03

最悪のコンディションで出社した金曜日から数日が経ち、右足裏の擦り傷も癒えてきたため、名前は久しぶりに同僚と共に会社の近くにあるベーカリーに立ち寄ることにした。
昼食として選んだお気に入りのデニッシュパンをトレイに載せる。混雑する店内で図太く悩み抜いた同僚は、結局カツサンドを選んだようだった。
会計を済ませ、紙袋に入ったパンを片手に会社までゆっくりと歩く名前は、社用の携帯に不在着信が入っていることに気がついた。
「げ、課長からだ……最近多いな……」
名前の顰めっ面に同僚が憐れむような目を向けた。
「そういえば、先週退職した人いるでしょ。実はあの人課長からセクハラ受けてたらしいよ」
「え?なにそれ初耳なんだけど。あの人課長と仲良しじゃなかった?」
名前は首を傾げた。その女性同僚はいつも課長と行動を共にしていたため社内では不倫をしているのではないかと噂になっていた。課長も課長でわかりやすくその同僚を気に入っていたこともあり、噂というよりか周知の事実として黙認されている空気があった。
「なんか一方的に付き纏われてたみたいだよ。結構可哀想なことされてたみたい。上司ってこともあって耐えてたらしいんだけどプライベートまで介入してきたから我慢の限界が超えて退職したんだってさ」
「詳しいじゃん。誰から聞いたの?」
「本人から聞いた。送別会の後に引き継ぎ関係でちょっとだけ時間もらったんだよね。そのときにポロッと聞いちゃって」
「……噂じゃないんだ」
名前の視界の端に新宿中央公園が入る。名前も散々な目にあった夜だったが、同僚もどうやら同じくらいの衝撃を受けていたらしい。
「ちなみにそれ人事部とかに報告した?」
名前は鬱々とした気分で聞いた。
「まさか……証拠とかないし、そもそも被害者が届け出なかったのに部外者がどうこうできる問題じゃないし」
だよねと名前はその行動を肯定した。
目の前の公園の中では二人組の警察官がベンチに座る男性に話しかけている。公共の場では当たり前のように行われる取締行為も、社内で完結する問題となると難しいだろう。特に名前たちの働く会社はとても風通しのよい会社とは言えない。
「まあ、お互い頑張ろうね」
部長はパワハラ、課長はセクハラ、仕事はブラック。同僚が辞めたせいで仕事量がまた増え、ついには自宅に持ち帰るようになった。サービス残業どころの話ではない。
頭痛に肩こり、寝不足による慢性的な倦怠感で身体はボロボロだ。来週に予定している健康診断の結果がただただ恐ろしかった。
 
同僚からセクハラの話を聞いてしまったせいか、名前は課長の一挙一動に過大に反応していた自覚があった。会議室でたまたま隣に座った課長の足がたまたま名前の足に触れるたびビクビクと肩が跳ね、エレベーターで課長が後ろに立っているのもなんだか落ち着かない。午後の業務に入ってから集中力がとんと続かない名前は決算データの整理を諦めた。
時刻は21時。いつもより1時間以上早いが名前は帰宅することにした。
重い足でエントランスを歩く名前の足元からは歩くたび大理石とヒールがぶつかるカツカツとした音が鳴る。中小の零細企業なのに借りているオフィスビルだけは立派なのである。
「あの、すみません」
自動ドアから外へと出た途端に話しかけられた気がした名前は歩みを止めて声のする方向に顔を向けた。クールビスにはまだ早いだろうに、上着を脱いで手に持っている男性が立っていた。思わず足を止めてしまう程度には整った顔立ちをしていた彼はまっすぐに名前を見ていた。
「えっ……なにか御用ですか?」
「はい。あの、これを届けに来ました」
彼は上着を持った手と反対側に持っていた紙袋を名前に向かって突き出した。
反射的にその紙袋を受け取ろうと手を伸ばした名前の膝がかくっと抜けた。
「……っ!!」
姿勢を崩し、前のめりに膝をついた名前を支えた伏黒は、驚きを隠せないまま自身の背後を確認する名前の姿に、やはり呪いは見えていないと判断した。
名前の後ろには2匹の蝦蟇が居る。膝カックンの要領で名前の膝裏に伸ばした舌を打ち込んだ2匹は悪戯成功とばかりにケロケロと鳴いているが、それに対しても名前はノーリアクションだった。
「大丈夫ですか?」
伏黒は、名前の腕をとって立ち上がらせながら白々しく聞いた。
「すみません、なんか疲れているようで膝がぬけちゃって……あっ、ありがとうございます」
苦笑いで場を誤魔化す名前に改めて紙袋を渡すと、今度はきちんと受け取られた。
伏黒に腕を支えられたまま名前が中身を覗き込むと、そこには先週失くしたはずのパンプスが入っていた。
「え……」
「先週は驚かせてしまったようで、すみませんでした」
思わず後ずさった名前に伏黒は謝罪した。ただしその腕は掴んだままである。
「えっ……はあ、いや、大丈夫です……はい……」
助けを求めるように周囲を見渡した名前だったが、悲しいかな21時を過ぎたエントランスホールに人影はなかった。せめて直ぐに逃げられる体勢になりたいと伏黒に掴まれた腕をじりじりと引いてはみたが、より一層腕に込められた力が強まった気がしただけだった。
「……まだなにかありますか?」
「顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
お前のせいだよ、と悪態をつきかけた名前はぐっとその言葉を飲み込んだ。
伏黒の視線が首からかけっぱなしにしていた社員証に落ちていることに気がついた名前は慌ててジャケットの内側に社員証を捩じ込んだ。
「実は少し具合が悪いので、早めに家に帰りたいんです。腕、放していただいてもいいですか?」
再度『不審者』のレッテルを彼に貼った名前はミジンコ並みではあるが存在していた気概を奮発し、毅然と言い放った。放してほしいと訴えるように今度こそ強く腕を引くと思いの外あっさりと解放された。
「それじゃあ。靴、ありがとうございました」
このパンプスがどうやって名前の持ち物だと知ったのかは気になったが、触らぬ神に祟りなしの言葉の通り、好奇心を黙殺して、不審者に関わらないという身の安全を優先した。
目を合わせないように下を向いて小走りで歩きだした名前に伏黒は再度声をかけた。
「あとこれも。迷惑だったら捨ててください」
コンビニエンスストアのビニール袋を押し付けた伏黒は名前の横を通り過ぎて歩いていった。ずっしりとした重みを感じるビニール袋の中身を見ると栄養ドリンクが数種類入れられていた。鉄板の栄養ドリンクから女性向けのカロリーが控えめのものまである。
「……えーっと、」
慌ててお礼を言おうにも伏黒の姿はもう無かった。

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