しあわせとは


朝まだきに蝶屋敷に赴けば、庭先で薬草を摘んでいた胡蝶様は大層驚いた顔をされた。たったひとりで、約束も前触れもなくここまで来てしまったのだから無理はない。けれども胡蝶様は私を咎めることなどなく、すぐに何かを理解された様子でにっこりと穏やかに笑って迎えて下さったのだ。

「不死川さんのことですね?」
「…はい」

胡蝶様はまるで確信していたかのようにそう切り出したので、私も静かに頷く。そうして胡蝶様のお部屋で、過日一体何があったのかを聞いた。鬼を連れた平隊士の審問のため、緊急の会議が行われたこと。その際に実弥さんと平隊士の間にいざこざが起きたこと。そして、そのやり取りを胡蝶様の口から聞いた刹那、私は無我夢中で部屋を飛び出しその隊士の方が療養なさっているという部屋に飛び込んでいた。

"善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんてやめてしまえ!"

ベッドに横になっていた件の隊士の方は、目をまんまるくして飛び込んできた私を見据えた。とても優しそうな少年だった。純粋で、真っ直ぐで、正直で。そんなまるで陽だまりのような少年を目にした途端、ぼろぼろと涙が零れて木張りの床に落ちた。

「えっ、ど、どなたですか?大丈夫ですか…?」
「………って、……」
「え?」
「……実弥さんにっ、実弥さんに謝ってください…!!実弥さんを悪く言わないで!謝ってください…っ!!!」
「名前さん!落ち着いてください!」

慌てて部屋に入ってきた胡蝶様に肩を掴まれても、私の口からは壊れた機械のように同じ言葉だけが零れ落ちた。目の前の少年がぽかんと固まって、困惑したように視線を彷徨わせるのも構わず、実弥さんに謝ってと泣き叫び続ける。止められなかった。止める方法がわからなかった。鬼殺隊とは無関係の部外者が、首を突っ込むべきじゃないことは百も承知だったけれど、堰を切ったように零れ落ちる涙は床に小さな水溜りを作る。

実弥さんは鬼になったお母さんを自分の手で殺めてしまったことを、ずっとずっと業のように背負ってきた。たったひとりで、押し潰されそうになりながらも、それでも前を向いて戦ってきたんだ。

"なァ…、良い鬼ってなんだァ…?"

昨日の実弥さんの、温度のない声が脳裏に響いた。もしもこの人が連れている鬼が人を襲わない"良い鬼"なら、実弥さんのお母さんは実の子を襲った悪い鬼になるの?
最愛の母を殺めるというのは、想像を絶するほどの苦しみだろう。もしも私の父や母が鬼になっていたら、私はきっと実弥さんのようにはできない。何もできずに殺され、人を傷つける肉親を見ているだけしかできない。でも実弥さんは、兄弟を守るために悲しみの刃を振るった。どれだけ苦しかっただろう、どれだけ辛かっただろう。そうやって全部ひとりで背負って、時には自分の心や身体までも傷付けて、それでも前だけを見据えて歩いてきた人なのだ。そんなこの世で一番優しすぎるほど優しい人に、何も知らずに無慈悲な言葉をかけて欲しくなかった。これまで必死に心を奮い立たせて振るってきた刃を、真っ向から否定するような言葉を決してかけて欲しくはなかったのだ。

「実弥さんを悪く言わないで…!実弥さんは、実弥さんは…ッ」
「っ名前さん…!?」

あぁ、泣き叫びすぎたかもしれない。酸素が脳に上手く回らなくなって、呼吸の感覚が自然と短くなる。吸っても吸っても空気が薄い。胡蝶様が焦ったように私の名前を呼ぶのが遠くに聞こえる。真っ暗な闇に引き摺り込まれるように、私は意識を手放した───。


***


目が覚めると、昨晩しっかりと腕に抱き留めていたはずの名前の姿がどこにも無かった。朝餉を拵えに行ったのだろうかと襖を開けても、人の気配は微塵も感じられない。ざわざわと胸が騒ぎ出すのを見計らったかのように、自室の前の縁側に鴉が降り立った。

「名前ハー!蝶屋敷イィーーー!!」
「あァ…!?蝶屋敷だと?ひとりで行ったのかァ!?」
「早朝ニィー!出テ行ッターーー!!」
「なんだってまた…。テメェはなんで止めなかったァ、さねま…る……、ッチ…!」

クソ、名前の口ぶりが移った。無意識のうちにおかしな呼び名で鴉を呼んでしまい、鴉はといえば鳥のくせににやにやと小さな眼を細めるものだから青筋が浮き立つ。苛立ちを腹の中に抱えながら素早く隊服に着替え、羽織を纏って屋敷を飛び出した。
名前が蝶屋敷に向かったというのであれば、それは十中八九俺のせいだろう。昨夜俺の様子をかなり気にしていた風であったから、名前のことだから自分の目で、耳で、確かめようと思い立ったのかもしれない。これは俺の問題であって、名前が気に病むことなど何ひとつないというのに。
逸る気を抑えながら蝶屋敷に辿り着けば、どうやら俺が来ることは予想がついていたのか、胡蝶の継子が玄関先で感情のない笑みを浮かべて立っていた。

