05

名前の所属する経理部の繁忙期は決算対応のある3月から5月である。
会計ソフトに入力した処理が正しく行われているか確認するために帳簿の画面と会計ソフトの画面を交互に見比べる1日は長いようで短い。営業部からのヒアリング結果をまとめた書類を机の上に積み上げた名前は、乾ききった眼球を潤すために目薬をさした。
眼球の上に落とした目薬は目を閉じると目尻へと流れ、目の縁から頬へと流れていく。普段なら化粧が落ちるのも構わず拭う名前であったが、今日は丁寧にティッシュで目尻と頬を抑え、アイラインとファンデーションが崩れていないことを念入りに確認した。

スマートフォンのアラームが20時を告げるやいなや、名前は勢いよく席を立った。直ぐにパソコンをシャットダウンし、ロッカーから薄手のトレンチコートを取り出した。
「お先に失礼します!」
未だ業務を続行する同僚の目を決して見ないようにしながら逃げるように名前はフロアを出た。
エレベーターに乗る前にトイレに寄り、化粧直しを行う。明るい色の口紅を塗り直した名前は髪の毛の乱れを直し、鏡に向かって「良し!」とうなずいた。

待ち合わせ場所である地鶏焼店に入ると待ち人は既に到着していた。母方の祖父がデンマーク人のクォーターであるという彼は見間違いようのない美しい金髪を持っているためひと目で判る。
「七海さん、お待たせしました」
「いえ。私もいま来たところですから」
名前は返ってきた10点満点の答えに拍手を贈りたくなった。あいも変わらず紳士的な彼は通路側の席に座り、壁側の席を名前用にと空けていた。
その気遣いに甘え、席についた名前は店員から渡されたおしぼりで手を拭った。パソコン作業で疲れ切った手におしぼりの暖かさが染み渡った。
「名字さん、飲み物どうしますか?」
おしぼりで両手がふさがっている名前の前に七海がメニューを広げた。
「生ビールでお願いします」
「生ビール2つお願いします」
おしぼりを渡した後も待機していた店員に七海は注文を申し伝えた。
すぐに運ばれてきたグラスを持ち、お互い軽くぶつけ合う。
「「お疲れ様です」」
社会人になってから身に染み付いた習慣により、なにも考えずとも手が動く。七海のグラスに自分のグラスを下からぶつけた名前は、きめ細やかな泡に口をつけ、ゴクゴクと喉にビールを流し込んだ。
「……顔色が随分いいですね」
「そうなんですよ!分かります?」
「ええ、先月に会った時の3倍は健康的に見えます」
先月は期末にあたる3月だったため資産台帳の作成や監査対応等で忙しかったが、業務量でいえば決算整理を行う今月の方が忙しい。毎年4月は身体も精神もボロボロになるのが通例であったが、今年は随分マシなほうだった。マシどころか、慢性的な頭痛、腰痛、肩こり諸々から解放されたせいで体調が良い方に分類される。
「今月頭に突然同僚が一人辞めたときはもう終わったなって思ってたんですけどね……コースにします?単品で頼みます?」
「コースにしましょうか。足りなかったら追加で頼みましょう」
手を上げた七海は焼き鳥7本コースを注文した。すぐにサラダと小鉢が運ばれてくる。箸を手に持った名前は手を合わせ、サラダに手を付けた。
「おいしい!」
「それはよかった」
七海は幸せそうにサラダを頬張る名前を眺めながら小鉢を手にとった。



名前が七海と出会ったのは、新入社員として入社した初日、オフィスビルのエレベーターホールでのことだった。
地方から上京したばかりの名前は、入社式の緊張感と何より通勤時間帯の人の密度に耐えきれず気分が悪くなっていた。胃のあたりが不快感を訴え、脂汗が止まらない。壁に背を預けながら、血の気が引いていくような感覚と戦っていた名前に声をかけたのが同じオフィスビルに通勤していた七海だった。
「大丈夫ですか?よかったらこれ飲んでください」
そういって渡された水は冷えており、わざわざ買ってきてくれたことが察せられた。彼は水を渡すと早々にエレベーターに乗って行ってしまったが、都会の人間は薄情な印象を持っていた名前にとって、七海は東京で一番最初に優しくしてくれた人間だった。
 
