06

2004年 夏

蚊取り線香に火をつけた名前は立ち上がる柔らかい香りに頬を緩めた。白い煙は線を描くように立ち昇り、薄く広がっていくことで空気中に霧散した。
その煙をかき消すように、部屋の外から聞こえる足音が絶えることなく響く。忙しない空気が屋敷を取り巻いていた。
「お前は相変わらず暇そうだな」
「お帰りなさい……まあ、暇かな」
お盆を控え、五条家の使用人は目を回すような忙しさに追われているようだった。
普段は立入禁止とされる奥の間には盆棚が設置され、五条家の家紋がついた高灯籠が正門の両横に飾られていた。
五条の部屋にも小さな盆提灯が置かれている。
床も硝子も何時も以上に磨き上げられ、障子も一枚残らず張替えられていた。
「一応、手伝いは申し出たんだけど……私の手は借りたくないらしいよ」
ーー人間としての名字名前は死んだものと思え
牢から出された名前に五条はそう言った。その意味を、五条の側仕えに就いた初日から否が応でも思い知らされた。
「受肉体が穢らわしい……」
「どの面下げて呪物がここにいるんだか……」
「シッ……目を合わせるだけで呪われるぞ」
廊下を歩いているだけなのに突き刺さる悪意に名前の心は折れかけていた。
勿論、名前に話しかける人物はおらず、名前が近寄ろうものなら蜘蛛の子を散らしたように逃げられる。
これが虐めかと名前は当初、現実を受け入れられないでいたが、1年間もこの扱いを受けていれば慣れてしまった。
「こ当主様のお話は終わったの?随分早かったけど」
「途中で抜けてきた。聞いてられっか、あんなもん。クーラーもついてないし最悪だったわ」
熱から逃げるかのように五条は畳の上に身体を横たえた。顕になった額には汗が滲んでいる。
名前はつけていたクーラーの温度を下げ、前帯に指していた扇子で五条に風を送った。
名前が手を動かすたびに五条の髪がふわふわと揺れた。
「水菓子持って来ようか?それともアイスの方がいい?」
「後でいい」
扇子を仰ぐ手を止めた名前を咎めるように五条は舌打ちをした。
仕方なく風を送る作業を再開した名前は五条の着物の胸元にぐしゃぐしゃになった半紙がねじ込まれていることに気がついた。
「どうしたの、それ」
「ああ、盆の挨拶文。次期当主様からのありがたーい言葉」
「あー皆様いらっしゃるの来週だっけ……私どうすればいい?見つかるとまずいんでしょ?」
仰向けに寝転がっていた五条は、目を開け、下から名前の顔を覗いた。
「お前のことならどうとでもなる。いつも通り控えてればいいから」
「ご当主様は嫌がると思うけど」
五条は鼻で笑った。名前の指摘通り、当主である父は、分家も集まる盆の時期に名前を隔離せよと言って来ていた。
去年の年末もそうであった。あの時は父親が独断で名前を地下牢に軟禁した。
その時のことを思い返すと五条は未だに腑が煮え繰り返るような気分になる。
「……名前」
「うん?」
「アイスクリームとってこい。バニラな」
はいはいと頷いた名前は立ち上がった。拍子に胸下で切り揃えられた黒髪が揺れた。
受肉体は器の呪物に対する耐性に反比例するように容姿が変わるという。1年前から外見の変化の無い名前の器としての耐性度がどのくらいであるのか、五条は計りかねているところがあった。
「……ま、いっか」
手を伸ばしリモコンを掴んだ五条は、部屋の温度をまた少し下げた。
 
 
 
縁側から日が差し込む廊下は木に熱が溜まっている。足袋越しに熱さを感じながら名前は厨房へと向かっていた。
「ほら、穢らわしい人外が来た」
「あら嫌だ……いい加減、御当主様も追い出してしまえばいいものを」
「坊っちゃまには甘いところがありますから。それでも悍ましいです……あんな存在が坊っちゃまのお側にいるなんて」
歓迎の言葉は元から期待していなかったが、今日は暑さと忙しさで苛立っているのか名前に聞こえるように使用人達が陰口を叩いた。
「本当に、忌々しい」
いつものことだと聞き流していたが、反応のない名前が面白くなかったのか、一人の女中が急須に入っていたお茶を名前に掛けた。
「……ッ!」
「……いい気味だわ。呪いの分際で悟様のお側にいようだなんて。恥知らず」
湯は淹れたてであったようで、それなりの温度が名前の肌をひりつかせた。茶色く濡れた着物に茶葉が張り付き、不快感を煽る。
香りと色からして、ほうじ茶を掛けられたようだった。
「……人にやられて嫌なことは、自分もするなって親に習いませんでした?」
名前がゆっくりと振り返ると、陰口を叩いていた女中達は貝のように口を閉じ、そして脱兎のように逃げていった。
「火傷したかな。これ」
怪我の具合を確認したかったが、まず名前がしなければならないのは、五条にアイスクリームを届けるという仕事だ。
冷凍庫からバニラのアイスクリームを見つけた名前はボウル皿にそれを盛り付け、スプーンと共に盆に乗せた。
アイスクリームだけだと腹を冷やす可能性があるため、丁度見つけた緑茶も一緒に持って帰ることにした。

部屋に戻ると五条は座布団に腰を下ろし、書物を読んでいた。
「持って来たよ」
名前が声を掛けると、五条は書物から顔を上げた。
「おせーよ……お前、それどうした」
「別に。なんでもない。着替えてきますので席を外させていただきます」
名前の着物の肩には薄茶色の染みができていた。
なにか言いたげな五条を置いて、名前は自室に入った。

五条の部屋の隣の一室が名前の部屋として与えられていた。その部屋は代々側仕え達が使用している部屋であった。
側仕えの最も重要な仕事は、五条の睡眠中の護衛である。
人間が一番無防備になるのは睡眠中であり、無下限術式を持つ五条も、寝ている間は無限を張ることはできない。
夜の護衛と昼の雑務を行うため、通常2人体制で控えていたが、名前がその役目を負うようになってからは、名前1人で仕事をこなしている。
受肉した影響か、名前は睡眠を必要としていなかったため、昼間の雑務に影響が出ることはないからだった。
「どんどん人間離れしていくなあ……」
髪を左の肩に流し、姿見鏡で右肩の火傷の部位と深さを確認していた名前は、瞬きの後に火傷の跡が消えていることに嘆息した。

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