05

名前の鼻を擽ったのは、花でもない果実でもない嗅いだことのない甘い重い香りだった。鼻で息を吸い込むと甘いだけでは無くピリッとした辛味も感じる。
香りに引き摺られるように、名前の意識は急激に引き上げられた。
意識の覚醒と共に、周囲の蜂の巣を突ついたかのような喧騒が名前の頭を殴った。
「坊っちゃん!ご無事ですか?」
「俺は無事。こいつらを早く医者のところに。あと縄を早く。親父にも連絡いれて」
聞こえてきた声に顔を上げた名前は、自分が後ろ手に拘束されていることに気がついた。
目の前にはいくつもの蔵と大きな武家屋敷のような立派な縁側があった。
月明かりに照らされて見えた庭にはいくつもの血溜まりができており、怪我人がいるのか倒れる複数の人影に駆け寄る姿が見えた。時代劇のワンカットのような光景に名前は現実味がないまま茫然とした。
「……起きたか。お前、やってくれたね。言っておくけどこれ全部お前の仕業だから」
状況が飲み込めない名前は言葉を飲み込んだ。
声を出せなかった、の方が正しい。名前を警戒するように槍のようなものを持った男達が刃先を向けて囲まれていた。
敵意と殺意を向けられた名前は恐怖から縮こまるように身体を丸め、その際に裸足であることに気がついた。足裏に感じる夜露に濡れた感触が気持ち悪かった。
「お前ら、いいから早く縄を持ってこい」
名前の両手を背中側で掴んでいた男は深々とため息をついた。
「坊っちゃん、そいつは受肉体です。祓除しないのですか」
「そうです。被害がこれ以上、大きくならないうちに一刻も早く祓うべきです」
槍を持つ男達がじわじわと距離を詰める。名前も後退るが、腕を拘束する男にぶつかり直ぐに足を止めた。
恐る恐る後ろを振り返った名前は、自分を拘束する男を見上げた。
「…………」
年齢は名前とそう変わらないのではないか。白色に脱色された髪よりも、一等綺麗な硝子のような目に名前は魅入ってしまった。まるで今日飲んだラムネのビー玉のようなーー
「あれ……どうして……?」
名前の顔が映るはずだった瞳の中からは、般若の面がこちらを睨んでいた。
 
 
 
名前が再度意識を取り戻した時、そこは牢獄のような場所であった。3面は岩で囲まれ、唯一空いている正面には1本1本が名前の腕ほどもある太さの鉄格子が嵌められていた。
名前が一番気になったのは、岩を覆い隠さんばかりの呪符である。達筆すぎて何と書いてあるのかわからないが、剥がさない方がいいと思った。
悪い夢を見ている気分になった名前は隅で膝を抱えた。

暫くして、背中を丸めた小柄な老人が鉄格子の前に現れた。
名前が起きているのを確認し、木枯らしのような声で話しかけてきた。
「……起きましたか。身体を拭くものと着替えがありますのでご使用ください」
「あの!すみません、ここどこですか……」
「後ほど食事もお持ちしますので」
骨と皮でできているような老人は名前の質問に答えることなく杖をついて去っていってしまった。
名前は渋々と立ち上がり、老人が指差した箱を開けた。
箱の中には盥に入った水と手拭いが数枚、着替えの着物があった。
「……ないよりマシか」
名前は鉄格子に背を向け、帯を解いた。白い帯にはいつの間にかべったりと赤黒いシミが付いていた。帯だけではない。濃紺で目立たないが、浴衣自体にも泥がついてしまっていた。
汗と泥と血の匂いを落とすように手ぬぐいに水をつけ身体を拭った。不思議なことに名前の身体には傷一つなかった。
 
名前が着替え終わったのを見計らったかのように、先程「坊っちゃん」と呼ばれていた男が現れた。
木でできた椅子を引き摺って牢の前に置いた男は、背もたれを正面に向けて椅子を抱き込むように座った。
「俺は五条悟、お前は?」
「名字名前……」
「あの面の半分は何処で手に入れた?」
膝を抱えていた名前は自分の顔に手を当てた。今は面をつけていないらしい。
あの面には見覚えがあった。
「夏祭りに行った神社に落ちてました」
「落ちてたねえ……」
五条は自身の前髪をぐしゃりと掻き上げた。
あの仮面は特級に分類される呪物だ。時の帝に申し付けられた五条家が2つに分割して厳重に封印していたはずのものである。
片方は五条家縁の社に、もう片方は本邸の蔵に保管してあったはずだった。何を間違おうが落ちているわけがない。
「倒れていた人たちは大丈夫ですか?」
自分を守るように膝を抱えていた名前はボソッとした声を上げた。
自分の心配よりも先に他人の心配をする名前に五条は思わず笑みを浮かべた。
「軽中傷者28名、重傷者6名、うち2名は意識不明。死ぬかも」
名前は上げていた頭を膝に埋めた。浴衣にべっとりと着いた血痕は名前のものではなかった。つまり、被害者達の物だったのだろう。
「お前が拾ったのは、六条御息所の面って呼ばれる特級呪物の片割れで、恐らく半身を求めてうちの蔵を襲撃したんだろうな」
「…………」
「俺の側仕えも含めて被害は甚大だけど、もっと問題なのは面がお前に受肉したってこと。普通は死ぬか完全に乗っ取られるのかの2択なのにお前はピンピンしてる」
特級呪物を取り込んだ場合、呪物に宿った呪力の主が精神と肉体を支配し、肉体の形状までも変えるのが『普通』だった。
名前を使って六条御息所の面は元の形を取り戻し、その呪力は肉体に宿った。けれども肉体も精神も未だ『名字名前』の形を保っていた。
「屋敷の者はお前を殺せって言うんだけど、どう思う?」
返事を返さなくなった名前に五条は目を細め、意地悪く問いかけた。
特級呪物の受肉体は、呪術規定に基けば存在すら許されない。
五条家嫡男として、名字名前をこの場で祓除するべきだとは分かっていた。それでも五条は惜しくなった。
「助けてってお願いしたら助けてくれるんですか」
顔を上げた名前は五条を睨みつけた。
「いいよ、助けてやる」
強けりゃいーじゃん。五条の口癖である。
面に肉体の主導権を渡していたとはいえ、名前は1級術師を再起不能に追い込んだ。ポテンシャルは充分だった。
「今日からお前、俺の側仕えな。お前のせいでうちは人手不足だから」
五条は牢の扉を簡単に開けた。
呆気に取られる名前の顔を一瞥して、五条は笑った。



一、名字名前の監督責任を五条悟が負うこと
一、名字名前は五条悟の命に無条件で従うこと
一、名字名前の存在は五条家内の極秘事項とすること
但し、名字名前が六条御息所の面と取り代わった場合、即時祓除とする

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