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結論から言うと名前は敗北した。予想通り人手不足のため課長が退職願いの受け取りを拒否したのだ。
家庭の事情で退職したいと食い下がったものの詳細開示を求められ、名前は言葉に詰まってしまった。
少なくとも後任の採用が決まるまでは退職は認めないと主張する課長に名前は一旦折れる形になってしまった。
「まあ、あなたの性格上そうなると思っていましたよ」
伊知地の代わりに名前を迎えにきた七海は思った通りだと鼻で笑った。誰もが五条のような図太い神経で生きているわけではない。
上司との攻防戦にて敗戦の色を濃く匂わせている名前は疲労の色を隠さずに項垂れた。
「ちゃんと上司の机に退職願いは置いてきましたか?」
「言われた通り置いてきました。置き逃げに近いので捨てられてるかもしれませんが」
「大丈夫ですよ。法律上は2週間前に退職の意思を伝えていれば辞めることができますから」
経験者は語る。同じくサラリーマンを辞めた経験のある七海は退職にまつわる知識人より多くあった。
膝の上で鞄を握りしめた名前は明日からの居心地の悪さを想像して震えた。
「とりあえず今日はお酒はやめておきましょう。相当顔色悪いですよ」
「祖母が亡くなった後バタバタしてたので。まだ全然落ち着きませんけど」
課長から今日は一旦帰って頭を冷やせと指示され、定時で帰れたことだけが幸いだった。
名前は七海から提示された飲み物品書きから烏龍茶を選んだ。

本日、夕食の場所として七海が選んだ店は鳥炊きの老舗店であった。
夕方に七海が送った食事の誘いに対し、胃に優しいものが食べたいとリクエストした名前の要望に応えた店であった。
「私はあなたが同僚になることを歓迎しますよ。仕事ぶりは存じていますから」
「私も七海さんが居て心強いです。文字通り右も左も分からない業界に放り込まれたので、色々教えてください」
名前は運ばれてきた烏龍茶を七海の生ビールのグラスに軽くぶつけてから口をつけた。
「あと数日の出社ですから引き継ぎ書類だけは早めに作った方がいいですね」
「事務なんで引き継ぎ書類とか要らないと思います。元々マニュアルに沿ったことしかしてないですし」
「そうですか。なら気が楽ですね」
「残った同僚への申し訳なさが……」
しょんぼりとしながらも、名前はお造りに箸を伸ばした。鳥料理屋だけあり、お造りは魚の刺身ではなく鶏肉のタタキであった。
「こちらは就業規定に則って申請しています。もともと人手が足りてないのに補充をしなかったり会社の怠慢なんですから、あなたが申し訳なく思う必要はありません」
七海は事も無げに言ったあと、「まあ呪術師も万年人手不足ですけどね」と付け加えた。
七海も漏れなく多忙な日々送っていた。昨日までは福岡県で任務に当たっており、今日から香川県に行く予定であったところを、急遽、五条に呼び戻されて東京に来たのだ。
「そういえば高専での具体的な仕事内容について何も聞いていないんですけど」
「ああ、それでしたらこちらに用意してます。元々その説明をするために五条さんから指名されて来たので」
「そうだったんですか」
七海は鞄の中から労働条件通知書と雇用契約書を取り出し、名前に渡した。
「拝見します」
従事すべき業務の内容という欄には、『経理業務 総務業務』と書かれていた。現在とほぼ変わらない業務範囲であるが、要するに『なんでもやってもらいます』ということであると察した。
「経理業務については税理士を雇っているので今より楽になると思います。主に学生と教師の給与や精算関係を担当してもらう予定だそうです。総務については幅広いと思いますが、あなたなら問題ないでしょう」
名前は勤務日と勤務時間、休日、休暇の確認したが、問題はなさそうだった。
クリップで留められてる2枚目を捲る。賃金の欄を見て名前は顔を書類から上げた。
「月給が今の1.5倍……」
「ちゃんと残業代と時間外手当も出ますし、保険も問題ないはずです。ご不明点はありますか?」
「ありません」
七海が言うなら間違いない。名前の警戒心を削ぐために七海を派遣した五条の狙い通りに、名前は契約内容に異議を唱えなかった。
「ではここに日付と署名をお願いします。一部は控えなので手元で保管してください」
名前は契約書に署名をするためボールペンを鞄の中から取り出した。
本日の日付と、名前を署名し、控えではない方の一部を七海に返却した。
「ありがとうございます。これで契約完了ですね。あとは辞めるだけです」
「明日の出社が憂鬱です……あと、もう一つ心苦しいことがあるんですけど……」
鍋物の準備を終えた店員が部屋を出たのを確認した後、名前は恐る恐る話を切り出した。七海に相談したいことは沢山あったが、その中でも一番助言を求めたいことが、伏黒とのことであった。
「前にお礼の品を相談したじゃないですか」
「ありましたね」
「その相手とお付き合いしているんですけど……その、付き合う時には知らなかったんですけど、実はその人高校生だったみたいで……しかも一年生で、呪術高専の生徒なんです」
後ろめたさを表すかのように、名前の声は段々と小さくなっていった。
「…………」
「…………」
懺悔するように打ち明ける名前であったが、七海は五条からの話でそのことを知っていた。
「…………」
「…………」
部屋には水炊きの鍋が煮える音が響いた。
「ノーコメントです」
七海は鳥の旨みが染み出した白濁のスープを自身の椀に注いで味見をした。薄く塩味のついたスープはそれだけで舌を満足させた。
続いて鍋で煮える鶏肉を自分と名前の取り皿に取り分けた。鶏肉は万能ネギの浮かぶポン酢に付けて食べた。
「ノーコメントですか……」
鳥出汁の良い香りに名前も箸を動かした。七海に習ってポン酢に鶏肉をつけた。ポン酢の爽やかな柑橘感が鼻に抜け、鶏肉の甘みが舌を溶かした。
七海の手によってつくねと野菜が鍋に入れられる様子を名前は見守った。
「私に相談を持ちかけている時点ですぐに別れを切り出す気はないということでしょう。私は否定も肯定もしませんよ。こういうことは2人で話し合うべきです」
「ごもっともです……」
今後名前は高専を中心にした生活を送ることになる。伏黒との件は七海の言う通りしっかり話し合わなければならないだろう。
「私に呪力がなければいい感じにフェイドアウトできたのになあ……」
恋愛において自然消滅は最も円満な別れ方だと名前は信じている。物理的に距離をおけば心理的な距離も遠ざかるものだ。しかし今後の名前の生活基盤は、伏黒と同じく東京都立呪術高等専門学校になってしまった。
「大人の恋愛と子供の恋愛を一括りにしてると痛い目を見ますよ。相手は呪術師ですし」
熱の通った鶏団子を掬う七海は、少しだけ忠告することにした。
特に呪術師は死と隣り合わせの仕事だ。そのため独り身の呪術師が多い。七海も呪術師を続ける限り結婚願望は無かった。
「はあ、五条さんにも釘刺されたしなあ……」
名前は恐らく何も分かっていないのだろうと七海は察した。
一般人と呪術師の感覚の差は大きい。そもそも常識が違う。
「色々苦労すると思いますけど、頑張ってください。月曜日には会社の方は片付くと思いますよ」
「?」
焼き物を運び入れる店員に、七海は締めの雑炊を頼んだ。

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