06

8月の北海道の平均気温は20度程度と東京と比べて10度近く低い。呆然と新千歳空港に降り立った名前は、気温のせいなのか今の状況のせいなのか薄寒さを感じて両腕を摩った。
「どうした?」
「いや、寒気が……」
「お前なんでそんな薄着なの?ジャケットは?」
「ジャケットを取りに戻る間もなく五条さんが廊下で私を拉致したからでしょうが!」
名前は唯一持っていた報告書をクリアファイルごとまるめて五条の腹めがけて叩き込んだ。
無下限を解いていた五条は甘んじて名前の怒りの込められた一撃を受け入れた。痛くも痒くもない。
「じゃあまず昼飯食べに行くか。七海と合流するまで少し時間あるし」
五条は予約していたタクシーに乗り込み、名前の腕を引いた。
ここまで来たらもう名前には抵抗はできない。何せ財布もスマートフォンも持っていないのだ。万が一置いていかれたらどこにも行けず何もできずに詰んでしまう。
観念したかの様に項垂れる名前の隣で五条は意気揚々と空港で見つけたパンフレットを取り出した。
開けば札幌市中央区の地図が簡素化されて記されていた。
「車の中でそんな細かい文字見てると酔いますよ」
「大丈夫だって。それより何食べたい?ジンギスカン?ラーメン?寿司?ちょっと暑いけど石狩鍋?鍋って気分じゃないなあ僕」
「海鮮丼食べてサッポロビール飲んで締めにラーメンですかね」
「……昼ご飯の話なんだけど?」
「昼ご飯の話をしてますけど」
腹を括った名前は北海道をエンジョイすることを決めた。

タクシー運転手に札幌駅近くの美味しい海鮮丼屋とラーメン屋を聞いた名前は打って変わってルンルンとタクシーを降りた。
五条の持っていた地図を頼りに駅からすぐの寿司屋へ向かうと、昼時ということもありサラリーマンが列を作っていた。
「これ待つ気?」
「お昼時なのでどこも混んでますよ。待ちながらメニュー決めれば時間潰しにもなりますし。寿司屋だから回転も早そうじゃないですか」
店員にメニューを手渡され受け取った五条はペラペラとページを捲った。
隣からの視線で気が付いたのだが、名前との身長差は30cm以上である。五条の胸の高さでメニューを持つと名前の頭の高さとなり、名前はメニューを見ることができない。
仕方なく五条は名前にメニューを渡し、腰を曲げるようにして覗き込んだ。
「どれにしよっかな〜」
名前は悩み抜いた結果、スペシャル海鮮丼の小盛を頼み、五条は握りのお任せを頼んだ。
「お兄さん、生ビールも1つください!五条さんはどうされます?」
「僕は熱いお茶で。名前、お願いだから酔い潰れるのだけはやめてね」
「大丈夫ですよ。この位ヨユーヨユー」
名前は機内でもシャンパンを飲んでいた気がする。早速、運ばれてきた札幌ビールを美味しそうに飲み干す名前を見て、五条は同級生の家入を思い出した。彼女も大層な酒好きである。
「んあ〜美味しい!見てくださいよこのぷりっぷりのエビ!写真撮りたかったのに残念」
「撮ってあげるよ」
五条は自身のスマートフォンで海鮮丼を頬ばる名前を適当に撮った。
「ちょっと五条さん。撮るなら撮るって言ってくださいよ」
「キメ顔する気?誰にも需要ないでしょ」
「ブス顔残るよりマシです」
意地悪そうに口角を上げて何か言いかけた五条の口の中に、名前は肉厚な帆立を突っ込んだ。すごく失礼なことを言われそうな気がした。
「……流石北海道、貝も美味いね」
「北海道万歳。ご馳走さまでした」
ぺろりと海鮮丼を完食した名前は、次なる目的である札幌ラーメンを目指した。

