ひとりぼっちは寂しいから


その日、実弥さんは朝から緊急の柱合会議に出かけていた。鴉のさねまるさんが招集を伝え、実弥さんはすぐに羽織を纏うと少し出てくると言い残し、いつもの穏やかな笑みを見せて屋敷を出ていった。そして私もいつものように、笑顔で彼を送り出した。
昼時を過ぎても実弥さんは戻らなかった。それまでは雲ひとつない快晴が続いていたというのに、未の刻を過ぎた辺りからどんよりと厚い雲が空を覆い、仕舞いには雷鳴が轟き始めた。雷雨は苦手だ。母と父を同時に失ったあの夜のことを、どうしても思い出してしまうから。ひとりきりで広い屋敷にいることがなんだか無性に心細くなって、かたかたと震える手をぎゅっと握り締め、気を紛らわそうと夕餉の支度をするために厨へ向かう。縁側を通った際、丁度ぽつぽつと降り始めた雨粒が庭の土を色濃く染めた。次第に雨脚は強まり、やがてざあざあと篠突く雨に変わる。実弥さんは大丈夫かしら。そんなことを思った途端、上がり口のほうからかたりと小さな物音が聞こえてきた。慌てて上がり口まで小走りで向かえば、そこにはずぶ濡れで立ち竦む実弥さんがいた。

「実弥さん!?大変!風邪を召されてしまいます、すぐに手拭いとお着替えを……。実弥さん?」

実弥さんは、俯いたまま何も喋らない。ただただ黙り込んで、そこに立っている。いつもとまるで様子が違う彼に、どうしようもなく焦燥感を覚えながら段差を降りてすぐ傍まで寄って、そうして気がついたのは、ずぶ濡れの左腕から滴る鮮血だった。雨水と混じって滲むような赤が腕を伝い、指先まで真っ赤に染まって酷く痛々しい。

「ど、どうしたんですか、そのお怪我…!」
「……なんでもねェ」
「なんでもないって…。とにかく早く手当てしましょう、ね?」

やっぱり返事も、まして頷きもしない実弥さんの右腕を取ってぐいぐいと引く。床に血が零れるだとか、雨水で水浸しになってしまうだとか、そんなことはどうでも良かった。どうしたんですか、実弥さん。何があったんですか。聞きたいことは山ほどあるのに、何も聞くなと、纏う空気にそう牽制された気がした。
自室へと半ば強引に実弥さんを押し込み、手拭いと水桶、救急箱を用意するために走り回る。お目当てのものを全て抱えて戻っても、実弥さんは未だに俯いたままだった。傷ついた左腕にそっと手を伸ばす。それはどう見ても刀傷で、その傷の入り方や位置から嫌でもわかってしまった。ああ、これは実弥さんがご自分でつけられた傷だ、と。

「沁みるかもしれません、少し我慢してくださいね…」

濡らした手拭いで、血で汚れた腕を清めていく。傷口には触れないように細心の注意を払いながらある程度汚れが落とせたところで、救急箱の中から消毒液と脱脂綿を取り出し、傷口にちょんちょんと軽く当てた。紫水晶のような髪から、畳にぽたぽたと雫が垂れる音だけが響く。

「縫合は改めて胡蝶様のところへ行った方がいいかもしれません。今は止血のために繃帯だけ巻いておきますね」
「…あァ」

漸く返ってきた相槌は、仄暗く、そしてどこか物悲しかった。胸が痛くなりながら繃帯を手にとって傷口を覆うように巻いていく。

「………なァ」
「はい?」

繃帯の布ずれの音が微かに聞こえる中、唐突に色のない声が降って来た。それは確かに私への呼びかけであったけれども、独り言のようにも思えて、私は顔を上げず手も止めずに聞き返す。どうしてかはわからない。けれどそうしたほうがいいと思えたのだ。

「───鬼に、良いも悪いもあるのか」
「……え?」

思わず、動かしていた手がぴたりと止まる。そろりと顔を上げれば、実弥さんは感情の読み取れない瞳で遠くを見ていた。ぎしぎしと嫌な音がどこからともなく聴こえた気がした。これは、心が軋む音だ。この人の心が泣いている。喉がからからに乾いて、咄嗟に声が出なくなってしまった。そうしている間にも薄い唇が開かれ、やっぱり温度のない声が紡がれる。

