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土曜日の朝から五条によって高専に呼び出された名前は、日光東照宮を彷彿とさせる長い階段にげんなりしていた。
気合を入れて登り始めたものの、数分もしないうちに脹脛をはじめとする足の筋肉が疲労を訴えた。梅雨時期特有の湿気が汗ばむ肌には鬱陶しい。
ようやく登り切った頃には名前は全身疲労で倒れ込みたくなっていた。
見渡した敷地内は思ったより広く、案内図も見当たらなかった名前は仕方なく五条に電話を掛けた。
「もしもし」
「五条さん、着きました。寮ってどこですか?」
「今どこにいんの?」
「入口の鳥居の所ですけど」
「迎えに行くから適当に待ってて」
電話が切れてすぐに五条は歩いてやってきた。今日は目隠しではなくサングラスをかけており、私服なのか白いシャツを着ていたため怪しさは半減していた。
「おはよう。朝から悪いねー」
「せめて前日の夜までに連絡ください。夜明けって。メールに気が付かなかったらどうするつもりだったんですか」
「気がつくと信じてたよ。目は痛くない?必要なら先に硝子も呼ぶけど」
「多少充血してますけど、痛みはないので大丈夫です」
「了解」
五条はサングラスを少し下げ、名前の目の状態を確認した。物理的なダメージは名前が申告するように酷くないようである。
「寮を案内するよ。寮母さんがいるから、事前に申告すれば食事も用意される」
五条が指さしたのは4階建ての木造家屋だった。
入口を入ってすぐに談話スペースがあり、ソファーとテレビが置かれていた。
「1階は男子学生用で、2階は女子学生用。僕ら教職員は3階。4階は臨時宿場みたいな感じ。学生を除いて男子寮と女子寮で建屋は別れてないから。一応この階段を境界線として左手が男子寮、右手が女子寮になってる」
高専の寮にエレベーターは無い。階段で3階に上がった五条は、廊下を指さした。
「一番奥は硝子の部屋だけど、それ以外はほぼ空いてるから好きなところを選んでいいよ」
「部屋によって内装違ってたりするんですか?」
「角部屋以外特に変わらないはずだけど」
五条は一番手前の部屋の扉を開けた。部屋を入って直ぐに扉があり、バストイレスペースがあった。風呂場はシャワーカーテンで区切られていた。簡易的なキッチンも併設されていた。その奥には備え付けのベッドと机、クローゼットが設置されていた。
「広いですね」
「ちなみに角部屋は独立洗面台になってるけど、今のところ空き部屋はなし。共用キッチンと大浴場、ランドリーコーナーは1階にあるから後で案内するよ」
再び廊下に出た名前はどの部屋にするかと悩んだ。両隣が空き部屋で、できれば上と下階も人がいない部屋がいい。
「ならそこは?確認したけど今のところ上下左右空き部屋だし」
「それでお願いします」
306と書かれた部屋が名前の居室になることが決まった。五条から部屋の採寸済み見取り図を渡された名前は今住んでいる部屋を思い起こした。
「テレビと冷蔵庫って持ち込めますか?」
「問題ないよ。運ぶの大変かもしれないけど」
確かに階段がないので引っ越し屋は嫌がりそうだ。
階段を降りた五条は浴場とランドリーコーナーを紹介し、最後に共用キッチンへと案内した。
「ここが共用キッチン。冷蔵庫があるから、私物も入れられる。名前を書くことをオススメするけどね」
700L以上の大型冷蔵庫が2つ並ぶ姿は圧巻であった。何の気なしに冷蔵庫の扉を引くと中にはデザートと炭酸飲料ばかりが詰め込まれており、奥の方に申し訳程度にコンビニサラダと焼きそばの麺が置いてあった。
冷蔵庫の扉を閉めた名前はキッチンのシンク下の収納スペースを確認した。
「調味料は一通り揃っていますね。これも自由に使っていいんですか?」
「名前の書いてないものは自由に使えるルールだから。ちなみにお米と調味料、洗剤の補充は君の仕事になる予定」
「なるほど」
寮の備品管理も総務の仕事になるらしい。名前は雑に置かれたフライパンを収納し直しながら、換気扇を見上げた。
「部屋も決まったし、ついでにここで入寮届書いてってよ」