小盛りとはいえそれなりのボリュームのあった海鮮丼を食べた後にラーメンを食べ切れるのかという五条の心配を他所に、名前はせっせと麺を啜っていた。
「そういえば七海さんとの待ち合わせって何時にどこなんですか?」
「15時に札幌駅南口だけど、僕達ちょっと任務があるから名前はホテルで休んでていいよ。夜までには終わらせるから夕飯で合流しよう」
「ホッ!グエッホ!エッ……ゴホッ!」
ホテルの単語に名前は思わず咽せた。
「ホテルって!」
ラーメンの暑さのせいか、咽せたせいか、それとも別の何かのせいか名前の顔は赤くなっていた。
「残念だけどデイユースだよ。僕明日朝イチで別の任務あるし……なに、期待した?」
「いや、宿泊だったら着替えも化粧品ないしどうしようかと思っただけです。あーびっくりした」
水代わりに本日2杯目のビールで喉をすっきりさせ、胸を撫で下ろした名前は再度ラーメンに向き直り、野菜を咀嚼する作業を再開した。
「スマートフォン持ってないんだから勝手にホテルから出るなよ」
「え?もしかして私、観光できない感じですか?」
「自分の目のこと忘れた?僕と居る時点である程度の呪詛師から目をつけられるだろうし、札幌は人が多いから呪霊も湧きやすい。目玉くり抜かれたくなかったら大人しくしてな。それとも僕たちの任務に着いて来たい?」
「嫌ですよ。どんな任務か知りませんけれど、一級と特級が行くような任務に私がついて行ったところで良くて足手纏いじゃないですか」
戦う術を持たない名前は、下手をすれば死にかねない。絶対に行きたくなかった。
 
 
 
伊知地はスマートフォンを耳に当てたまま、シクシクと痛みを訴える胃を皮膚の上から優しく撫でた。
伊知地の胃を攻撃する電話をかけて来たのは五条である。
先日、七海の予定について五条から問いただされ、七海が今日から北海道にいることを伝えてしまっていた。
そのため、五条が北海道にいることに対しては驚かない。問題は、伊知地が今必死に探している名前も北海道にいることだった。
「今、北海道なんだけどさァ」から始まった電話の後に「名前も一緒にいるから悠仁の夕飯頼むよ」と続けられて伊知地は飛び上がった。
貴重品を全て残して消えてしまった名前を高専中探して回っているのに見つからないと思ったら、その探し人は高専どころか800km離れた北にいたらしい。
「なにそれウケる。あいつ行方不明扱いになってんの?まあいいや。あと片付けに何人か寄越して。場所は七海がメールするから」
「はい。あの、五条さんお帰りはいつに……」
伊知地の言葉を最後まで聞かずに頼み事だけを残して五条の電話は切れた。
別に虎杖の食事の手配は苦ではない。名前も事故や事件に巻き込まれていないことが分かり、一安心ではある。そして任務も無事に終わったようだ。
それでも伊知地の胃はシクシクと泣いていた。
「伊知地さん。五条先生からですか?」
電話が来たからと離れたところで応答していた伊知地に伏黒は近づいた。その足元には玉犬がいる。名前の匂いを頼りに高専敷地内を探索したが、見つけられずにしょんぼりした顔をしていた。
「五条さんからでした」
伊知地は伏黒に今聞いた事実をどう伝えたらいいのか迷った。伏黒は顔を青くして恋人である名前を探している。
その必死な様子を見てしまっては、名前は五条と北海道にいるということは告げ辛かった。
「伊知地さん?どうかしました?」
「……名前さんは五条さんといるようです。問題は無いそうなので一安心ですね……」
結局、伊知地は知りえた情報の一部を伏せた。彼女が五条と北海道にいるというのは知らない方がいいだろう。術師ならば任務と誤魔化せたが、名前は事務員である。
事務員と特級術師が北海道に出張は、どう考えてもおかしい。そして帰りは未定だ。
最近、補助監督の間では、五条と名前が付き合っているのではないかという噂も流れている。伊知地には五条が何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「…………そうですか。五条先生と」
伏黒の顔から感情が消えたのを見てしまった伊知地は五条を恨んだ。

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