「風柱様、お探しの方は師範の部屋にいます」
「そうかィ、手間かけたなァ」

手短に礼を伝え、擦れ違うように屋敷の中へと足を踏み入れる。途中、がやがやと煩い声が漏れる一室があった。聞き覚えのある声に苛立ちが募る。竈門といっただろうか、昨日の鬼を連れた隊士だ。そういや蝶屋敷で治療をすると胡蝶が言っていたか。そんなことを頭の片隅に思い浮かべながら、胡蝶の部屋まで風を切るように走る。扉を強く押せば、存外大きな音を立てて壁と扉がぶつかった。

「…名前さんが寝ています、お静かに」
「名前…!」

簡易ベッドの上に横たわる名前の傍に駆け寄り、顔を覗き込む。すやすやと寝息を立てる彼女にほっと息をつきながらも、目に入ったのは頬に残る涙の跡。泣いたのか?何があった?まさか、誰かに何かされたのか。腹の奥がぐるぐると気持ちの悪い仄暗い感情でいっぱいになり、気が付けば強く噛み締めた奥歯の隙間から、ふぅふぅと猛々しい吐息が漏れていた。

「不死川さん、落ち着いてください」
「…胡蝶。何があったァ…」
「昨日の会議での一件を、名前さんにお話しました。そうしたら名前さんは竈門君のところへ行って、何度も何度も泣きながら彼に請いました」
「、はァ……?」
「なんて言ったと思います?」

胡蝶がそれまで浮かべていた笑みをすっと消して、俺を真っ直ぐに見据えた。

「"実弥さんを悪く言わないで。実弥さんに謝ってください"。……そう、何度も」
「ッ、……この、馬鹿がァ…」
「私は少し席を外しますね。…不死川さん、名前さんはあなたが思っているより、ずっと強い方ですよ」

そう言い残して部屋を出て行った胡蝶を一瞥し、椅子を引いてベッドの横へ腰掛け、名前の頬に残る涙の跡を指で辿る。触れたことで名前の長い睫毛が揺れ、ゆっくりと開かれた瞼から覗いた大きな黒目が、俺をしっかりと捉えた。

「実弥、さん…」
「迎えに来た」
「実弥さん…っ」

再びぶわりと目の縁に涙が浮かび、重力に従ってぽろぽろと横へ流れ落ちていくそれを親指で拭ってやった。思わず浮かんだ苦笑に、名前は顔を歪ませてしゃくりあげる。

「ふ、なんでおまえが泣くんだァ?」
「…っ実弥さんが、泣かないから…!」
「あァ?」
「実弥さんが泣かないからっ…、辛いって、言わないから…!実弥さんは何も悪くないのに…、なんでっ、ぐす、なんで、あんなこと言われなきゃいけないんですかぁ…!」

嗚咽混じりで必死に紡ぎ出されたその言葉に、俺は目をまるくして固まるほかなかった。俺のために泣いて、名前にとっては見ず知らずの相手に立ち向かったのか。そう理解した瞬間、俺はベッドに横たわる名前の小さな頭を抱き抱えるように強く強く腕を回していた。羽織にぎゅっとしがみついて泣きじゃくる名前に、胸がじんわりと温かくなって、そしてどうしようもなく堪らない気持ちになった。まったく覚えのない感情だった。ふんわりと真綿で身体を包み込まれているような、そんな不思議な感覚だった。

「馬鹿だなァ…てめぇは…」

本当に、馬鹿だ。そして名前以上に馬鹿なのは俺だ。名前は弱くて、俺が守ってやらなければならない存在だと思い込んでいた。
最愛の家族を失って、俺を見捨てずに弟だと笑ってくれた匡近を失って。もう大切なものは、この世にただひとつ残された実の弟ひとつだけでいいと心に決めて。けれど名前と出会って、再び己の命よりも大切で愛おしい存在となった名前に、俺は支えられて人として生きてこられたのだ。昨晩だってそうだったじゃねぇか。助けられたのは、俺のほうだ。勝手に荒んで、八つ当たりのように抱いた俺の手を、名前は一度も離すことはなかった。
大切に大切に守ってきたはずが、いつの間にか俺のほうが守られていたのか。これをしあわせと呼ばずして、なんと呼べばいいのだろう。

「…おまえがいりゃァ、辛いことなんてねぇよ」
「実弥さん…」
「名前、本当の家族になってくれるか」
「…え?」

抱き締めていた腕をそっと緩めて、顔を覗き込んで目を合わせる。きょとんと大きな瞳を瞬かせる名前に、触れるだけの口付けを落として、そして自然と浮かんだ笑顔で口を開く。

「祝言、あげるかァ」
「……っ、さねみ、さん…」
「ふ、泣きすぎだろォ」
「だって…だってぇ……!」

また大粒の涙を零しながら首がもげそうになるくらいこくこくと頷く名前を、俺はぎゅうぎゅうと抱き締めた。
俺の分まで泣いて、心うちを全部隠さずぶちまけて、そうして俺の仄暗い感情なんてどこかへ吹き飛ばしてしまう名前が愛おしくて仕方ない。
おまえは、俺が泣かないからと言ったけどなァ…。名前が傍にいるだけで、今もしあわせで泣きたくなっているだなんて、知らねぇだろうな。みっともねぇから、口が裂けても言わねぇけどよォ。

匡近が生きていたら、あの鬱陶しいほど優しく明るい笑顔で祝福してくれただろうか。彼が死に際に望んだように、俺は俺の人生をちゃんと生きていると、今ならば少しだけ言えるような気がした。

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