この世でいちばん大切な人


「名前、少し付き合ってくんねぇか」

それは突然だった。朝餉を終えて庭先で鍛錬に勤しんでいたはずの実弥さんが、いつの間にか隊服ではなく余所行きの着流しに着替えて、私が洗い物をする厨に顔を出してそう言った。どこか出かける予定なんてあったかしら。きょとんとしていれば、実弥さんは待ってるから着替えて来いと言い残して上がり口の方へ向かってしまった。とにかく急ぎの用かもしれないからと自室へ駆け込み、私も着物を着替えて上がり口へと急ぐ。

「お待たせしました!実弥さん、どちらへ?」
「京橋に行く」
「京橋、ですか」
「あァ。おら、行くぞォ」
「あっ、はい!」

用件はなにも言わず、すたすたと歩き出してしまう実弥さんを慌てて追う。京橋と言えば、思い返すのは父の墓と、それから実弥さんの生まれ育った場所だということ。身請けしていただいてすぐに一緒に行った父の墓参りはまだ記憶に新しい。
春の麗らかな日差しを受けて、きらきらと輝く紫水晶のような髪に眩しさを覚えながら、横に並んで実弥さんの手をきゅっと掴む。少しだけ驚いたように瞳が見開かれて、けれどそれはすぐに優しく細められ、実弥さんは小さく笑って長い指が私の指に絡まった。ああ、どうしましょう。実弥さんが格好良くて素敵で、心臓が苦しいです。

「実弥さん、大好きです…」
「っは?」
「あっ、わぁ!わ、私ったらなに言ってるの…!」

刹那、実弥さんはぴたりと足を止めて目をまんまるくして私を凝視していて、そこで漸く気が付いて慌てて真っ赤に茹だった顔を両手で覆い隠した。恥ずかしい!屋敷ならまだしも外で、脈略もなく好きだなんて!呆れられちゃう、おかしな奴だって幻滅されてしまうわ…!
そんなことを思って顔を隠したままぷしゅうと縮こまっていれば、頭上から大きな溜め息が聞こえてきてびくりと身体が強ばった。けれど次に降ってきた言葉は予想だにしないもので。

「…クソ、今すぐ連れて帰りてェ…」
「えっ?…ひゃ、!」

堪えるような、怒っているような表情で実弥さんが呟いて、突然ぐっと腰を引かれ耳元に顔が寄せられた。

「ハァ…。可愛すぎんだよ阿呆がァ。抱きたくなんだろーがァ…」
「っえぇ、だ、!?」

低く吐息混じりに囁かれた言葉に、ぼんっと顔に熱が集まる。身の危険を感じて実弥さんから距離を取るように上体を反らせば、思いの外簡単に腰に回されていた腕が離れた。実弥さんは眉を下げて困ったように笑って、頭に大きな手を乗せぽんぽんと撫ぜる。

「ふ、…んな警戒すんなァ」
「う、は、はい…」

顔に集まった熱が引かないまま、こくりと頷く。再び手を握られて実弥さんが歩き出すのに続けば、ぼそりと小さな呟きが聞こえた気がした。

「ったく、自分のもんにした途端、欲が出てキリがねぇなァ…」
「?なにか言いました?」
「なんでもねェよ。ほら、行くぞ」

それはあまりにも小さな声だったので内容までは耳に届かなかった。
実弥さんは穏やかに口角を上げて強く手を握るから、その温かさにほっと心が安らいで、なんだか小さなしあわせを感じながら町へと続く細い道をふたり並んで歩き始めた。


***


京橋に辿り着き、実弥さんが脇目も振らずに真っ直ぐ向かったのは花屋だった。店先でひとりの女性が、腰を労りながら仕分けの作業をしている。実弥さんが近付くと、その女性は振り返って一瞬驚いたように目を見開き、そしてすぐに朗らかに笑った。

「あら!不死川さんちの!また来てくれたのねぇ」
「奥さんも息災なようで」
「もう最近足腰にきちゃって…、あらっ?あらあら!そちらの可愛らしいお嬢さんは?」

実弥さんの少し後ろにいた私に気付いた女性が、まるで物珍しいものでも見たかのように目をまあるくして実弥さんに詰め寄った。

「あァ、俺の嫁さんです」
「…っ、あ、不死川名前と申します…!」

あまりにも自然に、実弥さんの口から出た"嫁さん"という言葉に危うく惚けそうになって、慌てて頭を下げてご挨拶をする。だって、なんだかとっても恥ずかしくて、それ以上にとっても嬉しかったのだ。ああ、私は本当に実弥さんのお嫁さんになれたんだなぁ。ここが往来でなければ、寝転んでじたばたと転げ回っていたかもしれない。

「やだぁ、もう!そうと知っていたらお祝い、ちゃんと用意しておいたのに!」
「いえ、お気持ちだけで。奥さん、供花を二束見繕っていただけますか」
「もちろんよ!ちょっと待っててね」

供花ということは、これからお墓参りにでも行くのだろうか。快活に笑いながら店の奥へと消えていく女性をぼうっと見送っていたら、突然実弥さんがにゅっと顔を覗き込んできて、にやりと口角を上げて笑った。

