亡き友を想う風の音


抱えた二束の供花が微風に揺れる。その拍子に竜胆の花弁が一枚ひらりと風に舞い、隣を歩く名前の滑らかな頬を掠めた。立ち止まって、親指の腹でその頬をすいと拭ってやる。あれは胡蝶だったか、花粉は体質によって肌が荒れるとかなんとか、いつか聞いた話がふと頭に過ぎったからだ。擽ったいのか僅かに目を細めて、それでも健気にじっとしている名前につい離れ難い思いを感じてしまうものの、先刻出先だというのに箍が外れて何度も口吸いまでした手前、名残惜しさを覚えつつ触れていた手を大人しく引っ込めた。

「なにかついてました?」
「花、掠っただろォ」
「あっ、そういえば…。実弥さん、よく見てますね」
「そりゃあなァ」

穏やかに微笑む名前の瞳に浮かぶ尊敬の念に、心内で苦笑する。こいつのことだから、気配りができてすごいだとか、自分も見習わなければだとか、十中八九そんなことを考えているのだろう。けれど誰彼構わず気を配るなど、俺には到底出来た芸当ではないし、寧ろ元よりそんな気なんざ更々ない。
心の底からしあわせを願って、だからこそ手放そうと歯を食いしばって、それなのに傍にいることを諦めきれずに、そうして漸く手に入れた名前のことだから、せめて傍で過ごす間は目を離したくない。全部、お前だからに決まってんだろうが。
ひとまわり以上小さく細い手を取れば、嬉しそうに笑った名前が指をきゅっと絡める。溢れる愛おしさと際限なく湧き上がる欲を隠すように、再び前を見据えて足を踏み出した。

「もう少しで着く。歩かせちまって悪ィなァ」
「いえ、実弥さんと並んで歩けることが嬉しいですから」
「…そうかィ」

最早しまりなく緩んだ表情は取り繕えそうになかった。そんなことは些末にすら思えてしまったのだ。名前が笑って、釣られて俺も柄になく笑って。そんな在り来りで些細なことが、なによりもしあわせなんだから、それでいいじゃねえか。
心が温かいもので満たされていく、ひどく不思議な感覚を抱えながら辿り着いたのは、墓石が立ち並ぶ墓地の一角。そのうちひとつの墓前に立ち止まり繋いでいた手を離せば、名前は墓石に刻まれた文字を読んだのか、今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げた。

「このお墓…」
「ふ、なんつー顔してんだァ。そんな顔させたくて連れてきたんじゃねェ。…お袋と弟妹たちに、ちゃんと見せたかった。お前といる、今の俺を、なァ」
「…手を合わせても、いいですか…?」
「あァ、頼む」

供花を一束花立に挿して、後ろに立つ名前の背中をそっと押す。墓前に膝をついた名前は、墓石に刻まれた"不死川家"の文字を見上げて、静かに口を開いた。

「実弥さんと添うことになりました、名前と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ございません」

墓というよりはまるでそこに立つお袋を前にしているかのように言葉を紡いだ後、瞼を下ろして手を合わせる名前の横に並んで膝をつく。墓前に添えられた見覚えのない献花は、恐らく京橋の顔馴染みの誰かが供えたものだろう。お袋は近所付き合いをまめに交わす外向的な性格で慕われていたし、弟妹たちも大層可愛がられていたから、俺が来れない間にもこうして誰かが墓を綺麗にしてくれているらしい。有り難いことこの上ないのは確かだが、以前はそれがどうにも同情に思えてしまって好かなかった。けれど今はどうだろう。ただ穏やかな心持で此処にいられるのは、名前が隣にいるからなのかもしれない。

「なァ…。お袋、見てんだろォ」

救いようのないクソ親父が死んで、幼いながらに父親代わりになろうと自らを奮い立たせて間もなく、たったひとりの弟だけを残して家族が雲となったあの日から、俺は憎しみに突き動かされるまま、ただ我武者羅にひた走ってきた。醜い鬼共は、俺が根こそぎ殲滅する。それだけが、生きる意味だった。
俺は、お袋をこの手で殺した俺自身を恨んだし、何よりもこの世の不条理が許せなかった。お袋や弟妹たちが一体何をした?禄に働かず酒や女にかまける屑のような親父の代わりに、汗水垂らして必死に働いて七人の子供を育てたお袋も、不在がちのお袋に代わって下の弟妹たちの面倒を見ていた寿美も貞子も、寂しかっただろうに泣き言ひとつ零さない弘もことも、産まれたばかりの就也も。貧しいながらに助け合って、ただ必死に生きていただけなのに、どうして命まで奪われなければならなかったのかと、いるのかすらわからない神を恨まずにはいられなかった。

「実弥さん」

膝の上で握り込んだ拳に、ふわりと小さな手が重ねられた。その温かさに軋んだ心が和らいで、拳を開いて小さな手をぎゅうと握り返す。確かに俺はこれまでそう思い続けて走ってきたが、今はそうじゃない。
鬼共は必ず、俺がこの手で殲滅する。それは何に変えても守りたい大事な女がいるからだ。こいつがいつまでもしあわせでいられるよう、俺は悪鬼を捻じ斬る。それからあの馬鹿な弟にも、いずれ大事な奴ができるだろう。その時心の底からあいつが笑えるように、ただ笑って普通の暮らしができるように、俺がなんとかしてやる。たったひとりの、玄弥の兄ちゃんだから。

「だから安心してくれ。俺がそっちに行くまで、母ちゃんのこと、よろしくなァ」

墓石を見上げて無意識のうちに零れた言葉は、自分でも驚くほど穏やかで、優しく吹き抜けた微風が応えるように供花を揺らした。
生きていれば年頃だった寿美や貞子が見ていたら、俺のあまりの変わり様をきゃあきゃあと囃し立てたに違いない。お袋は驚きながらも喜んで、名前を自分の娘のように可愛がっただろう。弘なんかはこいつに見蕩れて、俺の方が嫉妬していたかもしれない。会いてえな。会わせたかった。こいつのお陰で今の俺があるんだと、幼い弟妹たちに言って聞かせたかった。
そんな僅かな哀愁を残したまま、また来るからなと心内で唱えて、名前の手を引くように立ち上がる。

「っし、行くかァ」
「え、もういいんですか?」
「またいつでも来れるからなァ」
「…そうですね。また来ましょう、一緒に」

一緒に、か。その何気ない一言に、堪らなく愛おしさが溢れる。気が付けば俺は穏やかに笑んでいた。

「名前、悪ィ。もう少し付き合ってくれねえか」

間髪入れずに頷いた名前の手を握ったまま、お袋たちが眠る墓石に背を向ける。
もう一人、どうしても会わせたい奴がいるのだ。かつて失った兄とも呼べる友の姿を脳裏に描いて、影が伸び始めた砂利道を歩き出した。


***


粂野匡近、兄弟子である友は、志半ばで鬼によって命を落とした。匡近が血を分けた弟とともに眠るこの墓前へ足を運ぶのは、柱に着任した報告のために訪れて以来だった。

「粂野、匡近さん…」
「あァ。しょうもねェほどお人好しで、お節介な男だった」

匡近の墓前には僅かに萎れた献花が一束置いてあるだけで、墓石は土埃で赤茶けている。名前が懐から取り出した手拭いで墓石を拭うのを横目に、百日草の供花を花立に挿した。

「ふふ、実弥さんがそう言うってことは、素敵な方だったんですね」
「…そうだなァ。生きていれば風柱になってただろうな」

亡き友の思い出をぽつりぽつりと語る間、名前はただ黙って俺の声に耳を傾けていた。
匡近は、俺が知る限りでは誰よりも優しくて、強い正義感と信念を持った男だった。けれどもその優しさ故に命を落とし、今はただ静かに此処に眠っている。

「いつもいつも、優しい奴から死んでいく」
「……そうかもしれませんね」
「んとに、クソみてェな世の中だよなァ…」

弟の仇を討つために両親の反対を押し切って鬼殺隊に入って、人としての性分を捨てかけていた俺を鬱陶しいくらい気にかけて、最期は他人の子どもを庇って致命傷を負った、馬鹿がつくほど優しい兄弟子。息を引き取るその瞬間まで俺のことばかり気にかけ、自分のことは全部棚に上げて。そんなどうしようもない兄弟子が、俺は堪らなく好きだった。あの屈託のない笑顔に助けられ、生かされていたのだから。

「本当に辛いことばかりの世の中ですが…、でもきっと、匡近さんは後悔していないと思います」
「…柱にもなれねェうちに死んで、浮かばれねェだろ」
「信念を捨てて、誰かの犠牲の上に成り立つ達成を、喜ぶ人なんでしょうか…?」
「………いや、そんな奴じゃねェ」

確かにあの場で匡近が子ども諸共鬼を斬っていたら、それこそそんなのは俺が知る匡近じゃない。例え柱になれたとて、それを良しと喜ぶ男ではないだろう。それでも生きていたら、隊士に慕われ多くの人間を救う立派な柱になっていたのかと思えば、あまりの不条理を憤らずにはいられないのだ。

「実弥さん」
「うん?」
「弟のように思っていると、匡近さんは仰ったんですよね」
「…それを知ったのは遺書だったけどなァ」
「血が繋がっていなくても、匡近さんにとっての実弥さんは大切な弟で、だからこそ実弥さんにこの先を託したんだと思うんです。大切な弟に、しあわせでいて欲しかった。…匡近さんという方が、なんだかうちの父に似ているような気がして。もしもそうなら、父も同じようにしたでしょうから…」

へにゃりと笑って、「何にも知らないのにすみません」と眉尻を下げる名前に、胸がいたく締め付けられた。腕の中で徐々に温度を失う匡近の、掠れた言葉が蘇る。

――俺がいなくなっても……ちゃんと、飯、食えよ。ちゃんと寝て、ちゃんと皆と仲良く…するんだぞ…。
――ちゃんと、お前の…人生を……生きろ、よ。
――しあわせ…に……

名前の父親が命をかけて娘を守ったのと同じように、匡近も俺を実の弟のように思っていたからこそ、俺のしあわせを願ったっていうのか。飯を食え、ちゃんと寝ろ、周りと仲良くしろ。思い返せばまるで兄のような言葉ばかりを、あいつは血反吐を吐きながらも必死に紡いで息を引き取った。
ふいに頬を伝った生温かい雫は、どうやら俺の目から零れたものらしい。気付かれたくなかったってのに、こういう時に限って妙に勘の良い名前の細い手が、俺の両頬をふわりと優しく包み込む。

「実弥さんも、匡近さんのことを言えないくらい優しすぎるから」
「は…、どこがァ…」
「お母様やご弟妹、それから匡近さんのことも、ひとりで全部背負い込むところです。なにひとつ、実弥さんのせいじゃありません。私が保証します」
「……っ、クソ、」

堰を切ったようにぼたぼたと零れる涙は、奥歯を砕けんばかりに噛み締めても、爪が肌に食い込むほど拳を握り締めても止まらない。堪らなくなって名前を引き寄せ腕の中にぎゅうぎゅうに閉じ込めて、華奢な肩口に顔を埋めた。
大事な弟妹たちを助けられなかった。お袋はこの手で殺めた。匡近だって俺がもっとしっかりしていれば、失わずに済んだ。挙句たったひとり生き残ってくれた弟が鬼殺隊に飛び込んできたのも、全部俺の不甲斐なさのせいだ。それなのに、こいつは。

「誰も実弥さんを恨んでなんていません。だからもうひとりで抱え込まないで下さい。そんなこと、お母様たちも匡近さんも、きっと望んでいませんよ」
「…やめろォ、止まんなくなんだろォが…っ」
「っふふ、実弥さんの泣き顔は貴重ですね?」
「クソ、覚えてろよォ…」

情けねえし、格好悪くて仕方ねえ。そうは思っても胸が温かいもので満たされて、知らず知らずのうちに蝕まれていた傷口が徐々に塞がっていくような感覚に、今だけは取り繕わない弱い俺のままでいいかと腹を括った。名前はそれを馬鹿にするでもなく、寧ろどこか嬉しそうに腕の中でくすくす笑っている。男の泣きっ面なんざ見てなにが嬉しいんだか。

「おい、いつまで笑ってんだァ…」
「あっ、すみません、嬉しくて…」
「……屋敷に戻ったら覚悟しとけよォ」
「覚悟?」
「ふ、啼かされる覚悟に決まってんだろ」
「え…、えぇっ!?」

いつの間にか引っ込んだ涙に些か安堵しつつ、気まずさやら気恥ずかしさやらを隠すために軽口を叩く。勿論いつだって抱きたいのは本心なのだが。大袈裟なまでに肩を跳ねさせた名前をくつくつと喉奥で笑いながら、そろそろ日暮れが近いからと腕を緩めて立ち上がった。

「帰るかァ」
「はい、帰りましょう」

――実弥。

「…あ?」

匡近が眠る墓石に背を向け歩き出した刹那、微かに聴こえたひどく懐かしい声。思わず振り返ったが、そこにはただ凛と佇む墓石と、揺れる百日草だけがあるだけだった。

「実弥さん?」
「……なわけねェよなァ。なんでもねェ」

きょとんと小首を傾げる名前にかぶりを振って、小さな手を握って足を踏み出す。
俺はもっと強くならなければならない。何が起きようと必ず、名前の元に帰るために。鬼がいない世の中で、笑い合うために。

――実弥。しあわせになれよ。

百日草が揺れる音はまるで、懐かしい兄弟子の声のようだった。



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