06

七海はエレベーターボタンに残る残穢に眉を顰めた。この残穢は名前に纏わりついていた蠅頭のものに間違いない。
名前がリフレッシュルームに顔を出さなくなって3週間が経っていた。
ここ半年間の間、火曜日と木曜日の夜にリフレッシュルームで顔を合わせるのが習慣化になり、もはや暗黙の了解になっていたにも関わらず、彼女は姿を見せない。
姿を見せない長さと比例するように日々感じる残穢と呪霊の気配は重くなっていく。名前に何かが起きているようだが、七海は彼女の連絡先を知らなかった。
エレベーターにある残穢は13階のボタンに濃く宿っている。名前が勤める会社のオフィスがある階だ。だが七海には名前の会社を訪ねる正当な理由はない。七海はもう、呪術師ではないのだから。
そう思いながらも七海の指は13階と刻まれたボタンを押していた。



せせりの刺さった串にかじりついた名前は、目の前の七海の反応に首を傾げ、話を止めた。
「七海さん、心ここにあらずですね」
七海の表情は読みづらい。それでも話を聞いていないことは相槌の少なさから察せられた。
拗ねたように唇を尖らせる名前に七海は薄く笑いながら謝罪した。
「すみません。つい、あなたが新入社員の時を思い出していました」
串物が運ばれてきたことにも気が付かなかった。目の前に置かれた皿には塩で味付けされた焼き鳥が並んでいる。七海も名前に倣い、せせりの串を手にとった。
「新入社員って……私が入社してからもう5年経ちますよ」
「いい加減転職した方がいいと思いますよ。右も左もわからなかったあの時と違ってあなたには十分なスキルが身についた。どこに転職したとしても今よりマシな待遇は間違いないでしょう」
「私もできることなら転職したいんですけどね。結局、事務職ならやることは変わらないだろうし、慣れない職場で1から始めるのはなかなか勇気がでないし……転職活動しているのバレたら当たり強くなるだろうし……」
「少なくとも、今の生活を続けてたら間違いなく身体を壊しますよ」
それは名前にもわかっている。実際に身体の至るところが不調を訴えていた。
「まあ、最近はなぜか調子がいいんです。多分栄養ドリンクのおかげだと思うんですけど」
「栄養剤じゃ根本的解決にはならないでしょう。そもそもあなたは仕事を……なんですかその顔は」
「……ご相談があるんですけど」
名前は引き攣った顔を隠すように両肘をテーブルについて顔を覆った。食事中に机に肘をつくことが行儀の悪いことであることは重々承知である。しかし、どんな顔をしながら相談をしていいのかわからなかった。
指の隙間から覗かせた視線を下にずらし、七海の青いネクタイを見ながら名前は今日の本題を切り出した。

