17

目の前の男を罰しないことに逡巡はあったものの、大事にしたくないと泣きそうになりながら訴える名前に、結局伏黒は折れた。
「今後、一瞬でも名前さんに関わったら、今度こそ殺す」
伏黒の言葉に男は頷いた。名前が止めなかったら本気で殺されていたと思った。
「早く行け。2度と顔を見せるな」
伏黒は吐き捨てた。釈然としない思いは残るが、名前がそう望むならば仕方ない。
男の視界から名前を隠すように立った伏黒は、男が立ち去ったことを確認した後、足元が覚束ない名前を部屋の中へと戻した。
「……大丈夫じゃないですよね。あー、水飲みますか」
部屋に入るなり崩れ落ちるように座り込んでしまった名前は、呆けたように項垂れていた。
伏黒は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開け、名前に差し出した。
ペットボトルを握った名前は小さく喉を鳴らしながら水を飲んだ。口の中が気持ち悪かったし、ひどく喉が渇いていた。
「…………」
「…………」
名前の着衣の乱れが気になった伏黒は、肩からずり落ちてしまっているキャミソールの紐を直した。
名前の肌と伏黒の指が触れた時、びくりと名前の肩が跳ね、伏黒も慌てて手を引いた。
「すみません」
「あ、いや、びっくりしただけです……」
水を飲んで少し落ち着いた名前はワイシャツのボタンを留めようと下を向いた。
電気をつけていないためボタンがよく見えない。毎日当たり前のようにしている動作が覚束なかった。
「……失礼します」
名前の指先は震えていた。
それではボタンは留まらないだろうと伏黒は胸元のボタンに手を伸ばし、留めた。
名前は暴行されかけた。男の自分が側にいるのは良くないことなのだろうが、今の名前を1人にはしておけなかった。
床に置かれたペットボトルを再度差し出した伏黒は、緩慢な動作で口をつける名前を見守った。
「……ありがとうございます」
思ったよりしっかりとした声が出たが、切れた口の中が痛んだ。頬は相変わらず熱を持っている。
頬を抑え、冷やすものを探すためにと立ち上がった名前の顔を見上げた伏黒の目を、名前は慌てて手で隠した。
「今絶対にすごく酷い顔してるので見ないでください」
「え……」
化粧は崩れているだろうし、頬と目は腫れている。自分史上最悪の顔面コンディションを伏黒に見せたくなかった。
冷凍庫からケーキを買った時についてきた保冷剤を取り出し、頬に当てた名前は伏黒の背中側に座り直した。
背中合わせに触れるか触れないかの距離感を保ちながら、それでもそこにいる存在に名前は安心をした。
「病院、行った方がいいんじゃないですか?」
「病院……?」
遠慮がちな伏黒の言葉を名前は繰り返した。レイプは未遂のため、病院に行く理由が分からなかった。
「最後までされてないし、別に」
「違います。あんた、あいつに殴られましたよね。頭部の外傷は念のため、病院に行くべきです。脳とか視神経とかが傷ついていたら大変です」
確かに殴られた。思い返せば、壁に頭も打った。
たんこぶができていないかと後頭部に手を当てた名前は、自分の髪の毛が酷く絡まっていることにも気がついた。胸下まで伸ばしていた髪はところどころで鳥の巣のような塊を作っていた。
現実逃避をするように、名前は絡まった髪の毛を解す作業を始めた。
「名前さん?」
返事のない名前に伏黒はゆっくりと振り返った。
伏黒に背を向けている名前は沈黙を貫いた。
化粧も落としたいし、シャワーも浴びたいし、着替えもしたい。病院にも行った方が良いのだろう。
やりたい事、しなければならない事は幾つもあるのに、酷く疲れていて、それをやる気力が1ミリたりとも湧いてこなかった。
「名前さん」
辛抱強く伏黒は名前の反応を待った。本当ならは担いででも病院に運びたいが、今の名前に無理強いは、とてもじゃないが出来なかった。
「疲れた」
名前は呟いた。本当に、疲れ切っていた。一歩足りとも動きたくない。このまま冷えた床でいいから、横になって寝てしまいたかった。
髪の毛を梳いていた手を床に落とした名前は腹の奥の澱を吐き出すように壁に向かって深く息を吐き尽くした。
「…………」
その様子に伏黒は背を向けた。
「…………」
背を向けた伏黒に、名前は背中を預けた。疲労感から何かに寄りかかりたかったというのもあるが、伏黒は呆れて出て行ってしまうのを止めたい意思もあった。
背中越しに感じる伏黒の体温は、数十分前に繋いだ手から感じた体温よりも高かった。
「名前さん」
伏黒から名前を呼ばれるのは心地いい。名前は目を閉じて音を拾った。
「嫌だったら言ってください」
背中の熱がスライドするように動いた。バランスを崩しかけた名前の背を詫びるように支えた伏黒の手が離れたかと思うと、今度は背中全体が何かにぶつかった。
目を開けた名前には、緩く膝を抱えたその横に伏黒の足が見えた。そして腹には伏黒の腕が回されていた。
「……私、暴れたから汗臭いかも」
「全然気にならないです」
後ろから抱きしめられていた。嫌悪感はなかった。伏黒が話すたびに息が首に当たり、くすぐったい。
名前は全体重を伏黒に預けた。伏黒からは柔軟剤の優しい香りがした。
「伏黒さん」
名前は伏黒の手に自分の手を重ねた。
「好き」
いつから好きになったのか定かではない。伏黒のこともまだ全然知らない。けれど、箍が外れたように、好きが抑えきれなかった。
「俺も、好きです」
膝に顔を埋める名前を抱きしめる力を強めた。こっちを向けと念じるが、名前は照れているのか純粋に顔を見られたくないのか頑なに顔を上げない。
仕方なく伏黒は名前のつむじに唇を落とした。
 
 
 
シャワーを浴びたいという名前の要望を聞いた伏黒は、名前を抱えて洗面所に連れて行った。
「気分が悪くなったら言ってください」
「はい」
伏黒が洗面所を出たことを確認してから名前は顔を隠していた手を退け、鏡を確認した。
「……お化けみたい」
アイラインは滲み隈のようになっているし、マスカラが落ちて頬にくっついていた。その頬も赤く腫れている。口の端も切れていたし、顔全体も浮腫んでいた。
メイク落としを顔に馴染ませている間に服を脱いだ。
シャワーはぬるめに設定し、まず身体から洗った。いつもは髪の毛から洗うが、先に触られた身体を綺麗にしたかった。
身体を洗い、顔を洗い、髪を洗う。さっぱりしたところで気分もマシになった。
「(着替え持ってくんの忘れた)」
バスタオル1枚で伏黒の前に出るわけには行かない。仕方なく名前は着ていた服を着直した。
メイクをし直すか迷ったが、病院に行くことを考えるとしない方がいいだろう。ノーメイク姿を見せる勇気は無かったので、マスクをつけた。
髪の毛を乾かそうとドライヤーのスイッチを入れてすぐに、洗面所の扉が叩かれた。
「開けていいですか?」
「どうぞ」
名前が返事をするとすぐに扉が開けられた。
スーツを着、マスクをしている名前に面食らったようだが、伏黒は何も言わなかった。
「ドライヤー、かけますよ」
「あっ、えっ」
伏黒は名前の手からドライヤーを取り上げ、扉を向いていた名前を鏡の方に向かせた。
「終わったら病院行きますよ。15分後にタクシー呼んでます」
伏黒が居てくれてよかったと名前は小さく笑った。

prev next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -