やさしい日和


「あァ?蝶屋敷に行きたい?」

縁側で鍛錬の汗を拭っていた実弥さんが、振り返って眉を顰める。隣に立っていたきよちゃんは、実弥さんのその表情を見た途端小さく悲鳴を上げて私の後ろに隠れてしまった。
解熱してからまる二日が経ち、胡蝶様のお薬ときよちゃんの看病のお陰で身体の調子も元どおりになった。その間きよちゃんとはすっかり打ち解けて仲良しになったので、鬼殺隊の中での実弥さんの話も聞いた。どうやら実弥さんは隊の方々に恐れられているらしく、私としては優しい実弥さんしか知らないので俄には信じがたかったけれど、きよちゃんの反応からすると真実のようだ。実弥さん、とっても優しいのになぁ。お顔がほんの少し怖いからかしら。そんなことを考えていれば、実弥さんは溜め息をひとつ零して口を開いた。

「病み上がりだろォ。まだ暫く大人しくしとけ」
「大丈夫ですよ。ほら、もうこの通りぴんぴんしてますから!」

手に持った廊下の水拭き用の木桶を上げたり下げたりして見せれば、実弥さんは呆れた様子で立ち上がると私の手から木桶を取り上げた。

「あっ」
「そのうちぶちまけそうで怖ェんだよ」
「むぅ、そんなことしませんよ」
「ふ、どうだかなァ。…で?なんで蝶屋敷なんざ行く必要があんだよ」
「それは勿論胡蝶様にお薬のお礼をお伝えするためです!きよちゃんにも沢山お世話になってしまいましたし、ね?」

未だに背後に隠れているきよちゃんに同意を促すと、きよちゃんは震えながら小さく頷いた。なんでも本来蝶屋敷というところは秘匿になっていて、鬼殺隊の関係者以外の人間が足を踏み入れることは叶わないらしい。けれどきよちゃん曰く、実弥さんと同居している私であればと、胡蝶様が歓迎して下さるようで。薬から何から沢山お世話になってしまった手前、しっかりお礼をお伝えしなければ私の気も済まないのだ。

「それに、どうしても…」
「ん?」
「すみさんとなほさんにお会いしてみたいんです!」
「は?…あー、三人娘か……」
「せっかくきよちゃんと仲良くなれたので…。やっぱりだめ、ですか…?」
「……ハァ…。わかった。顔洗って着替えてくらァ。ちょっと待ってろ」

そう言うや否やぽんぽんと私の頭に手を置いて自室へと向かってしまった実弥さんに、私ときよちゃんは瞬きを繰り返しながら顔を見合わせた。

「えぇっと…実弥さんも行くのでしょうか?」
「そ、そうみたいですね…」

実弥さんも実は蝶屋敷に用事があったのかしら。そう仰っていただければ良かったのに。
暫くして、着流しから隊服に羽織りを纏った姿に着替えた実弥さんに連れられ、うきうきと弾むような心持ちで蝶屋敷へと向かった。


***


「わっ、わぁ〜!すごい、すごいですねきよちゃん!」
「あぁっ、名前さん、あまり飛び跳ねると危ないですよぉ!」

蝶屋敷とは言い得て妙なもので、色とりどりの草花に囲まれた洋風混じりの屋敷の敷地内には、沢山の蝶が優雅に飛び回っている。その現実離れした美しさに思わずぴょんぴょん飛び跳ねていれば、きよちゃんにそれとなく叱られてしまった。年甲斐もなくはしゃいでしまったことに気恥しさを覚えて、えへへと力なく笑う。けれどやっぱり目を見張るほどの絶景に首をぐるぐる回してきょろきょろと辺りを見回していると。

「コラ、危ねぇから落ち着けェ」
「あぅ!…す、すみません…」

実弥さんの大きな手にがしりと頭を押さえられて、身動きがとれなくなってしまった。しゅんとしながら謝れば、実弥さんは小さく笑って私の耳元に顔を寄せた。

「外であんま可愛いことすんな。他の奴に見せたくねェ」
「…ッ、!?」

ぼん、と音が出るくらい急に顔に熱が集まって、ぎょっとしながら実弥さんを見上げると、悔しいほど格好良くにやりと口角が上げられた。ばくばくと心臓が早鐘を打って、ぎゅうっと内側から誰かに握り締められているような苦しさを覚える。勿論良い意味で、だけれど。

「もうっ……心臓がもたないです…」
「ふ、懲りたら大人しくしとくことだなァ。ほら、胡蝶んとこ行くんだろォ」
「あ、はい!それじゃあきよちゃん、胡蝶様にご挨拶したら顔を出しますね」
「わかりました。すみとなほにも伝えておきます」

実弥に自然に腕を取られ、そのまま私を引くように歩き出してしまうので、慌ててきよちゃんに振り返れば、きよちゃんはとても微笑ましいものを見るような表情で手を振ってくれる。今しがたの実弥さんとのやり取りを見てのものだと気付けば、なんだか恥ずかしくて胸がむずむずとした。

連れられた一室を前に、実弥さんは声を掛けることもなく堂々と扉を開けてずかずかと中へ入ってしまうものだから、僅かに躊躇しながらも後を追って中へ入らせてもらう。白を基調とした室内で、薬品の独特な匂いがふわりと鼻腔をつく。部屋の奥で椅子に腰掛ける胡蝶様がくるりと振り返って、実弥さんの姿を目に留めた刹那、優しく穏やかな微笑みはそのままに、ほんの少しぴくりと眉を動かした。

