真夜中の来訪者は珍しいことではなかった。
主に歪夢様を殺そうと押し寄せる分家の者、表世界の暗殺者、宗教法人だったり肉体改造されたゾンビ犬・・・ネタには事欠かない。
しかし、匂宮を潰そうと大群が来ることはあっても、まさかこんな大物が目の前にいきなり現れたらどうするだろう。
「申し訳ありませんが、歪夢にどのようなご用件でしょうか?」
「ええと、ごめんね、うん、夜分遅くに悪いんだけど、人類最善の彼女に会わせてくれると嬉しいなぁ」
右目と首元を真っ白な包帯で覆い隠し、暗闇に溶けて消えそうな黒衣をはためかせ、月の光を見事に反射する美しい銀の髪を持つ少女は、悪意のない微笑みで僕に言った。
こんな時間に非常識な、とも思うが、裏の世界に住む人間にそんなものは通用しないので何とも言えない。
何故年端もゆかぬ少女に怯えているのか―――
いや、己のこれは怯えではない。
目の前の人物への尊敬の念もあるが、何より今は主の為、体を歓喜に震わせている暇はない。
「失礼ですが、人類最厄様。歪夢様は只今お休みになられております」
そう言って、恭しく頭を垂れる。
人類最厄―――
裏世界の人間であれば知らぬものはいない。
人類最強よりも強く、人類最善よりも尊いとされる存在。
そんなお方を門前払いするような形になって非常に残念だが、先ほども言った通り主の為だ。
歪夢様は規則正しい生活を心がけている。不思議だ。
仕事で徹夜することはあっても睡眠不足を補うかのように昼寝するし、食事しなくても生きていけると豪語する以外は特に体調を崩すような無茶な生活をしていない。“普通”の人間に憧れている節はある。この間は純愛ドラマを見て茹蛸の様に真っ赤になっていた。熱中すると他の事に気が回らなくなったりずっと眠ったままであったり奇妙な行動はあるが、まぁ、そんなところも注意すればきちんと三食おやつ付きで食べてくれるのだからなかなか可愛らしいと思う。
変な回想をしていたところ、少女と目があった。
―――――恐ろしく強い。
そして、悲しいくらい美しい。
驚くほど澄んだピジョン・ブラッドの瞳から彼女の心意を探ろうにも、そこに映されるのは奇妙な顔をした僕しかいなかった。目が逸らせない。この少女は何もしていないのに、僕は言葉を紡ぐことさえできずに立ちすくむ。探ることはできないが、伝わってくるのは慈愛と悲哀の感情だった。主である歪夢様の美しさは、いうなれば「強さを感じさせる生」であり、あの人類最強と似た野性味のある、けれど気品のある雄々しいものだ。
けれど、この人類最厄は―――この世のものをは思えない、作りものめいた、触れれば壊れてしまうのではと錯覚しそうな死を連想させる美しさだった。儚い、ともまた違う。
数分、数十分だったかもしれない。
一方的な見つめ合いは彼女がふと視線を外したことで終了し、次に困ったように頬を掻き、屋敷を見上げていた。
「んー、じゃあ伝言とか頼んでもいいかな?流石に寝てる最中に起こしたら可哀想だし。出来たらでいいんだけど」
「伝言、ですね」
「うん、大丈夫?」
本能的な緊張からか、情けなく笑い始めた僕の膝を心配してくれている少女の気遣いを有り難く感じながら、首を縦に振った。
「ああ、良かった」
ほ、と彼女が安堵のため息を吐く。
ああ、この人は嘘つきだ。
絶対、この人には敵わない。
少女について何も知らない僕が言うのもおかしいが、これだけは闇口の誇りにかけて誓える。殺し名の勘だろう。この人は、僕なんかとは格が違う。生まれる次元が違う。立っているステージが違う。もしかしたら、歪夢様より強いかもしれない。
もしここで僕が是と言わなかったら―――否、他の者が拒否したところで彼女にとって何の意味もなさないだろう。出直してくる、と口で言い人知れず屋敷へ侵入するに違いない。彼女にはそれができるのだから。
そう、優しい人なんだ。
僕を倒すことなんて容易いことだろうにそうしないのは、匂宮本家の屋敷にいる僕のためだ。殺し名序列第一位の匂宮に敗北は赦されない。闇口である十六夜がいるだけでも異質だと囁かれている上に、部外者に負けたとなればどうなるか分からない。責任として、歪夢にも罰が下るかもしれないのだ。
僕だけでなく、歪夢様まで。
なんて、優しい嘘をつく人なんだろう。
「じゃあ、お願い」
少女は僕にしゃがむよう促し、耳に手を添えると静かな声で言った。
まるで、子供のように。
永劫の誓いを胸に抱いたまま
永遠に眠る君の傍で
紅い涙を流す
涙を喪った瞬間から泣けなくなった
こんなにも心は痛くて悼くて
君は永遠に目を閉じたまま眠る
君が隣りにいない今
心を保つ為に咆哮一つ
それはきっと、警告だ。
「そうそう、あとひとつは、貴方に」
「僕・・・ですか?」
「うん。貴方は自己犠牲の精神が異常みたいだから、誰かが言わないと・・・歪夢ちゃんの言葉は直接的だけど乱暴で勘違いされやすいから相手に伝わらないんだよね、ツンデレもいい加減にしろって思うけど、それも可愛いというか」
「え、あの、」
「つまり、これからも歪夢ちゃんの傍にいてあげてね、ってこと」
チェシャ猫のようににんまりと唇を歪ませて、彼女は夜の闇に消えてしまった。
貴女を護りたい、護ってみせます(その後、僕は歪夢様に「何故起こさなかったんだ」と怒られた)