01

2003年 夏

ツンと鼻を突くような湿った土の匂いと青々しい若緑の匂いは梅雨が明けたことを知らせていた。
昼間は大人しくしていた蝉たちも、日が沈みかけている今、再び空気を震わせるように鳴き声を上げていた。
毎日のように持ち歩いていた雨傘を手放す代わりに、湿気を払うための団扇を握った名前は、いつの間にか幼馴染との身長に差がついていることに気がついた。
毎日顔を合わせていたため気が付かなかったのかもしれないが、横断歩道の信号が変わるのを待つ隣の男は拳一つ分、名前より背が高くなっていた。
「ねえ、傑」
「なんだい?」
名前に呼びかけられた夏油は少し屈むようにして距離を詰める。なるほど。気がつくのが遅れた理由は、夏油の配慮かと名前は納得した。夏油の身長が伸びようとも見上げる角度が変わらなければ違和感を感じにくい。
「……やっぱり、お祭り行こうよ」
名前は信号の奥に見える山を指差した。日頃は存在が薄い神社であるが、盆と正月は人が集まり賑わう場所である。
夏休み半ば、盆を翌週に迎える週末に名前が指差す山にある神社は毎年夏祭りを開いていた。
「去年、人混みに酔って具合悪くなったの忘れた?」
夏油は、去年の夏祭りを思い出して呆れた顔で笑いかけた。
慣れない浴衣で屋台を回った結果、名前は靴擦れと人酔いで花火を見ることなく帰宅することになったのを夏油は忘れていない。青い顔をした名前を家に連れて帰ったのが夏油だったからだ。
「今年は大丈夫だもん。去年、花火見れなかったし……」
「花火ならうちのベランダから見ればいいだろ。急にどうした?」
信号機が赤から青に変わる。夏油の大きな一歩を名前は二歩踏み歩くことで横に並んだ。
「さっき、弓道部の先輩達に肝試し誘われたの。花火の後、山の上の墓地に行こうって」
「幽霊とか苦手だろ。断ればいいじゃないか」
「先輩からしつこく誘われたら断れないよ。男子部員も誘うって言ってたけど、傑も誘われなかった?」
「誘われたけど、断った」
名前は夏祭りも肝試しも行くつもりはないと思っていた夏油は、当然先輩からの誘いを断っていた。
「傑は肝試しとか興味なさそうだもんね……」
団扇によって煽られた風が名前の前髪を巻き上げた。形の良い額と、中学生になってから整えられた眉毛が露わになるのを夏油は目で追った。
「肝試しはまあいいけどさ、お祭りは一緒に行こうよ。折角なら傑と回りたい」
「別にいいけど、肝試しの間どっかで待ってろってこと?」
「……先帰ってていいよ」
夏油は深い溜息を吐き、都合のいいことを並べる脇腹目掛けて軽く肘を打ち込んだ。
小さな悲鳴をあげて、名前の身体は面白いように傾いた。
「着いていく」
「えっ、肝試しも来てくれるの?」
「いいよ」
名前がホラー映画などを毛嫌いしていることは知っている。夏の風物詩の心霊番組もCMの時点でチャンネルを変えるくらい苦手だし、遊園地のお化け屋敷にも近寄ろうとしない。
その原因を作ったのが自分であると心当たりを持つ夏油は、罪悪感と懸念を払拭するために同行を申し出た。
夜の墓地を訪れて幽霊が出ようと出まいと興味はない。だが、心霊スポットや墓地には良くないものが溜まっている可能性がある。
「一安心だ〜」
夏油の心配を他所に、呑気に笑う名前は胸を撫で下ろした。

