小さな手と大きな手


まるで自分の身体じゃないみたいに、ふわふわと不思議な高揚感に包まれ、心がぽかぽかと温かい。家族になろうと、夫婦になろうと、実弥さんが言ってくれた。いつも与えてもらうばかりで、なにひとつ実弥さんの力になれていない私で本当にいいのかと心苦しくなる一方で、これから先の実弥さんの人生に寄り添うことを許されたような気がして、どうしようもなく嬉しかった。

「帰るかァ」
「…っはい、実弥さん!」

穏やかな表情で差し伸べられた大きな手をぎゅっと握って、浮かんだ涙を空いた手でごしごし拭う。どうやら今日は涙腺が壊れているみたいで、とっても嬉しくて仕方がないのに次から次へと涙が出てしまうのだ。なんだか子供に戻ったようで恥ずかしいから、これは実弥さんが流さない涙の代わりだと思うことにしよう。

「馬ァ鹿、目ェ擦んじゃねェ」
「あう、すみませ…」
「ったく、赤くなったじゃねぇかァ」

ごしごしと乱雑に拭っていた腕をぱしりと掴まれて、顎を持たれ上を向かされる。私の目元を覗き込んだ実弥さんが、眉を顰めて呆れたような声を出した。私はと言えば、実弥さんの端正なお顔が至近距離にあることに落ち着かず、真っ赤になって視線を彷徨わせてしまう。途端に滅紫の瞳がすっと細められ、薄い唇がにやりと弧を描いた。

「ふ、…んな顔してると食っちまうぜェ?」
「えっ、!?だ、だめです…っ胡蝶様の、お部屋ですから…!」
「しゃーねェ、屋敷まで我慢してやらァ」
「はぁ……ッ、んぅ!?」

ほっとして安堵の溜め息をついた刹那、ぐっと腰を引き寄せられ視界いっぱいに実弥さんの顔が広がったと思えば、すぐに唇に重なった柔らかな熱。我慢をするとはなんだったのか、かぷりと噛み付くように重ねられたそれは、唇を啄むように挟んだり、時折熱い舌でぺろりと舐め上げられたり。流石に誰が来るかわからない胡蝶様のお部屋でこんなことをしている場合ではないと、実弥さんの逞しい胸板を押してみるけれどびくともしない。そうしている間に歯列を割って入り込んできた舌に、じんと脳が痺れた気がした。

「っん、……ふぁ、…だ、め…」

上顎を舌先で擦られると身体から力が抜けていく。けれどがっしりと腰に回された腕に抱き留められているから、かろうじて腰が抜けずに済んでいる。舌をにゅるにゅる擦り合わされながらうっすらと目を開けたら、実弥さんはびっくりするほど愛おしそうに私を見つめていて、心臓がぎゅうっと締め付けられた。実弥さんへの想いは底なしなのかもしれない。日ごとに、むしろ毎秒ごとに実弥さんへの愛が大きくなる。そのうち膨らんだ風船のようにはち切れてしまうんじゃないかと思ってしまうくらいに。

「さねみ、さん……すき、…ふ、ぁ」
「ッ、……止まんなくなるから、煽んじゃねェ」

ちゅぷ、と小さな水音を立てて離れていった唇の間に銀糸が伝う。それがぷつりと切れた頃、実弥さんは堪えるように眉を寄せて、困ったように笑った。はふはふ息を繰り返しながら、ぼーっと実弥さんを見つめていたら、目に付いたのは薄い下唇に光る唾液。気が付けば吸い寄せられるように、舌を出してぺろりとそれを舐めとっていた。刹那ぎょっと見開かれる瞳。

「……な、おま、」
「あっ、え、…あ、あれ?」
「ハァァ〜〜〜……、帰るぞォ、一刻も早く」
「っえ、わぁ!」

突然もの凄く大きくて長くてそれはそれは深ぁい溜め息を吐き出した実弥さんが、私の腕をぐっと引いて部屋の入口まで歩き出してしまう。甘すぎる口吸いの余韻でふらつきながら懸命に後を追って部屋を出たところで、胡蝶様と擦れ違ったけれど実弥さんは足を止める様子もない。しかし代わりに呼び止めたのは胡蝶様だった。

「不死川さん」
「あァ…?」
「名前さんが可愛くて仕方ないのはわかりますが、場所を弁えてくださいね」
「……見てんじゃねェよ」
「私の部屋ですから」

にっこりと優しい笑みを浮かべる胡蝶様だけれど、そのこめかみには一筋の青筋が浮いている。交わされる会話の内容に一瞬首を傾げて、けれどもすぐに意味を理解して真っ赤になって慌てる。見られていたのだ、胡蝶様に。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、あたふたと挙動不審になっていれば、胡蝶様が私に向かって首を振った。

「名前さんはお気になさらず。全ては不死川さんが悪いんですから。ね?」
「っは、知らねぇなァ」
「愛想を尽かされても知りませんから。名前さん、不死川さんをどうか宜しくお願いしますね」
「あ、は、はいっ…」

それだけ言うとひらひら手を振って部屋に入っていってしまった胡蝶様を呆然と見つめる。そういえば、同じようなことをこの間煉獄様にも言われたのだった。私の方が実弥さんに面倒を見ていただいている側なのに、とその時も思ったのだけれど。

「名前?どうしたァ?」
「あ、いえ!なんでもありません。それより実弥さん、もうお外ではあんなことしませんからね…!」
「あ?なら無闇に煽らねぇこったなァ」
「なっ、あ、煽ってないですっ!」

くつくつ笑いながらまた歩き出す実弥さんにむっとしながらも、握られた手が暖かくて優しくてすぐに頬が緩んでしまう。本当に狡い人なのだ、実弥さんは。
廊下を歩いていれば、一室から漏れる賑やかな声にはっとして足を止める。

