07

経費精算のルールは単純明快、月内の経費はその月内に処理することである。そのため月末に駆け込みの精算書類が来ることは仕方ないことだとは思うが、期日に間に合わせることを優先し、穴だらけの申請が来ることはいただけない。
勘定項目は間違いだらけだし、システムに添付されている領収書には宛名が書いていない。最終日の定時間際に送られてくる大量の清算案件に名前の眉間には自然と皺が寄った。
月半ばならばメールで項目の変更と宛名の記載を依頼するところではあるが、定時を過ぎて連絡をいれても対応は難しいだろう。
そもそもシステムでの承認前に領収書の原本が届けられているということは提出し直す気がないということだ。
一つため息をついて名前は領収書原本が入れられたクリアファイルの山を引き寄せた。前任のベテラン社員から引き継いだ直後はこのような事は少なかった。つまり、名前が甘く見られているということである。
「目に見える形で来るのが辛〜い」
独り言をぼやきながら名前は領収書の宛名を記入する作業にとりかかった。

領収書の宛名を全て記入し、システムの勘定項目も修正し終わった名前は、領収書原本の入ったクリアファイルを処理済のラベルが貼られた棚に収納した。

続いて社内消耗品の確認に取り掛かった。人手不足のため経理部が総務部の業務を兼ねており、仕事が尽きることはない。
名前は欠伸を噛み殺しながら、昼間に各部署から回収してきた補充依頼カードを確認し、発注依頼フォームを入力した。
これで本日の業務は終了である。
腕を上に伸ばし、そのまま両腕を左右に開くように動かして固まった筋肉をほぐした。滞っていた血流が良くなったのか心なしか肩の痛みが薄くなった気がした。

未だ残業を続ける課長に軽く会釈し、オフィスを出た名前はエントランスのそばに立つ人影が見覚えのある人物であることに気がついた。
「あれっ……伏黒さん?」
いつも水曜日に訪問してくるはずの彼が、どうして火曜日の今日にいるのかと名前は思わず声をかけてしまった。
疲れすぎて曜日の感覚もおかしくなったかと思った名前は、手に持ったスマートフォンで日時を確認したが、間違いはなく今日は火曜日だった。
名前の姿を確認した伏黒は名前の疑問を汲み取ったように口を開いた。
「明日は用事があって来られないんで、今日渡しにきました」
そしていつものように名前にコンビニのビニール袋を差し出した。もはや聞き慣れたガラス同士が触れ合う音に名前は中を見ずとも察した。
「えっと、いつもありがとうございます。無理して来てくださらなくても大丈夫ですよ。助かっていますけど」
「いえ、俺が会いにきたくて来てるだけですから。チョコレートも入れておいたので食べてください」
伏黒から渡されたビニール袋の中を覗き込むといつもの栄養ドリンク類に加えて、ストレスを低減することを売りにしたチョコレートが味違いで2袋入っていた。
「なんかすみません……」
「コンビニで見かけて名字さんに必要だと思って買ってしまいました。味の好みが分からなかったんでミルクとビターどっちも買ったんですけど。どっちが好きですか」
「どちらかというとビターの方が好きですけど、ミルクも優しい味がして好きです。ありがとうございます」
そのチョコレートはスタンドパウチのためデスクで食べるのに最適のものであることにも気がついた。配慮のない同僚に囲まれている中、伏黒の気遣いは純粋に名前の心に滲みた。思わず目が潤んだ名前は、明日渡そうと思っていたお返しの品の存在を思い出した。
就業後だとデパートは閉まっているため、昨日の昼休みに買いに行った物が会社のロッカーに入っている。
「伏黒さん、お渡ししたいものがあるので少し待っていていただけませんか?」
名前からの申し出に伏黒は目を丸くし、けれどもすぐに頷いた。
「すぐに戻りますから」
踵を返した名前はエントランスの中へと駆け込んでいった。人気がないエントランスに床を叩く小気味良いヒールの音が響き、伏黒の耳を擽った。
相も変わらず名前にまとわりつく小さな呪霊を伸ばした舌で捕食していた蝦蟇は伏黒にしか聞こえない声でケロケロと鳴いた。

名前は宣言通り5分も経たずに戻ってきた。その手には先程までは持っていなかった紙袋が握られている。そのタータンチェック柄の紙袋を名前は伏黒に差し出した。
「お待たせしました。いつも差し入れをくださるので、そのお礼です。お口に合うといいんですけど……」
名前は七海の発案に従ってお酒の飲み比べ品を購入しようと思っていたが、ワインがいいのか日本酒がいいのか蒸留酒がいいのか、伏黒の好みが全くわからなかったため止めた。
結局は、店員に勧められたプレミアムビールとドライフルーツ、フルーツゼリーのセットを購入していた。
「ありがとうございます」
今までの自分の好意は嫌がられていなかったと知って、伏黒は口元を緩めた。仕事で忙しいだろう名前に気を使わせてしまったのは申し訳ないが、名前が自分のために選んでくれただろう品が嬉しかった。紙袋を受け取った伏黒は、落とさないよう持ち手をしっかりと握った。
「「…………」」
いつもは差し入れを渡して二言三言会話するだけで帰っていたが、名前との距離が縮まったこともあって、今日はどうにも帰り難かった。昼間であったらならば、少し話しませんかと近くのカフェに誘うことも容易であっただろうが、22時近い今、空いている喫茶店など見当たらない。
「……送ります」
「えっ」
「送らせてください。夜も遅いですし」
伏黒の提案に名前は固まった。伏黒は恐らく駅まで送るつもりだろうが、名前の家は徒歩で着く距離にある。送ってもらうとなると自宅まで付き添ってもらうことになってしまう。
「えーっと……」
名前の頭の中の七海が「夜に1人であるのは危ないです。送ってもらいなさい」と伏黒の提案を肯定したかと思うと、「身元のわからない相手に家を知らせるなんてあり得ません。断りなさい」と反対する。
どうするべきか思案する名前に伏黒は自分の発言が彼女を困らせていることを察した。
「すみません。迷惑でしたね。じゃあ気をつけて帰ってください。これ、ありがとうございました」
「あっ……」
紙袋を少し持ち上げ、会釈をすると伏黒は身を翻して立ち去ってしまった。
追いかけようと一歩足を踏み出した名前だったが、追いかけたところでなんと声を掛けていいのか分からなかった。
「ううー。私の意気地なし」
今のは完全にいい雰囲気だったのに、と名前は自分の頬を手で叩いた。

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