けだるい情事の後。
ハンスはしなやかな動きで、シャツを羽織る。先程までの、情熱的な愛撫が嘘のように、彼の瞳は冷めていた。
ネクタイを締める。その手の動きが酷く…そう、酷く私をそそらせるのに。
「仕度をしなさい」
またあの、冷徹な声。ついさっきまで、その声は何度も何度も……私の名前を呼んだ。甘く、切ない声で――。
「わかったわ……」
一瞬だけ、縛めを外される。そんなことをしなくても、私にはもう……逃げることは出来ないのに。ハンス、貴方からは……。
気怠い身体に鞭を打って、何とか身繕いをする私を、ハンスはじっと見てきた。そのヘーゼルの瞳からは、なにもうかがい知ることは出来そうもなかった。
飛ばされたボタンがあるので、シャツは上までボタンが留められないけれど…それでも何とか留められる場所までシャツを止め、仕度を完了させた私の腕を後ろ手で縛ると、ハンスは私を引き寄せた。
「では…Ms,シノハラ……、私が、金庫室へとエスコートしよう…」
ついにその時が来たのね。私が、ハンス…貴方に利用される番。
貴方が私に近づいた理由………。そうよね、私が高木社長の姪でなければ、貴方は私になど近づくはずもなかった。
住む世界の違う二人。あまりに違いすぎる。
エレベーターに乗り込み、向かった先は金庫室。私は、一度も足を踏み入れたことはない。
高木社長の姪といえど、私は一般社員と同じ扱いだった。だから……驚いてしまう。金庫を開けるパスワードに、私が関わっているなんて。
叔父様…………。
酷く大きな金属音が聞こえる。金庫室を無理やりこじ開けようとしているのだろう。無意味なのに。
ハンスは私には、拳銃を突きつけなかった。そんなことをしなくても、私は逃げないことを知っているからだろう。そう、逃げるつもりはない。今は…もう……。
「メイ、君にはこれの意味が解るか?」
ハンスに連れられ、テオ、とかいう人が座っていたパソコンの前に来た。ハンスが言ってる「これ」って……日本語じゃない!
そうか…、ハンス達には読めないのね。だから私を、ここへ呼んだのね。
「ここだけ、日本語でロックがかかってやがるんだ……。いくら俺だって、こんなの解る訳ねーや」
テオがインカムを放り投げながらぼやいた。ハンスが言う。
「IQ170の秀才もお手上げだな」
「ちぇっ!」
テオはそうぼやくと、席を立った。
「後はこのカワイ子ちゃんに魔法を使ってもらおうぜ……俺は下を見てくる。どうやら裸足のならず者が暴れまわっているらしいからな…」
「頼む」
そう言うとテオは部屋を出て行った。金庫室には……ハンスと私の二人だけになってしまった。
なんだか……なんだかとても緊張しちゃう。パスワードなんて……私、叔父様から聞いてないのに。
助けてとうさま―――。
*****
「さぁ、メイ……座るといい」
優しげな声でそんなことを言うハンス。私は、先ほどまでテオが座っていた椅子に座らせられてしまう。
どうしよう。パスワードが解らなかったら、私……殺されるのよね。
いや、解ったとしても殺されるのかしら……。
緊張から、震えだした私を見たハンスは……私の両肩に手を置いてきた。
温かいその手。何度も何度も……私の肩を撫でる。あ……どうしよう……気持ちいいか、も……。
「リラックスだ…リラックス……」
「…………」
今、声を出したらやばいかも。息が上がってくる。私……どうしちゃったの?
リラックスなんて無理!ハンスのこと……おかしなくらい、意識しちゃってる。何故…どうして…?
「震えているね……私が、怖いのかな…?」
「あ……違う…わ……」
「じゃあ……どうして?」
そんなに甘く囁かないで欲しい。考えられなくなるから。
ハンスの手がシャツの中に入ってくる。
「ひゃ……あぁんっ……いやぁ…ッ」
堪え切れず、上げてしまった喘ぎ声に…ハンスの声が重なる。
「感じやすいね…君は…。最高だよ、メイ…。君は完璧だ……」
「ああっ」
ブラの中に手を入れられた。なんで……こんな場所で…そんな…!