「実弥さん、待ってください」
「ん?」
「あの、少しだけここで待っていてもらえますか…?」
「……竈門のとこに行くのか」

実弥さんはすぐに私がしようとしていることを理解したようで、僅かに固い表情で振り返った。こくりと頷いて、実弥さんを真っ直ぐ見つめる。

「…はい。先ほどの無礼をお詫びしなければいけません」
「………そうかィ。わかった、行ってこい」

なにか言いたげに一度視線を外した実弥さんが、ふと息を吐いて穏やかに笑った。ぽんぽんと私の頭を撫ぜて、ここで待ってると漆喰の壁に寄り掛かる。
実弥さんとしては、やっぱり竈門様に対して思うことが沢山あるんだろう。私も同じ気持ちだったからこそ、つい詰め寄ってしまったけれど、彼には彼の思いが必ずあるはずで、何も知らない私が踏み躙っていいものではない。一言だけでもお詫びをしなければと、深呼吸をしてその部屋の扉に手を掛けた。

「失礼します…」
「あ、さっきの…!」

扉を開いた途端に、並んだベッドの真ん中に横たわった竈門様が声を上げた。静かに扉を閉めて、おずおずと足を進め頭を下げようとした刹那、存外明るく優しい声がかけられた。

「お身体はもう大丈夫ですか?いきなり倒れたから心配してたんです」
「えっ……あ、はい、もう平気です。あの、その節は本当に申し訳ございませんでした…!」

まさか気遣いの言葉をかけてもらえるとは思わず、僅かに狼狽えながら慌てて深く頭を垂れる。その場にいた竈門様以外のおふたりがそれぞれ驚きの声を上げた。

「ちょっ、頭を上げてください!」
「いえ、失礼な物言いをしたのは私です。何も知らずに、勝手なことばかり言ってしまって本当にすみません…!」
「大丈夫ですから!顔を上げてください、ね?」

竈門様の焦ったような声に釣られて、そろりと頭を上げればあったのは困ったような顔。けれどすぐにふわりと笑って、竈門様は芯の通った口調で話し始めた。

「俺、人より鼻がいいんです」
「…え?」
「だから相手の匂いがわかるんです。あなたからは、優しくて真綿のような匂いがしました。不死川さんのことが好きで仕方ないって匂いです」
「っ、え、!?」

なんだろう、なんだかもの凄く恥ずかしいことを言われている気がする。心うちを読まれてしまっているような、そんな気恥しさを覚えて顔に熱が集まる。

「あなたが不死川さんのために怒ってるんだってことは、痛いほどわかりました。……けど、すいません。やっぱり俺はあの人をすぐには許せない」
「……そう、ですか」
「たったひとりの妹なんです。今は訳あって鬼になってるけど、でも人を襲ったことは一度だってない。いつか必ず、人間に戻してみせます」
「人間に…?」
「はい、そのために俺は鬼殺隊に入りました。不死川さんがなにを抱えているかは俺も知りません。でも妹を傷付けたことは、やっぱり許せません」

すみません、と言って頭を掻きながら苦笑して見せた竈門様に、どうしてか胸が切なく締め付けられた。どこか似ているのだ、実弥さんと竈門様は。大切なものを守るために、命懸けで刃を振るっている。ただやり方、生き方がまったく違うだけで、根本にあるものは一緒なのだ。悲しいくらいに優しい人たち。どうしてこんな人たちが苦しまないといけないのだろう。そう思えば胸が苦しくて痛くて堪らない。

「竈門様…、きっと、妹様を人間に戻してくださいね」
「!……、はい、ありがとうございます!」

竈門様が嬉しそうに笑顔を見せた刹那、ぱたりと部屋の隅から小さな音が聞こえた。そしてぱたぱたと足音が聞こえ、ふわりと頭を小さな手が撫ぜた。はっとして振り向けば、そこにいたのは竹筒を咥えた小さな女の子。

「…もしかして、」
「こら、禰豆子!いきなり失礼だろ!」

ああ、そうか、この子が竈門様の妹様なんだ。鬼とは思えないほど、その手は小さく温かい。まるで大丈夫だよと励まされているような気持ちになって、私はその子の元へしゃがみ込み、視線を合わせた。

「禰豆子、ちゃん?」
「むぅ」
「…優しいお兄ちゃんだね。きっと、人間に戻ってね」
「むー!」

言葉が通じたのかはわからないけれど、微かに禰豆子ちゃんが微笑んだ気がして、小さな頭をゆっくり撫ぜて立ち上がる。最後に竈門様に一礼をして、その部屋にいる方々に見送られながら扉を開けた。どうか、この優しい人たちにこれ以上の災厄が降りかかりませんように。そう、願いながら。
それにしてもお部屋にいた猪の被り物の方はなんだったのかしら。もしもまた会う機会があれば聞いてみようかしら、と首を傾げていれば、ぽんと頭に乗せられた覚えのある大きな手。大好きな、実弥さんの手。自然と私は笑顔になっていて、実弥さんの悪戯な手がむにむにと緩んだ頬を摘んだ。

「いひゃい…!」
「ふは、相変わらず大福みてぇだなァ。おら、帰んぞォ」
「むっ、酷い!あ、今日の夕餉は秋刀魚ですよ!」
「焦がすなよ」
「もうっ、焦がしませんよ!」
「ふ、どうだかなァ」

自然に手を取られ指を絡めて、ふたりで笑いながら蝶屋敷を後にする。
私と実弥さんの新たな生活が、ここから始まろうとしていた。病める時も健やかなる時も、この世で一番優しくて愛おしいこの人と、必ず添い遂げようと秋晴れに誓って。

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