02

ぼんやりしていた頭から血の気が引くと同時に火照っていた頬を冷や汗が伝う。自分の胸元を掴んでいるのが男性の手であると気が付いた名前の脳裏をまずよぎったのは『暴行』の2文字だった。
ビジネス街で治安がいいのは昼間だけであり、夜の公園で女性が一人で休めるほど西新宿の治安はよろしくない。普段の名前ならば夜の公園に近寄ることすらしようとは思わなかった。

片手に持っていた250mlのペットボトルは手を離れ、地面に転がっている。何か固いものに当たった額はじんじんと痛みを訴えている。その痛みで我に返った名前は未だジャケットを掴む腕を咄嗟に振り払った。
「っ……!」
思っていたより呆気なく離れた手に、今度は後ろ向きにふらついた。慌てたように伸ばされる手から逃げるように身体を捩り、地面に置いていた鞄を掴むと、一目散に出口を目指した。
「待て……追え!」
後ろから声が聞こえたが、足を止める義理はない。恐怖で縺れる足を必死に動かし、公園の出口に面する大通りで信号待ちをしていた空車タクシーに駆け込むと、息を切らしながら自宅住所を告げた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
「だっ……大丈夫です……」
悲しき日本人の習性か、大丈夫かと聞かれたら大丈夫でなくとも大丈夫であると答えてしまう。
信号が変わり、タクシーが動き出してからやっと安堵の息を吐いた。そしてそこで初めて片方のパンプスが脱げていることに気がついた。
足の裏を指先でなぞると、コンクリートの上を走ったせいかストッキングは電線し、細かい切り傷も負っているようだった。じくじくと痛む額とじんじんと痛む足の裏。落としたパンプスは冬のボーナスで買ったお気に入りのブランドのものだった。
「ああ……今日は間違いなく厄日だ……」
全力疾走をしたため喉は渇ききっていたが、先程買った水も落としてしまった。
このままシートに埋まって眠ってしまいたかった。



伏黒から渡された報告書を受け取った五条は、砂糖が溺れるコーヒーをぐるぐるとかき混ぜながらそれに目を通した。いつもながら伏黒の報告書は読みやすい。小学生の日記レベルのものを未だに提出してくる2年生にも見習ってほしかった。
「で?相談って何?」
粘度の高まったコーヒーを啜りながら五条はソファーの後ろに立つ伏黒を振り返った。
珍しく素直に頼ってきた生徒に口角がわかりやすく上がる。上機嫌を隠すつもりもなかった。
「この蠅頭の群れですが、窓の報告よりも数が多く一部は4級相当でした。時間経過により数が増え呪力が強くなっている可能性があります」
「それで?」
呪いは人間の負の感情が集まることで発生する。時間経過とともに力が強まることはなにもおかしくない。五条は続きを促した。
「今回の呪いの発生源は報告書に記載したその女性です」
個人の強すぎる思いが呪いと化すことはごく稀ではあるが存在する。伏黒の気がかりが何なのか、五条はさらに続きを促した。
「……対象者が逃げる際に呪いが意思を持ってこちらに向かってきました」
「いやそれを報告書に書いてよ。呪霊操作の呪詛師だったら大事だよ?」
「蠅頭にも玉犬にも反応を示しませんでした。呪力もほぼ感じませんでしたし、非術師だと思います」
「非術師が呪霊操作できるわけないでしょ。恵の見間違いか、偶然じゃない?」
彼女が伏黒の手を振り払った時、今まで無抵抗であった呪いが突然反攻の意思を見せた。蠅頭レベルではあるが数の多さが仇となり、僅かながら足止めをされてしまった伏黒は彼女を取り逃がした。夜中の公園ではあったが、確かに彼女の足元から呪いが湧くのを見たのだ。
間違いなくあの蠅頭の群れは彼女から発生し、彼女の意図を汲んで行動した。
「……まあ、この件は暫く上には伏せておくからとりあえずもう一度確認してきてよ」
本当に呪力の無い人間であるのか否か確認してこいと五条は言う。
「悪質な呪詛師に呪われている被害者かもしれないし、実は呪力のある一般人かもしれない」
被呪者だったら原因の呪詛師を特定して対応すれば良いし、呪力のある一般人であったら高専で保護すれば良い。本人が呪詛師であったならば、五条が始末すればいい。
「もし、呪力のない一般人で意図せずに呪霊を操作していたら?」
「呪術規定に基づくならば処分対象だって恵も知っているでしょ?」
知っているから相談をしに来たというのに五条は底意地の悪いことを言う。わかりやすく口角を下げた伏黒に、五条はマグカップの底に残った砂糖を啜りながら笑った。
「確認して僕に報告してよ。また相談しよう」
今回のケースは蠅頭レベルであり、二次被害も確認できていなかった。焦ることはない。それよりも優先するべきことが沢山ある。
ポケットの中で震えるスマートフォンに急かされるように五条は立ち上がり、伏黒の頭を雑に撫でた。
「じゃあ僕、任務に行ってくるから」
「……いってらっしゃい」
手をひらひらと振って去っていく五条を見送った。彼女が落としていったハイヒールを警察に届けたほうがよいのかというもう一つの相談はできず終いだった。

さて、諸々の確認のため昨日の彼女を探し出さなければならない。伏黒は彼女の顔を覚えていたし、玉犬は彼女の匂いを覚えているが如何せん新宿は人が多い。
彼女が制服姿であったらならば職場の検討もついただろうに、残念ながらスーツ姿であったため職業の検討もつかない。唯一の手がかりであるハイヒールの、中敷きに刻まれているブランド名を検索したところ新宿だけでも6店舗あった。主要なデパートの全てに店舗があるほど有名な店であったが伏黒には見覚えも聞き覚えのないものだった。
ブランド検索ついでにホームページで似たデザインの靴を探し、値段を確認したところ2万円近いものだった。
「高いな」
もしかしなくても落とした靴を探しているのではないかと思った。少なくとも伏黒の金銭感覚では、2万円は失くすに惜しい金額だった。手元にあるハイヒールは買ったばかりなのか、それとも大切に履いていたのか傷も少ないものだった。落とし物を探すならば落とした所に戻ってくるであろう。
何故夜の公園にいたのかはわからないが、出会った場所から職場が近い可能性は十分ある。
放課後、再度新宿中央公園を訪れることを伏黒は決めた。

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