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確定申告書の提出を終えた経理部は、束の間の穏やかな空気が流れていた。
名前の勤める会社は上場していないため、3ヶ月に1回の四半期決算業務はない。あとは6月半ばまでに決算説明書類の準備をするだけであり、経理としての仕事は取り敢えずひと段落を迎えた。
その分、総務の仕事が溜まっていることには目を瞑った。

名前と先輩は、リフレッシュルームで肩の荷が降りた安堵感を分かち合いながら社内報作成の打ち合わせをしていた。
名前の手元にはスケジュール帳が広げられている。
プライベートの予定も書かれているそれを正面から無遠慮に覗き込んだ先輩の頭を名前は優しく押しのけた。
「今月は七海さんとどこいくの?」
「あー、今月末から七海さんが繁忙期で、どこに行くかもいつ行くかも決まっていないんですよね」
「ふーん」
「ただでさえ忙しいのに、性格の悪い同僚?先輩?が遠方の出張ばっかり七海さんに押し付けてるせいで、スケジュールがとんでもないことになってるらしいですよ」
七海から来た「東京にいつ戻れるか分かりません」というメッセージを思い返した名前は心から同情をした。
七海は転職先や仕事内容について話そうとしないため、名前も詳しくは分からないのだが、北は北海道から南は沖縄まで、全国に出張する必要があるらしい。たまに海外にも行っているようだった。
「ねー……名字」
「なんですか?」
普段の声色より高めに作られた猫撫で声に名前は嫌な予感がした。向かい合うように座る先輩は、綺麗にパーマが当てられた睫毛をぱちぱちと動かしながら胸の前で両手を合わせていた。全力で『お願い』をしているその仕草は、繁忙期に嫌になるほど見ていたため、名前は反射的に目を逸して椅子の背もたれに背中を預けた。
「私、名字と伏黒さんが上手くいくようにお手伝いしたじゃん?」
「頼んでないですけどね」
「そう言わないでよ。でね、私も七海さんとご飯行きたいんだけど……2人でとは言わないから、私と名字と七海さんと七海さんのご友人とかで、どう?念の為に確認なんだけど、名字は別に七海さんとそういう関係じゃないんでしょ?てか名字には伏黒さんっていう彼氏がいるでしょ?」
怒涛のように言葉を重ねられ、名前は顔をひきつらせた。
「…………エッもしかしてなんですけど、」
七海が同じビルに入る証券会社に務めていた間に、先輩との個人的な繋がりはなかったはずだったし、なにより先輩は七海の連絡先すら知らないと言っていた。
確かに七海を王子様と讃え、ファンだと公言していたが、まさか七海が転職して4年も経った今日までその想いを引き摺っているとは思わなかった。
「名字、お願い。ずっと好きだったの。名字に悪いと思って言わなかったんだけど……違うならいいよね?」
「確かに七海さんとはそういう仲じゃありませんけど……」
顔を赤らめた先輩に手を握られた名前は天を仰いだ。
だが名前には、6年越しの片想いの片棒を担ぐ勇気はなかった。
 
 
 
名前は、ビルのエントランスで待つ伏黒の頬に湿布が貼られているのを見て目を丸くした。
名前の視線に気がついた伏黒はきまりが悪そうに反対側の頬を掻いた。
頬を掻くためにあげられたその腕にも包帯が巻かれていることにも気がついた名前は何事かと絶句した。
「……お疲れ様です」
固まる名前に伏黒は一先ずいつも通り、仕事終わりを労る言葉を投げた。
「お疲れ様です……その怪我、どうしたんですか?」
「…………」
言葉に困る伏黒に聞かれたくなかったらしいと名前は察したが、見て見ぬ振りをするにはその怪我は目立っていた。
「痛そう……」
「……転んだだけなので大したことないです。帰りましょう」
伏黒は名前に包帯が巻かれていない方の手を差し出した。
当然のように家まで送ってくれるという伏黒に、名前は差し出された手を握ぎりに行った。
ひんやりとしていたお互いの手は1分も経たないうちにじんわりと熱を持った。

伏黒と歩く30分はあっという間に過ぎてしまう。マンションの輪郭が遠目に見えると共に訪れる寂寞感に名前はそっと伏黒の横顔を盗み見た。
その頬に貼られた湿布からは少しだけハッカのような甘い香りがした。
もう着いてしまう。
「……伏黒さ、」
マンションの入り口から視線を飛ばすスーツ姿の男に気がついた名前の足は止まった。
足を止めた名前に引っぱられる形で伏黒も足を止め、急に口を閉ざした名前の様子を伺った。
「名前さん?」
名前は慌てて肩にかけていた鞄からスマートフォンを取り出した。ロックを解除するまでもなく、不在着信の通知が画面を埋め尽くしていた。
伏黒もその画面を確認し、何事かと眉を寄せた。
「名前、遅かったな」
名前は名前を呼ばれて画面から顔を上げた。マンションの前からこちらに歩いてきた男は、先日名前が縁談を断った男だった。
名前の様子が可笑しいことを察した伏黒は、背中に名前を庇うように前に出た。
「どちら様ですか」
「それは僕の台詞だ。僕は名前の婚約者なんだけど、あなたは?名前とどんなご関係で?」
名前は婚約者ではないと首を振ったが、伏黒の視界には入っていなかった。
男は名前の手と繋がれた伏黒の手を確認し、深々とため息をついた。
「名前、お前の母親から家の場所を聞いた。話し合いをしに来たんだ。わざわざ、宮城から」
男の手にはスーツケースが握られていた。
「今日しっかり話し合いたい。僕も暇じゃないんだ」
男の声は段々と大きくなる。
背後の名前を伺う伏黒に名前は目を伏せた。この男と話し合うことなど何もないが、これ以上、伏黒の前で醜態を晒したくなかった。
「わかったから、大きな声出さないで」
名前は伏黒と繋いでいた手をそっと離した。心配そうな目で見てくる伏黒を安心させるように、作り笑いを浮かべた。だがその表情は固く、頬を引き攣らせる様子に伏黒は困惑した。
「伏黒さん、またご連絡します。今日はありがとうございました」
「名前さん、大丈夫ですか。警察呼びましょうか?」
「大丈夫ですから」
伏黒から引き剥がすように名前の腕を掴み寄せた男と伏黒は睨み合った。
どう見ても名前は歓迎しているように見えない。何より彼女の不快指数を表すかのように小さな蠅頭がいつの間にか名前の側を飛んでいた。
「何かあったら連絡してください。絶対に」
伏黒の言葉に頷いた名前は、男に引き摺られるようにエントランスの中へ入っていった。

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