「ふ、顔赤ェなァ?」
「っだ、だって…嬉しかったから…」
「可愛いなァ」
「かわっ、…も、もう…!私、向こうの反物市、見てきますっ!」
「あんま遠く行くなよ」

くつくつ笑う実弥さんに頬を膨らませながら、通りの向かい側に出ている反物市へ向かう。いつも実弥さんに揶揄われている気がして悔しいけれど、ちっとも嫌じゃないしむしろ嬉しささえ感じてしまうのだからいよいよだ。
そうして熱が冷めるまで反物を眺めて、特に買う気もなかったので暫くしてから花屋に戻ると、実弥さんの手には既に二束の綺麗な供花が抱えられていた。駆け寄ると同時に見知らぬ初老の男性が実弥さんに声をかける。どうやら知り合いだったようで、話し込むふたりを距離を開けて眺めていれば。

「ねぇ、あなた!」
「あっ、お花屋さんの…!素敵な供花をありがとうございました」

突然背後から呼び止められ振り返った先にいたのは、先ほどの快活に笑う花屋の女性。

「あなた、とっても愛されてるのねぇ」
「え?」
「素敵な子ねって言ったら、不死川さんなんて言ったと思う?」

含みを持たせた笑顔をみせる女性に首を傾げれば、まるで噂話をするかのように耳元に顔が寄せられる。視界の端では、まだ実弥さんは男性と和気藹々と話し込んでいてこちらには気付いていない。女性は小さな声でこそこそと話し始めた。

「"この世でいちばん、大切な人です"…って!見たこともない優しい顔で言うもんだから、私まで照れちゃったわよ〜!」
「えぇっ…!」
「でも自分のことのように嬉しかったわ。昔、大変なことがあった子だから…。どうか大事にしてあげてね」
「……はい、かならず」

女性の垂れた優しそうな瞳を真っ直ぐ見つめて大きく頷く。彼女は嬉しそうに私の背中をぽんと叩いて、店の中へと消えていった。

"この世でいちばん、大切な人です"

もう一度その言葉を反芻して、思わず胸に両手を当てた。ぎゅううっと胸が酷く締め付けられて、気を抜けば涙が溢れそうだった。間違いなく、私も同じだったから。実弥さんはこの世でいちばん大切で、いちばん愛しくて、いちばん守りたい人。誰よりもしあわせになって欲しい人。

「名前」

低くて、けれどとっても温かい声が名前を呼んだ。顔を上げれば実弥さんはきょとんとしていて、そのいつもより幼くあどけない表情を見た途端じんわりと涙が浮かんだ。辛抱たまらなくなって、ここが往来だとか人が沢山いるだとか、そんなことに構うことなく実弥さんの広く逞しい胸に飛び込む。

「っ、おい?」
「実弥さん、…っあ、あ、」
「あ?」
「愛してます…!」
「ッ、は、…?、〜〜〜〜!」

刹那、べりっと音がするくらい強引に身体を引き剥がされて、それに驚く暇もなく手首を捕まれ町の外れまでずんずんと連れられる。擦れ違う人たちからの好奇の視線を気に留めることもなく、実弥さんはただ無言で人の合間を掻い潜って、町を出たところで急に道を逸れて、雑木林の中へと進んでいくからぎょっとした。かと思えばすぐにぴたりと止まって、取り分け大きな楠の木の幹に私を押し付けて、すぐさま柔らかいものが口に当てられた。それは言うまでもなく実弥さんの唇で、驚きで見開いた視界の真ん中に滅紫色の瞳が微かな熱を孕んで私を見据えている。

「ふ、ぁっ?…ん、んむ、!」
「ッは、……口開け、名前」
「っん、…んぅっ!」

どうして突然口吸いなんて。聞く暇も与えられずに、にゅるにゅると唇の上を往復していた熱い舌がとんとんと合間を叩く。大人しく少しだけ隙間を開けたら、すぐに舌がぬるりと口の中に入り込んできて、後頭部に添えられた大きな手が離れることを許してくれず、歯列も唇の裏側も全部舐め尽くされた。

「んぅ、っ、さね、み、さ…っ、ふ、ぁ」
「……名前、舌、出せェ」

一度唇が離されて、鼻先が触れる距離で実弥さんが低く囁く。熱に浮かされるようにおずおずと舌を出せば、実弥さんはふわりと目を細めた。

「うん、いい子…」
「っふ、ひぅ、ん〜〜!」

あまい声で褒められ、すりすりと項や首筋を撫でられてぽーっとしているうちに、舌をぱくりと食べられてじゅるじゅると音を立てながら吸い上げられる。それだけできもちよくて仕方なくて腰が抜けそうになるけれど、背中は木の幹に凭れているし股の間に実弥さんの片脚が割り入れられているからかろうじて体勢を保っていられる状態で。どうしよう、ここは外なのに。だめなのに。実弥さんがあんまり熱く見つめて、まるで閨事の時のようにあまい声を出すから。

「んっ、ぅ、は、ぁ…」
「ッは、…きもちいいなァ」
「ぅ、ん、…うん、っ、もっと、」
「好きなだけしてやらァ…」

にゅる、と舌を押し戻されて、再び噛み付くように唇が塞がれ、咥内に舌が差し込まれる。ぞわぞわとする上顎や、声が漏れてしまう舌の表面を何度も何度も擦られて、その間もずうっと実弥さんは半分伏せた瞳で私を見つめている。胸がきゅうっと音を立て、実弥さんへの愛おしさが溢れてどうしようもなくなる。このまま溶けてひとつになれたらいいのに。この世でいちばん大切な実弥さんと、ひとつになれたら。
そんなことを朦朧とする頭の中で考えながら、私たちはそれからも暫く飽きることなく口吸いを繰り返していた。

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