名前の目下の悩みは、伏黒恵である。
失くしたはずのハイヒールを届けてくれたあの日から、毎週のように伏黒は会社のエントランスで 名前を待ち、1週間分の栄養ドリンクを差し入れてくれるようになった。訪問する曜日は大抵水曜日であり、一昨日で3度目になる。
毎回、迷惑だったら捨ててくださいと言われるものの、伏黒からもらった栄養ドリンクを飲んだ翌日の身体の軽さを覚えてしまっては、捨てる気になれなかった。
コンビニで販売している栄養ドリンクを何度か名前も飲んだことがあるが、ここまで劇的な効果は感じたことがなかったこともあり、邪険にはできなかった。
「さすがに申し訳ないんで、何かお礼をした方がいいかなって思っているんですけど、何をあげたらいいと思いますか?」
「……悩むところはそこじゃないでしょう。あなたそれ、付き纏われてるじゃないですか。会社の警備なり警察なりに相談をするべきです」
そもそも、深夜の公園で乱暴を働いてきた男が翌週会社を訪問してきた時点で警察に届け出をするべきだったと七海は苦言を呈した。栄養ドリンクが差し入れられていることで絆されているようだが、名前の身に危険が及んでもおかしくない。
手に持っていた串を皿に置き、本格的に説教を始めようとした七海に、名前は慌てて宥めるように手を忙しなく動かした。
「でも別に何か迫られて困っているわけじゃないんですよ。理由はわからないんですけれど100%の善意っぽいんで」
「ただより高いものはないですよ」
「七海さんは見返りなく助けてくださったじゃないですか。七海さんがいなかったら私、とっくに首吊ってましたよ」
名前は事も無げな顔でそう言った。
「…………」
思いもよらなかった名前からの反撃に否定も肯定もできなかった七海は押し黙った。
「伏黒さんもなんとなく七海さんと雰囲気似てる気がしなくもないんですよね」
「ああ、そうですか。ほら、あなたの好きな白レバーが冷めてしまいますよ」
七海が呪術師に戻り、職場という名前との接点が途切れたにも関わらず、こうして不定期に会っているのも、呪霊に憑かれやすいのか目を離すとすぐに蠅頭を纏わせて体の不調を訴える名前のためである。
呪術師だからという一種の義務感から見返りなく接しているのであり、あくまでも自分は特例だということを伝えたかったが、呪いも見えない名前に説明したこところで理解は得られないだろうと諦めた。
「うっかり騙されて痛い目を見るのはあなた自身なんですから、自衛をしてくださいよ」
「気をつけます気をつけます。で、お礼の品は何がいいと思います?」
「……年齢にもよるでしょう。その人、いくつなんですか?」
七海からの質問に名前は沈黙した。名前は伏黒の名前と性別しか知らなかった。
「……私より若いと思います。明るいところで会ったこと無いのでよくわからないですけど」
「菓子折りでも渡しとけばいいんじゃないですか」
どこか投げやりに聞こえる七海のアドバイスに名前は頬を膨らませた。七海はお洒落だと名前は思っている。白いスーツに青いシャツを着こなせる人物を名前は七海以外知らない。
そんな七海のセンスを見込んでの相談であったのにほぼ丸投げの回答が返ってきて、名前にとっては期待はずれだった。
「じゃあ、七海さんなら何を貰ったら嬉しいですか?」
「気持ちがこもっていればなんでも嬉しいですよ」
「そんなこと言って、手作り弁当とか渡されたらどうするんですか。絶対に重いでしょ」
「……まあそれは遠慮したいですね」
親しくもない相手からの手作り品は困ると七海は頷いた。気持ちがこもっていれば何でも嬉しいなんて嘘っぱちである。
「手元に残るものより、食べて無くなるものの方がいいのは間違いなさそうですよね。うーん……」
フォアグラを彷彿させる白レバーは臭みが少なく甘みが強い。口の中でとろける感触に舌鼓を打ちながら七海は目の前で首皮の串に齧りつく名前を眺め、ビールを飲み干した。
「私ならお酒は貰って嬉しいですよ……日本酒頼みましょうか」
「私も1杯ください。銘柄はおまかせします」
「新政のNO6にしましょう……すみません、新政のNO6 レギュラーを2つお願いします」
その日本酒は、枡の中に置かれたガラスの冷酒グラスとともに運ばれてきた。枡の中にグラスが置かれ、盛り切りスタイルで注がれていく。表面張力により盛り上がっていた水面が、溢れた。
「出汁巻卵と白レバー2本、追加でお願いします」
七海の空になったビールジョッキを渡しながら名前も注文をした。
「お酒か、いいですね!」
「飲み比べセットみたいなのがいいと思います。デパートで色々見てみたらどうですか?」
「そうします」
枡の中からグラスを取り上げた名前は静かに酒を口に含む。微発泡のこの酒は甘みが鼻に抜けるようにふわりと広がり、その後を追うように乳酸系の酸味がにじみ出た。喉まで送るとスッキリとした後味だけが残る。
「おいしい……」
「つくねに合うと思いますよ」
小皿におかれた一口サイズのつくねにはたっぷりとタレがかけられており、その隣には色の濃い卵黄が添えられていた。
名前は箸の先で卵黄の膜に裂け目を作り、つくねを沈ませた。
卵黄を纏わせたつくねを惜しむことなく一口で食べた名前は緩み切った顔を七海に向けた。
 
歩いて帰ると言い張る名前をタクシーに押し込み、タクシー代を握らせた七海は自分もタクシーに乗り込み一息を吐いた。
「さて……」
七海には確かめなければならないことができてしまった。
本来ならば喜ばしいことなのであろうが、名前に呪霊が1匹も憑いてないというのは明らかな異変であり、そしてその理由であろう、名前に付き纏う存在を知ってしまった。
呪術師ならば構わないが、呪詛師であるならば名前が危険な目にある可能性が高い。どこまで世話を焼くべきかと窓の外を流れる景色を見ながら七海は考えを巡らせた。

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