「鬼を連れた隊士がいる」
「…鬼、を……?」
「人を喰わねェ"良い鬼"なんだとよ。なァ……良い鬼ってなんだァ…?」

ゆっくりと私を見据えた実弥さんと、漸く目が合った。実弥さんは哀しそうに、自嘲するように、微かに笑った。滅紫の瞳に映る私は、酷く狼狽えていた。

「……悪ィ、おかしな話しちまったな。忘れろォ。手当て、ありがとな」

ぽんぽん、と大きくて優しい手が頭に乗せられる。そのまま立ち上がり私の部屋を出ていく実弥さんの後ろ姿は、どうしてか小さな子供のように見えた。返す言葉がなにも見つからない私は、畳に縫い付けられたように動くことさえ出来なかった。
ただ、"良い鬼"という言葉だけが、ぐるぐると頭の中で意味もなく木霊していた───。


***


「実弥さん…」

湯浴みの後、実弥さんの自室へ襖越しに声を掛ける。行灯の明かりが洩れているから、きっとまだ起きているのだろう。初めて閨事をした日から、鬼狩りがない夜は実弥さんの部屋で朝を迎えるようになっていた。
夕刻前にあんなことがあってからも、実弥さんは何事もなかったかのように至極いつも通りだった。けれど瞳の奥には仄暗い感情が確かにあって、そしてなにも出来ない私は、私自身に嫌気がさしていた。実弥さんの力になりたい、支えになりたい。そう強く思っているはずなのに、面と向かって聞く勇気もない私はなんて意気地無しなんだろう。それならせめて、実弥さんのお傍にいよう。夜が明けるまでずうっとお傍にいて、実弥さんは決してひとりぼっちじゃないんだよって、それだけは伝えたいのだ。父の亡骸に縋り付いていたひとりぼっちの私に、実弥さんがしてくれたように。

「実弥さん、入ってもいいですか…?」
「…悪ィ、今日はおまえも自分の部屋で…、」
「開けますね」
「あ…?おい、」

実弥さんの言葉を遮るように襖を開ければ、実弥さんはどうやら刀の手入れの最中だったようで、刀身を鞘に収め拭い紙を脇に置くと、溜息混じりに立ち上がって私の元まで歩いてきた。どこか困ったような表情で私を見下ろし、優しく、諭すような声色で言葉を紡ぐ。

「名前、悪いことは言わねぇから、部屋に戻れ」
「どうしてですか…?」
「……酷くしたくねェ」

堪えるような声に顔を上げれば、実弥さんの瞳の奥には仄暗く揺らめく爛々とした情欲が浮かんでいた。苛立ちや困惑、怒り、哀しみ、そんなものがごちゃ混ぜになった複雑な色だった。ぎゅうっと胸を鷲掴みにされたように苦しくなって、思うよりも早く、私は実弥さんに抱き着いていた。びくりと強ばった実弥さんは、ぐっと息を呑んで、私の肩を掴んで引き離そうとするけれど決して離すまいと強くしがみついて、ぶんぶんと首を振る。

「ッ、名前、」
「嫌です!酷くしてもいいから…!実弥さんをひとりにはしません、傍にいさせてください…!」
「……、てめぇは、ほんとに…!」

決めたのだ。決してひとりにしないと。我慢なんてしなくていい、実弥さんの好きにしていい。だって私は実弥さんが大好きで、実弥さんがなによりも大切なんだ。
そんなことを拙い言葉で振り絞るように言えば、大きな舌打ちとともに身体をふわりと持ち上げられ、ぴしゃりと襖が閉じられた。すぐさま布団の上へと下ろされ、実弥さんが覆い被さってくる。

「ずっと傍にいます。実弥さんになら、なにをされてもいいです」
「クソ……、もう喋んなァ…!」
「っん、……んぅ、!」

微笑んで傷痕が残る頬にそっと手を添えたら、苦しげに眉が寄せられ、次の瞬間には噛み付くように唇を塞がれた。性急に割り入ってきた舌に懸命に応えていれば、荒々しい手つきで夜着の浴衣が肌蹴させられる。
少しでも実弥さんの苦しみや哀しみが和らぎますように。そう願いながら、ぶつけられる痛いほどの熱情に身を委ねた。


***


明け暗れ時、まだ野鳥も囀らない頃にそっと実弥さんの腕を抜け出す。静かに寝息をたてる常より幼い顔つきの彼を見て、ほっと胸をなで下ろした。良かった、ゆっくり寝られたみたいだ。身体が僅かに重怠いけれど、今のうちに支度をして屋敷を出なければ。
昨日、私は確信した。実弥さんの心を縛るなにか、恐らく"良い鬼"のことを、きっと私も知らなければならない。

「実弥さん、行ってきます」

すやすやと眠る実弥さんに小さく声をかけ、余所行きの着物に身を包んで、私は風柱邸を後にした───。

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