マンションのエントランスでポケットから鍵を取り出し、オートロックを解除した夏油は左腕につけた時計を確認した。
「肝試しの集合時間って何時?」
「21時半に本殿の裏に集合って聞いてる。あっ、先輩には私から傑も来ること言っとくね」
「ああ。で、お祭りには何時から行く?」
「これからシャワー浴びて着替えてからだから……19時とか?」
「わかった。じゃあ19時前に迎えに行くよ」
「うん。鍵開けとくから入ってきていいよ」
名前の家は1階にあり、夏油の家は3階にある。このマンションは社有社宅であり、夏油の父親と名前の父親は同じ会社に勤めているため、必然的に同じマンションに住んでいた。
「じゃあ、また後で」
手を振ってエレベーターに乗り込んだ夏油を見送った名前は、家に帰るなり箪笥の奥に仕舞い込んだ浴衣を探した。
 
 
 
本殿の前で行われている盆踊りの音楽が風にのって流れてくる。濃紺の生地に大輪の朝顔が散る浴衣を白い帯で締めた名前は、参道の両脇に所狭しと並ぶ屋台を片っ端から冷やかした。
粉物を売る店が多いせいか、境内の空気は甘いソースの匂いがした。
夕食代わりに何か食べようと思案する名前は、3軒目のたこ焼きの屋台の前で足を止めた。
「見て、すごいタコが大きい」
「たこ焼き食べるの?」
「食べる。1舟ください」
生地からはみ出る足を指差した名前はそのまま6個入りのたこ焼きを買った。
「傑も食べる?」
「もらう」
歩き食いは行儀が良くないが、縁日ならば許されるだろう。玉を半分に割り、熱を逃してから口に運ぶ名前とは裏腹に夏油は一口でたこ焼きを食べた。熱さを微塵も感じさせない動作で咀嚼し、飲み込んだ。

参道の端から端まで歩き、たこ焼きとベビーカステラでお腹が満たされた名前は隅の方でひよこを売る屋台を見つけて目を丸くした。
「見て見て。カラフルなひよこがいる。初めて見た」
「……可愛いね」
たこ焼きとベビーカステラだけでは物足りなかった夏油は唐揚げの串を食べている最中だった。唐揚げには興味があるが、ひよこには興味はない。
通り過ぎようとする夏油の服を掴んで留めた名前は大量のひよこの入った大きな箱を膝を折って覗き込んだ。
気になる個体がいるのか、箱の隅に熱い視線を送る名前の腕を夏油は掴んで立ち上がらせた。
「うちのマンションじゃ飼えないだろ。情が移るからやめた方がいい。それにそろそろ花火を見る場所取りをした方がいいと思うけど」
花火を見るために集まってきたのか、人が増えた。夏油は名前の顔色を確認したが、特に具合が悪い様子は見られなかった。
食べ終わった串とパックを近くのゴミ箱に捨てた夏油は、山上へと続く階段を指差した。
「あそこなら座れるしよく見える。親から聞いた」
「ラムネ買ってから行こうよ」
「いいけど、浴衣汚すなよ」
毎年、ラムネを盛大に吹きこぼしている自覚のある名前もその忠告には素直に頷いた。
「お店の人に開けてもらう。傑も飲むでしょ。買ってきてあげる」
道の先にあるラムネの屋台に向かう名前は祭りの雰囲気に飲まれたかのように頬を上気させていた。

屋台の集まる参道から逸れれば、街灯のない境内は暗くなる。足元に目を凝らしながら階段に座った名前は今か今かと花火が打ち上がるのを待った。
隣に座った夏油は汗をかいたラムネの瓶に口をつけ、甘い炭酸水を喉の奥に流し込んだ。
名前は金魚が泳ぐ団扇を仰ぎ、生ぬるい風を自分と夏油に送った。
「わっ!」
前触れもなく、花火玉の笛の音が空を駆け抜け、名前が手を止めて歓声をあげた。一拍おいて、重い破裂音と共に夜空に大きな火の花が咲いた。
大輪の花が散った後、小ぶりの花火が絶えることなく打ち上げられた。色とりどりの光が炸裂し、尾を引いて消えた後の息が止まる静寂の間が好きだった。
咲いて、散るを繰り返す花火は名前の横顔を照らしては翳らせ、その様子を夏油は目を細めて見守った。
「あっと言う間だったね」
名前は満足そうに顔をほころばせ、火薬の余韻を残す空を少し寂しそうに見上げた。

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