嵐の前の静けさ


お風呂からあがってリビングに続く廊下へ出ると、ふわりと食欲をそそる良い香りが空腹の胃を刺激した。

そういえば、ノボリが夕食を作ったと言っていた。




今日はビーフシチューか。










「ハイネ様?おや、まだ髪が乾ききっておりませんね・・・どうぞこちらに座って下さいまし」











器にサラダを盛り付けていたらしい。


いったん手を止め、タオルを持っていそいそとやってくる姿は新妻のようで微笑ましい。
私は促されるままソファーに身を任せた。














「今日はずいぶんとお疲れのようですね」

「・・・何言ってるのよ、ノボリの方がよっぽど疲れる仕事してるじゃない」

「わたくしは、好きなことをさせて頂いておりますので」












水分を拭き取っていくノボリの手つきが気持ち良い。


私は膝の上のムウマージを乗せて撫でる。ゴーストポケモンはゴーストなだけに触れることはできないのだが、気を許した者だったり同族どうしだったりすると意識しなくとも触れるようになるらしい。


はっきり“触る”というよりも、わたあめのようにふわふわしたものなのだけれど。


私がムウマージばかり撫でていることが気に入らないのか、ノボリのシャンデラがボールから出てきて、私の横腹にぐりぐりと頭を擦りつけた。












「!!こ、こらシャンデラ!ハイネ様に何て事をしているのです!!羨ま・・・ではなく、ハイネ様はお疲れなのですよ!!」










私はムウマージ以外の手持ちをノボリに見せたことがない。

一回だけ気まぐれにサブウェイのシングルトレインに挑戦したことはあるが、運が良かったのかなんとムウマージ一匹だけでノボリのところまで辿りつけた。その時は自分からリタイアしたため、他の手持ちを彼は知らない。


もちろん、家の中でもボールから出すのはムウマージだけだ。



そのせいか、ノボリは私がポケモンを苦手だと思っている。








「別に、ポケモンが苦手な訳じゃないわ。私の子たちは外でのんびりする方が好きだけど、家の中だとやっぱり気を遣うみたいだから」







苦手ならわざわざバトルサブウェイに乗ったりしない。



シャンデラに呼び掛けると、嬉しそうにムウマージを押しのけるようにして膝の上に乗ってきた。
・・・ムウマージの機嫌が悪くなったような気がする。











「・・・ノボリもこうされたいの?手が止まってるわよ」

「も、申し訳ございません・・・あの、わたくし、ハイネ様はてっきりポケモンが苦手なのかと思っていまして、驚いたのでございます」

「まぁ、それもそうね」
























ノボリはとても器用だ。


手先もそうだし、「どうやったら望んだ結果になるのか」という加減をしっかり理解しているから仕事においても要領が良い。





「・・・美味しい」

「ほ、本当でございますか・・・!!」







料理の腕前はプロにも引けを取らない。


目の前でほかほかと湯気を立てている肉無しビーフシチューは、ワインや調味料、果ては食器のデザインまでこだわったノボリが腕によりをかけて作ったものだ。












「ノボリと結婚する人は本当に幸せね」












わざとらしく言うと、ノボリは寂しげに口元を歪ませた。











私は肉が食べれない。




生はもちろん、あぶっても焼いても煮込んでも、燻製したものでさえ受け付けない。口に含み咀嚼した途端、胃の中の物がひっくり返るくらいの吐き気に襲われ、冷や汗が止まらなくなるのだ。

まずいから、という理由ではない。

ノボリが初めて私に料理を作った時―――間違いなく美味しかった。

けれど作った人に関係なく、ぞわぞわと這い上がる悪寒と嫌な風味と共に吐き出して、数日間寝込んでしまったのを覚えている。






それからというもの、ノボリは肉料理を出さなくなった。


















「(でも、ノボリはベジタリアンでもないからお肉は食べた方が良いのよね)」






いくら細いといっても成人男性だ。


サブウェイではバトルに施設管理にと忙しく負担のかかる役職にいる彼だ。

野菜中心の食生活を送っていたら倒れかねない。



だからせめて、と私は彼のお弁当には肉を入れるようにしている。食べることはできないが、マスクをすれば調理している間に吐き気はこない。調理はできるのに食べれないというのはなんとも味気ない。












「ああそうだわ、言わなきゃいけないことがあるの」

「はい?なんですか?」

「これから仕事が増えるかもしれないから、夕食は一人で食べてもらえないかしら?作る時間はあるのだけど、夜に呼び出されるかもしれないし・・・いつこの家を開けてもおかしくないの」

「え・・・」

「少し、寂しい思いをさせるかもしれないけど・・・我慢してもらってもいい?」

「・・・は、はい。分かりました」












早口で言うと、ノボリは口を開きかけ何か言いたげにこちらを見たが、結局何も言わなかった。

スプーンを口に運ぶ手を止めて俯く姿は、飼い主にお預けをされたガーディのようで可愛い。

申し訳なく思わないのは、自分の性格ゆえにノボリの傷付いた表情が好きだからかもしれない。








「家は好きにしていいわ、私は戻ってくるから泣かないでね」

「なっ、泣いたりなどしません!!」

「ふふ、どうかしら。貴方、意外と寂しがりだから」

「・・・・・・」

「でしょ?」










じっと見つめると、ふてくされたようにそっぽを向かれる。






可愛い
可愛い












「・・・ハイネ様にだけですよ」












ああもう、本当に









愛おしい。




























昼間聞いた話が真実なら、これからもっと忙しくなるだろう。


地下で働くノボリに被害がいくかは知らないが、バトル施設であるサブウェイはポケモン愛護を謳う者にとって格好の標的になるだろうことは簡単に予想できる。

標的にされたとして、地上から押し寄せられては多勢に無勢というものがあるだろう。






幸い、まだ表沙汰になっていないようだし、危ない芽は早々に摘み取るに限る。









































せっかく手に入れた平穏なんだから





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