七海の働いていたフロアは名前の働くフロアの上階にあり、通勤時を含め度々顔を合わせることになった。七海も残業が多いようで、定時をとっくに過ぎた時間帯にリフレッシュルームで顔を合わせることも多かった。
名前のきっちりまとめられた前髪に無造作に一つにくくった髪、真っ黒なスーツにヒールが低く光沢もないパンプスは就活生の姿のままであり、確認するまでもなく新入社員だと察せられた。
そんな新入社員が終電間際にリフレッシュルームでエナジードリンクを煽っていれば、他社の社員であれ気にもなる。それが4月1日に声をかけた縁があればなおさらだったし、その肩に小さな呪霊が乗っていれば、声をかけずにはいられなかった。
「身体を壊したら元も子もありませんよ」
「あ……」
すれ違えば会釈をする程度の関係性だったため急に話しかけられて驚いたのだろう。口を開けたまま固まる名前の顔は肌荒れが目立ち、雑に口紅が塗られた唇は端が切れて血が滲んでいた。
「もうすぐ終電もなくなるでしょう。早く帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「社宅が隣駅にあるので、終電は関係ないんです」
へらっと名前は笑い、直後に口角炎の痛みに顔をしかめた。
今までは中途採用しかしてこなかった会社が初めて新卒採用をしたのが名前の代であった。只でさえ人手不足の現場が教育まで手が回るわけもなく、結果その軋轢が全て名前に伸し掛かってきていた。
「電車でないならなおさらです。夜道を女性が一人で歩くのは危ないでしょう」
「そうですね。ありがとうございます」
心配してくれるのは嬉しかったが、名前はまだ帰るわけにはいかない。明日朝に提出しなければいけない報告書がまだ終わっていないのだ。
リフレッシュルームの椅子から立ち上がった名前は再度力の抜けた笑顔を七海に向けた。
足取りだけはしっかりとしていた名前は飲みかけのエナジードリンクを片手に自分のオフィスへと戻っていった。
「……」
彼女に憑いていたのは蠅頭だ。放っておいても問題はない。自分はもう呪術師ではないのだからと七海もリフレッシュルームを後にして自分のオフィスへと戻った。
 


名前が七海という名前を知ったのは入社して半年が経った頃だった。
エレベーターやリフレッシュルームで会うたびに雑談をしていたが、彼の名前を訊いたことはなかった。訊かなかったというより、訊けなかったの方が正しい。最初の会話で名前を訊きそびれたことでその後も確認するタイミングが掴めなかった。知り合ってそれなりになると今更訊けない。
結果、会社の先輩という第三者から七海の名前を知らされることになった。
「七海さん?」
「ほら、いつも名字が話している証券の人だよ。かっこいいでしょ。目立つし、隠れファンもいるみたいだよ」
「ああ、なるほど」
地毛の金髪は日本社会では目立つ。彫りの深い顔立ちに涼し気な目元は文句なく整っているし、鍛えているのかスーツの上からも肩、胸、腕の筋肉が張っているのが見て取れる。それに紳士的な性格と礼儀正しさは少しでも七海に注目していればすぐに察せるだろう。証券会社ならば給料もいいはずだ。
「七海さん彼女いるのかな」
「さあ……知りませんけど」
「名字、連絡先知ってたりしないの?」
先輩の眼がキラリと光る。隠れファンとは先輩自身のことも指していたようだ。
残念ながら名前は七海の名前すら知らなかった。連絡先など知るわけがない。
知らないと首を振る名前を先輩は疑う眼で見た。
「別に私のスマートフォン見せてもいいですけど、本当に知りませんよ」
「名刺交換くらいしてないの?」
「してないです……」
あれ、もしかして自分って物凄く七海に対して失礼なのではないかと名前は思った。
初対面で水をもらい、度々仕事の愚痴を聞いてもらっているにも関わらず、名乗ってすらいない。なんということだ。

自己嫌悪からデスクに突っ伏した名前の背を叩いた先輩は、ついでとばかりに領収書整理の仕事を名前のデスクに移動させた。領収書、レシート照合の仕事はシンプルではあるが、月末にまとまって来るため時間を取られる。
渋々と起き上がった名前は仕方なく机に乗ったファイルを手にとった。

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