五条は共用ダイニングスペースに置かれた机を指さした。椅子に座るよう名前を促し、入寮届を渡した。
「コーヒー淹れてくるから書いといて」
「ありがとうございます」
名前はテーブルの上に転がっていたボールペンを使わせてもらうことにした。
入寮届はすぐに埋まってしまう。キッチンから戻らない五条を待つ間、名前はスマートフォンを弄ることにした。
「お待たせ。書けた?」
「書けました」
名前は記入済みの入寮届を五条に渡した。五条が書類を確認している間に名前はコーヒーにミルクを入れた。
不備が無いことを確認した五条は書類を2つに折った。
「引っ越してくるのは金曜日だっけ?」
「そうです。次の金曜日が創立記念日で休みなので、朝イチで荷物を送って昼過ぎに受け取る予定です」
「忙しないね。平日に小分けで送ったら?その方が楽だと思うけど」
寮母に託けておけば、部屋まで荷物を運んでくれるらしい。確かに今の名前の狭い部屋に段ボール箱を何箱も置く余裕はなかった。
「そうしようかな……」
コーヒーに口をつけた名前は先程内覧した部屋を思い出しながら見取り図を睨んだ。
クローゼットが1つしかなかったため、収納ボックスを買う必要がありそうだった。
「恵とは上手くやってる?」
突然の話題に名前は見取り図から顔を上げた。
五条はコーヒーに角砂糖を落とす。ぼちゃぼちゃと跳ねるコーヒーの飛沫が名前の手元にまで飛んできた。
「なんですか急に」
「実は宮城で恵がトラブルを起こしかけてね」
嫌な響きの単語に名前は眉を寄せた。
「君の婚約者を名乗る男と揉めたみたいだよ」
探るような五条に、心当たりがあった名前は片手で目を覆った。
間違いなく東京まできた見合い相手の同級生だろう。
名前が仙台に戻ってきたことをどこからか聞いたのか、再び連絡をしてくるようになっていたが、無視をしていたら連絡が来なくなったため諦めたのかと思っていた。しかし、五条の話から察するとパタリと途切れた連絡の背後には伏黒が居たようだ。
「ご迷惑をおかけしたみたいで……」
「僕は別にいいんだけどね。若人は青春するべきだと思うし。愛されてるねー」
五条の口元は緩んでおり、その口角は態とらしく上げられていた。面白がっているのを隠すつもりもない様子に名前は大きくため息をついた。
「前に言われたことについては私もきちんと考えてるので大丈夫ですよ、五条先生」
「そう。じゃあ大人の恋愛がしたくなったらいつでも僕に声かけてよ」
サングラスを下げ、綺麗にウインクを飛ばした五条に名前は呆れた。完全に揶揄われている。
「あーはいはいそうします」と流してコーヒーに口をつけた名前の肩が跳ねた。突然誰かの手が肩に置かれたのだ。
「エッ伏黒くん!?びっくりした……」
座ったまま背後を振り返った名前は、見上げた伏黒の表情から、決して上機嫌でないことを見取った。
扉を背にして座っていた名前はいつから伏黒がいたのか気が付かなかった。
「五条先生、何してるんですか」
名前の肩とテーブルに手をついた伏黒の声はやはり不機嫌そうだった。
「聞いてたでしょ。口説いてんの」
五条は火に油を注ぐようにテーブルの上の名前の手に自分の手を重ねて見せた。
名前の肩に込められた力が強くなり、名前は慌てて五条の手の下から自分の手を引き、テーブルの下で五条の脚を蹴った。
「痛ッ」
「自業自得です。大人気ないことしないでください」
五条を睨みつけた伏黒は、名前の隣の椅子に乱暴に腰を下ろした。
伏黒は今日名前が高専に来ていることを知らなかった。連絡が無かったことが面白くなかったし、五条と2人でいたことも面白くない。
「何してたんですか」
「寮の部屋を決めてました。あと書類関係で……」
伏黒に見つめられた名前の語尾は、どんどん小さくなっていった。
「引っ越しの手伝いしてほしいらしいよ」
五条が茶々を入れるように口を挟んだ。勿論、名前はそんなことは一言も言っていなかった。
「わかりました。行きましょう」
座ったばかりの伏黒は名前の腕を掴み立ち上がった。
「えっ、ちょっと……」
恨めしげな視線を送る名前を五条は手を振って送り出した。

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