彼のいない一日目
ノボリがいない。
いたらいたでうっとおしいと思うものも、いないとそれはそれで淋しいな、と広く感じる家の中で一人ごちた。
「(ブラッシングをしてそれから買い物に行こう)」
かちゃかちゃと食器を洗っていると背中にちくちくと視線を感じた。最初は気のせいだろうと思って作業を続けていたのだが、振り返ってみると四対の目がそれぞれこちらに顔を向けていた。
「・・・なによ」
じとっと睨み返せば、彼らは少しだけ大人しくなった。
「いい?勝手にボールから出ちゃ駄目よ」
そう言い聞かせたハイネの腰には五つのモンスターボールがあった。しかしそのボールには薄くスモークがかかっており、中に入っているポケモンの姿を見事に隠している。何故こんな加工が施されているボールを持っているのかというと、それもまぁ仕事柄というか、用心深いハイネが旅立ちの際に用意したものに他ならない。
マンションから一歩外に出ると、そこは人だらけ。ため息をつきたくなる気持ちを抑えてスーパーに足を運ぶ―――途中、観覧車の前でバトルをしているトレーナーを見かけた。
かすかに揺れるボール。
それにつられて、足を止めそのバトルに魅入った。
「(ジャノビーとメグロコか・・・)」
相性的にはジャノビーが有利。しかしそこはトレーナーの指示が甘いのか、僅かだがジャノビーが押され気味。まだポケモンを持って日が浅いらしい。あまり連携が上手くない。メグロコの絶妙な技のタイミングに意表を突かれ力を発揮できていないようだ。
そのまま様子を見ていると、惜しい、と思うような場面がいくつかあった。けれどやはり草と地面という相性が幸いしたのか、同じくらいのレベルだった彼らのバトルは、ジャノビーをボールに戻した茶髪のポニーテール少女に軍配が上がった。なるほど、才能はあるらしい。
「(それにしても・・・)」
メグロコのトレーナー・・・緑色の髪をした青年をじっと見やる。
どことなく不思議な雰囲気を醸し出している―――無機質に揺れる瞳。バトルの最中に少女と口論していて度々見られたが、芯はしっかりしているのに対し、精神面が幼い印象を受けた。言葉で揺さぶりをかけられるのに弱いとみた。見た目に反して随分ちぐはぐだ。それから一言二言話したかと思うと、ぽかんと口を開けた少女に背を向けて、歩き出した。
・・・ハイネのいる方に向かって。
どうこうしようという訳ではないが、彼が一歩近づくごとに息が詰まるような感覚に陥った。なんだろう、未知のものに遭遇した時の―――恐怖と好奇心が複雑に絡み合ったような、わくわくとどきどき、いわゆる一種の高揚感。
唇の端がゆるゆると上がるのが分かった。
「ねぇ、貴方」
通り過ぎる一瞬、声をかけた。
青年はまさか声をかけられると思っていなかったのか、きょとんとした表情でこちらに顔を向けていた。
「・・・ボク?」
「ええ、そう」
「なに?」
「別に。さっきのバトル、惜しかったわね」
「・・・ボクは別に勝負にこだわってる訳じゃない」
そう口にすると、青年は気分を害したように目を鋭くした。
「それだけならもう行くよ、ボクは成し遂げなければならないことがあるんだ」
「教えてくれない?」
「・・・いいだろう」
ハイライトのない暗い瞳の中に、周囲を反射しているガラス玉のように自分の姿が映った。
やはり口端は楽しげに吊りあがっていて、目は意地悪そうに笑っている。
「人間に捕らわれた可哀そうなポケモン達を解き放つため。イッシュの英雄になってポケモンだけの世界を作る、それがボクの理想」
「・・・」
「ボクの成し遂げなければならないことだ。人間は私利私欲のためにポケモンを利用している・・・ボクはそれが許せないから」
ポケモンの解放―――
それを聞いた時、まさか、と彼女と交わした会話を思い出した。
“最近ポケモン愛護団体の動きが活発になっている”
この青年の口ぶりからして、関係がないはずがない。
「・・・キミもどうやら他の人間と同じようだね」
腰にあるモンスターボールを一瞥し、ハイネのちょうど横あたりの何もない空間に視線を向ける。
「上手く隠れているようだけど・・・キミのトモダチかい?」
「(あら、見つかっちゃったみたいね)」
青年の動作に、表情には出さないが内心驚くハイネ。今までどんな場所に行こうが、同じゴーストタイプであってもそんなことはなかったというのに、出会って間もない赤の他人に見破られてしまった。
・・
しかも、人間。
ますます興味深い。
姿を消していたムウマージも、自分の気配を察した人間に好奇心がくすぐられたのか愉快そうな鳴き声をあげながら色を濃くして現れた。
「他の人間と同じっていう根拠は?」
「ボールの中にポケモンを閉じ込めて拘束している。その子だけは外に出しているみたいだけど、どうせバトルで傷付けるんだろう。何が違うというの?」
「その考え、捨てた方がいいわ。そうね、ボールの中に閉じ込めてはいるけど、それがだけが全てじゃない。ポケモンは優しくて、強い・・・でも捕まってしまえば自由ではなくなる」
「だから、ボクが解放するんだ」
「それが余計なお世話なのよ。お角違い、お節介、有難迷惑。その気になればトレーナーを殺して逃げることくらい簡単じゃない」
「それは・・・っ、彼らが優しいから」
「そう、優しいの。馬鹿みたいに純粋で健気で、裏切られても人間を信じようとして縋りつく。それを忘れて調子に乗っている人間がいるから、貴方みたいな人が現れるのよね」
「キミは何が言いたいんだ・・・!」
「ふふ、さっきのバトル見てたら昔を思い出したの。だから懐かしくって、つい声かけちゃった」
悪戯に笑うと、わざとらしい動作で青年と向かい合う。
「貴方、昔の私にそっくりなのよ」
それは、ポケモンへの眼差しが人間に向けるものと違うことに気付いたから。
近くにいてくれる存在を奪われたくなくて、でも自分はちっぽけだから何もできなくて、圧倒的な力の前では霞んでしまうくらい無力なことを知って、嘆き悲しんだ。
けれど―――泣きたくなかったから、強くなる道を選んだ。
自分が強くなれば変われると信じて。
「・・・ふふ、つまらないこと言っちゃったわね」
「・・・・・・キミもボクの邪魔をするのかい」
「邪魔?別に好きにしたらいいじゃない、あんまり興味ないもの」
「・・・キミはボクの知ってる“人間”とは違うような気がする。いや、初めてか・・・トウコにも似ていないね」
「トウコ?」
「英雄になれる可能性を秘めている人間だよ」
「そう・・・まぁ、できるものならどうぞってところかしら。未来の英雄さん?」
「ボクはN」
「私はハイネ」
また会いたいな、と去っていく彼の背中に呟いた。
その日のことは、あまりよく覚えていない