「まったく、超がつく過保護ですねぇ…」
「…あァ?」
「こんにちは、胡蝶様」
「名前さん、ようこそ蝶屋敷へ。わざわざご足労くださってありがとうございます」
「いえ、とんでもございません!胡蝶様のお薬のお陰で風病もすぐ楽になりました。その節は本当にお世話になりました」
「それはなによりです。お元気になられたようで安心しました。不死川さんに無理はさせられてませんか?」

心配そうに、けれど僅かに愉しげに尋ねられた問いに首を傾げる。なんだか言葉どおりではなく他意が含まれているような気がして、実弥さんを見上げればふいっと視線が逸らされてしまった。さらによく分からなくなったけれど、胡蝶様に向き直ってふるふると首を振る。

「無理などまったく。むしろ沢山お世話していただきましたよ?」
「そうですか、それなら良かった。ちゃあんと堪えたようですね、不死川さん」
「胡蝶ォ……てめぇ余計なこと言ってんじゃねェ…」

びきびきと青筋を浮き立てて、それはもう怖いお顔をした実弥さんが地の底を這いずるような低い声を出した。話が読めずに首を傾げる私を他所に、ふたりの間には剣呑な空気が流れ始める。けれどもそれを、突然凛とした大きな声が切り裂いた。

「胡蝶!繃帯をもらいたい!予備を切らしてしまった!」

びりびりと空気が震えるほどの声量に思わず肩がびくりと跳ねて、弾かれるように声がしたほうへ振り向けば、室内に入ってきたのはぱっと目を引く向日葵色の長髪の男性だった。毛先は燃えるような朱色で、隊服を纏っているからこの方も鬼殺隊なのだろう。

「チッ……うるせぇのが来た…」
「煉獄さん、寝ている患者もいますのでもう少しお静かに」
「あぁ、配慮に欠けていたな、すまなかった!不死川も来ていたのか。むっ、よもや君は!」
「えっ?」

怒涛の喋り口調に圧倒されていれば、力強い朱色の瞳が私を捉えて、ぱあっと一層輝きを増した。目の前にずいと身を乗り出してきた煉獄様と呼ばれた方が、がしっと私の両肩を掴む。あまりの力強さに目を丸くして固まっていれば、実弥さんが煉獄様の腕を掴んで引き剥がした。

「触んな」
「む!やはりそうか!君が噂の不死川の情人だな!噂に違わずえらく別嬪なお嬢さんじゃないか!」
「えっ、え、噂?あっ、すみません、名乗り遅れました。名前と申します。実弥さんのお屋敷に居候させていただいております!」
「名前さんか。俺は煉獄杏寿郎だ!不死川や胡蝶と同じく鬼殺隊で柱を勤めている。宜しく頼む!」

差し出された手に自分のそれを重ねれば、ぎゅっと強く握り返された。なんて人懐っこく明るい方なのだろう。声は鼓膜に響くほど大きくて吃驚するけれど。まるで太陽のような人だと思いながら、深く頭を垂れてご挨拶する。握られていた手がぱっと離れていく。それにしても噂とはなんだろう、なんて頭の片隅で考えていれば、胡蝶様が訳を話してくれた。

「不死川さんが名前さんを廓から身請けして屋敷に連れ帰ったことは鬼殺隊の中でも噂になっているんですよ。とてもお綺麗な佳人を、あの泣く子も黙る風柱が目に入れても痛くないほど可愛がっていると」
「えぇっ!?」
「根も葉もない噂かと思っていたがあながち間違いでもなかったようだな!」
「ッ、宇髄の野郎ォ…殺す……」

背後に立つ実弥さんからもの凄く物騒な言葉が聞こえた気がするけれど、なるほど、宇髄様が広めたのか。胡蝶様が発した"あの泣く子も黙る風柱"というのは実弥さんのことで違いなさそうで、やっぱり鬼殺隊の中では実弥さんは恐れられる存在であることが窺い知れた。けれども胡蝶様や煉獄様の様子を見ると、同僚と言うだけあってとても親しい仲に思える。それが羨ましくもあり、同時に嬉しくもあった。本当の実弥さんをちゃんと知ってくれている人がいることが、なんだかとても嬉しかったのだ。

「実弥さん」
「どうしたァ?」
「積もるお話もあるかと思いますので、きよちゃんのところへ行ってきますね」
「別に話はねぇが…、わかった。後で迎えにいく」
「はい!では胡蝶様、煉獄様、失礼いたします」
「うむ、また会おう!」
「名前さん、またいつでもいらして下さいね」

暖かいお言葉が嬉しくて、微笑んで頭を下げる。その場に残った御三方に見送られ、ほっこりとした気持ちを抱えて胡蝶様のお部屋を後にした。こうして実弥さんが日々身を置く鬼殺隊の方々とお会いするというのは、実弥さんの生活の一部に立ち入ることを許されたようで嬉しい。いつも優しく穏やかに包み込んでくれる実弥さんも大好きだけれど、気を許したお仲間の方々と戯れる実弥さんも新鮮で、なんだかふたつもみっつも得をした気分になる。思わず弾むような足取りになったまま、私は約束どおりきよちゃんの元へ向かった。

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