「ああっ………だめぇ…」
嘘よ…もっとシて……もっと愛して……。
「メイ…私の…メイ……ッ」
貴方のものよ……私は今……貴方のもの……。
「あ…んっ……ハンス……ッ」
切なく、私はねだる。言葉に出来ない気持ちで。
するとハンスは解ってくれた。彼の唇が私のうなじを辿り……そうして、私の唇を甘く奪ってきたから。
「ん……ふ…ぅん…ッ」
「メイ…っ」
チカチカと点滅するカーソルが、目の端に映る。パスワードを…入れなくちゃ……。
そう思いながらも、私は……抑えられない衝動のまま、ハンスのキスに応えていた―――。
お互いの息遣いと、パソコンの起動音しか聞こえない…ああ、私は一体何をしているのだろう。
もうすぐ殺されるかもしれない。この人に…ハンスに殺されるかもしれないのに、その相手にキスされて、うっとりとしてしまっている。
ゆっくりと、唇が離れた。
「震えが……止まったようだ」
ハンスに言われて初めて気が付いた。自分の身体の震えが止まったことに。
私は彼のキスに酔い、ぼんやりとしているのに……ハンスは違っている。彼はクールなまま。そうよね、私は人質だもの。彼が私と同じ気持ちだなんてことは有り得ないことだわ。必要性があったから、キスをした。ただ、それだけ……。
「どうした?」
「あ……そうね……パスワードを解くわ」
「ああ…お願いしよう」
「…………」
ハンスは私の後ろに立った。その手は、椅子の背に置かれている。
ハンスに見張られながら、私の心は波打っていた。荒れ狂う海のように……。私の心は、まだ、さっきのキスに乱されたままだった。
しっかりしないと。私は深呼吸をすると、PCの画面を見つめた―――。
『その星は、極限、死、再生を意味する……』
「なんて書いてあるんだ?我々には、解読できなくてね……ヨウコ、君なら、その意味がわかるだろう?」
私が読み上げた日本語は、ハンスには勿論理解出来ないのだろう。彼はそう聞いてきた。
けど……だけどこれって……。
『とうさま……とうさまだわ……』
「?」
ハンスが眉根を寄せてくる。私の声は震えていただろう。だって…。
「父が昔教えてくれたの…。私の名前の由来よ」
「君の……名前?」
「そう、私の名の由来は……冥王星からきているの。まだ小さい頃、夜空を見上げながら…父が教えてくれたわ……」
まだ小さい頃、夏の夜、空を見上げながらとうさまが言った言葉。私はその言葉を思い出していた。
*****
『メイ、君の名前はね、宇宙の星からもらったんだよ』
『うちゅうの…ほし?』
『そうだ。極限、再生と死を意味する惑星……冥王星から、ね』
『めいおうせい……』
『母さんがね、ロマンチックな人だったから…君の名前は、星から貰おうって、そう決めていたんだ』
『わたし…お星さまなの?』
『ふふっ…そうだよメイ…私の可愛いお星さまだ』
そう言ってぎゅっと抱きしめてくれた。ああ、とうさま………。
*****
「何故、泣く?」
ハンスの言葉に、私はハッと我に返る。頬から流れるものは、涙だった。私は涙を拭うと言った。
「な、なんでもないの…」
「なんでもない訳がないだろう。メイ……」
ハンスはそう言うと、なんと、私を抱きしめてきた。そおっと。まるで労わるように。
「ハンス…」
「静かに……」
ハンスは何も言わなかった。ただじっと黙って、私を抱きしめてくれた。彼の心音を聞いていると、何故か……悲しい気持ちが薄れてくるのが解った。
どうしてなの?
彼はテロリストだ。私を襲った人で……私の叔父を殺した人。
今だって……私をここに連れてきたのは、金庫の金が目当てで、私からパスワードを聞き出そうとしているだけ。
ああ、それなのに。
私は、彼に安らぎを感じてしまっている。
そんなこと、ほかの誰とも経験の無いことだった。
私を急かすことだってできるはずなのに、ハンスはしようとしない。それが、彼の戦略なのかもしれないのに。
とうさま、どうしたらいいの?私……このままじゃ……戻れなくなってしまう。
彼を知る前の自分に――――。
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