13

居酒屋とカラオケが並ぶ繁華街を抜けた伏黒は、名前の肩を抱いていた腕を静かに下ろした。
週末の新宿は人出が多く、ぶつからずに歩くのにも気を使う。反対側から歩いてきた歩行者を避けようと動いた名前の指と隣を歩く伏黒の手の甲が触れ、互いの肩が小さく跳ねた。
「……名字さん、顔真っ赤ですよ。水、買ってきますか?」
「ぜ、全然大丈夫です……うん、飲みすぎちゃったかも……」
レモンサワーを1杯しか飲んでいないが、体調の悪さも相まって何時もより酔いが回っていた自覚はあった。なにせ気分がふわふわする。
名前は赤いと指摘された顔を冷ますように手で扇いだ。冷まそうとしているはずなのに、意識したせいで一層顔に熱が集まった気がした。
「タクシー捕まえますか?」
駅前のロータリー付近で歩調を緩めた伏黒は、名前に尋ねた。
百貨店前のロータリーには空車と表示されたタクシーが列を成している。
名前の住んでいる社員寮は最寄り駅からも少し歩くし、なによりその地区は治安があまり良くないエリアであることを知っている。素面ならまだしも酔っている女性を1人徒歩で帰らせるわけにはいかないと伏黒は名前をタクシーに乗せて帰そうと思っていた。
「…………」
足を止め、タクシーと伏黒を交互に見る名前は聞きたいことと言いたいことがありすぎて、先程とは全く違う意味で泣きたくなってきた。
「名字さん?」
「……えーっと、もう帰るんですか?」
「はい。名字さんを見送ったら帰ります」
現れたタイミングからして、先輩が名前のスマートフォンを使って伏黒に連絡をしたことは察していた。本当に飲み会から連れ出すためだけに来て、帰るつもりらしい。
「金曜日の夜なのに……?」
名前の言葉に伏黒は固まった。
反射的にその真意を確認したくなったが、そんなことをすれば名前が発言を撤回することは目に見えていた。
胸の奥に少しだけ咲いた期待を込めて、伏黒は名前の目をじっと見つめた。
「……じゃあ、金曜日の夜なので、俺が名前さんを送っていってもいいですか。できれば、タクシーを使わずに」
照れたように頷いた名前は伏黒から差し出された左手を右手で遠慮がちに握った。
タクシー乗り場を通り過ぎ、雑踏の中をゆっくりと歩く。緊張からか、酔いからかハイヒールを履く足が心細く震えた。
「伏黒さん、あの……迷惑じゃなかったですか?」
「何がですか?」
「飲み会に迎えに来てもらって。用事とかあったんじゃないですか?」
先輩はなんと言って伏黒を呼び出したのだろうかと自分のスマートフォンを確認した名前だったが、名前の端末から送られたメッセージは削除され、確認できなかった。
「迷惑じゃないです。いきなり写真が送られてきたのはびっくりしましたけど」
「写真?」
伏黒はポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、片手で操作をして名前とのトーク画面を開いた。
信号待ちのタイミングで伏黒が差し出す画面を確認をした名前は居た堪れなさで地面に埋まりたくなった。
「なっ……本当にごめんなさい、先輩も酔ってたみたいで……うわっ……」
トーク画面には隠し撮りと思われる名前と課長の写真が送られていた。態々後ろから撮ったのか、課長の腕が名前の椅子に回され、密着している写真まであった。
写真に被せるように送られたメッセージは、『体調悪いのに飲み会強制参加の名前が可哀想』『このままじゃセクハラ上司にお持ち帰りされちゃう』と煽るものだった。
それに対して伏黒は店の場所と終了予定時間を尋ねた。今夜、任務が入っていなかった幸運を心から感謝した。
「間に合うか不安でしたけど、セーフ」
繋いでいる手を名前に見せつけるように肩の高さまで上げた伏黒は、画面を暗転させた。2人で1つの画面を覗き込んでいたため、距離が近い。
手首から香る名前の香水の匂いは伏黒の鼻腔を擽り、甘い気分にさせた。
赤信号から青信号に変わり、周囲が歩き出したのに合わせて伏黒と名前も足を踏み出した。
「それにしても社員寮、微妙な所にありますね」
電柱に貼られた『ひったくり注意』と『痴漢注意』の蛍光反射電柱幕を目にした伏黒は心配そうに名前を見た。
新宿駅周辺の繁華街を抜けると人気は極端に少なくなる。残業の多い名前の帰宅時間には人気がぱたりと途切れることが容易に想像できた。
「コンビニも少ないし、朝はともかく夜は怖くないですか?」
「怖いですけど、もう慣れました。一応対策はしていますし」
「対策?」
「すぐに通報できるよう、スマートフォンを手に持って歩くようにしています」
サイドボタンと音量ボタンを長押しすると、緊急SOSボタンが表示される。幸いなことにまだ一度も使ったことがないそれを伏黒に見せた。
「……なるほど」
名前の言う対策が、予防策ではなく被害に遭ったときの対応策であることに伏黒は一層心配になった。
「あっ、ここが私の家です……って数日前に来ていただきましたね」
名前はマンションを指さしていた手を下げた。20分以上歩いていたはずだが、あっという間に感じられた。
「じゃあ、俺はここで失礼します」
4日ぶりに訪れた名前のマンションのロビーの前で伏黒は繋いでいた手を離した。
「ありがとうございました。伏黒さんも気をつけて帰ってください」
離れた手を前で組み、名前は頭を下げて御礼を言った。
伏黒はそれに対して頷いた。寂しさを感じるものの無理に部屋に上がるつもりはない。家に送れただけで伏黒は満足だったし、また終電を逃すわけにはいかなかった。
しかし、名残惜しさが悪あがきをするように伏黒の腹の虫が大きめの声で鳴いた。
「…………もしかして伏黒さん、夕ご飯まだですか?」
「気にしないでください。俺、帰りますから」
空腹を指摘された伏黒は羞恥から赤くなった顔を隠すように手で押さえ、背を向けた。
言葉通り帰ろうとする伏黒を名前は思わず引き留めた。
「ご飯……ご飯、食べていきませんか?今日のお礼に私なにか作りますから」
お礼になるか分かりませんけど、と小さく付け加えた名前は掴んだままの腕を遠慮がちに引いた。
伏黒が夕ご飯を食べ損ねた原因は恐らく自分だろう。自炊は苦手だが、買い溜めしておいた中華調味料シリーズのレトルトパックはある。具材を切って炒めるだけならば失敗はしないと思うし、あとは炊飯器でご飯を炊けばいい。
「……いいんですか?」
伏黒の確認に、名前は首を縦に振って頷いた。
「本当に即席の物しか作れないんですけど、それでもよければ……」
名前が作ってくれるのであればカップラーメンでも文句はない。伏黒は部屋に招かれるだけでなく手料理を振る舞われるという願ってもない展開に浮つく気分を宥めながら名前の言葉に甘えることを決めた。
「じゃあ、どうぞ」
名前はロビーのオートロックを解除し、伏黒を招き入れた。

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