ行けそうだった。
(……え?動いた?)
妄想が過ぎたのか、壁に刺さったカートがわずかに先へ進んだ気がした。そんなまさかと目を凝らし、もう少しだけ押してみる。車輪が完全に見えなくなった。
「邪魔よ」
自分の世界に浸っていたところに通りすがりの人がぶつかってきて、現実に引き戻される。すぐに謝ろうとしたが大きく前によろめき、それどころではなくなった。
壁と繋がるカートを握っていた。だからそれが支えてくれるはずだった。それなのに、後ろから押された体は大きく傾き、足が前に出された。
1歩、2歩……。ホーム上にある柱に向かって、まるでスローモーションのようにカートごと壁に吸い込まれていく。
(ぶつかる!)
目の前にレンガが迫り、目をつぶった次の瞬間。握っていた取っ手の感触が消え、体が前に投げ出された。
ビターン。
そんな漫画みたいな音を立て、私は転んだ。
「大丈夫ですか?」
かけられた声は、先程ぶつかってきた人とは別人のもののようだった。ずっと低くて、落ち着いている。
『大丈夫で……す?』
疑問系になったのは、声の主が目の前に立っていたからだ。確か自分はカートのオブジェで柱と繋がっていたはず。
(というかカートは?私なんで転んだの?)
ジンジン痛む膝を軸に上半身を起こし、目が点になった。さっきまでごった返していたはずの人がいない。ホームに止まっていた電車もなく、構内放送も聞こえない。キングズ・クロス駅には違いないが、全体的に霞がかっていて、現実とは思えないほど静まり返っている。
(ホームに落ちたとかじゃないよね?)
旅行先ではしゃぎすぎて転落死、なんてしゃれにならない。
しかし死んだとしか思えなかった。そこはまるでハリーが死の呪文に打たれてやってきた場所で、目の前に立つ男はあまりにも死神めいている。
黒くて長いマントに全身を包んだ姿は、あの世界で例えるなら死喰い人。フードを目深にかぶっているため、顔を見ることもできない。かろうじて口元がのぞいているだけで、声を聞いていなかったら男か女かもわからなかっただろう。
(三途の川も進化してるんだなあ……)
向こう岸でご先祖様がおいでおいでするだけでは、誰も川を渡らなくなったのだろう。個人に合わせてよくカスタマイズされている。もし現れたのがセブルス・スネイプだったりしたら、後先考えずに飛びついていたかもしれない。
『あ、大丈夫です。1人で立てます。おかまいなく』
差し出された手を無視し、颯爽と立ち上がって男に背を向ける。闇陣営好きとしては彼の正体が非常に気になるところではあるが、命を引き換えにする気にはなれない。背後でパサッとフードを外す音がしたので、誘惑に負ける前に目をつぶって壁に突進した。
ざわめきの中に放り出され、目を開けて振り返るとそこにはレンガでできた柱があった。カートは刺さっていない。
もう一度壁に触れてみる勇気はなかった。一目散に逃げ出し、キングズ・クロス駅から飛び出した。
――行ってらっしゃい。
雑踏の中で、また日本語が聞こえた気がした。