夜の闇に溶けるのはたやすいことだ。ましてや私のような仕事をする者にとっては。
私は、夜景を眺めていた。この街は、眠らないらしい…。
だが、どんなに明かりを灯しても、夜の闇は消えはしない。光の温かさを知る者は、闇の心地良さを知らない。
闇のその腕に抱かれる時、甘美な陶酔が待っている。闇の心地良さを知れば、誰もが溶けたくなる。そう、たとえ光の中にいる者であっても……。
私は思考を中断させた。今はそんなことを考えている場合ではなかった。というのは今、すぐに対応しなくてはならないことが出来たのだ。私はワインのグラスを置くと、テーブルに置いてある箱を見つめた。
それは赤いラッピングで、リボンが掛かっている。
白いメッセージカードには黒いインクで一言、以下のように書かれてあった。
『Mr,フレミングへ 私の気持ちです』
美しい文字は酷く華奢で、女が書いたと思われる筆跡だった。今朝、私のマンションのドアの前に置いてあったのだ。
私はこの街に来てまだ日が浅い。しかも、職業上人付き合いはしない。
それなのに何故、このような贈り物が……?しかも、名前まで書いてある。勿論、偽名だが。その名前もごく少数の人にしか知らせていないのだ。この街で、“フレミング”として生活するために必要な人にしか。
これは――罠だ。私は直観でそう思った。というかどう考えても怪しすぎる。
細心の注意を払い蓋を開けると……そこには高級そうなチョコがずらりと並んでいた。
ますますもって怪しい。私は確信した。これはすぐに組織へと送って調べなくてはならない。
組織からの分析結果は想像していた通りだった。チョコの中には致死量の毒薬が入っていたのだ。送り主は誰だ?配達されたものではないはずだ。書類を捲っていく私は、目を見開いた。何故なら、採取された指紋の名前は、私が知っている人物のものであったからだ。
Ms,ヨウコ・シノハラ――私と同じマンションに住んでいる。しかも直ぐ下の階に。何度か、エレベーターで顔をあわせたこともある。瞳の大きなアジア人だ。
美しい娘だが――あの娘が犯人?虫も殺さないような顔をして、スパイだったのか!
裏をとらねばならない。
それからの私は素早く行動した。まず、勤め先を調べ上げる。スパイを上手く隠しているようだな。法律事務所勤務とは…誰もこの娘がスパイとは思うまい。
生活パターンを探るため尾行を開始する。この女が良く通っているマーケットや、勤め先での勤務態度、同僚との交友関係……。
女は真面目に働いていた。毎週土日以外は朝9時から夜7時まで、きちんと秘書業務をこなしている。我儘なクライアントの対応、そして気難しい上司への対応……その仕事ぶりは称賛に値するものだった。
疲れて帰っても、自宅に帰る前に寄る場所は近くのマーケットか本屋だけ。男の影は全くといって良いほどない。身持ちが硬いらしいな。私は資料を読んでみた。それによると組織の調べでは、今までに付き合った男は1人しかいないらしい。だがスパイの資料だ、真相は解らない。こんなにも美しい娘だ、経験豊富と見て良いだろう。
私は逸れていく考えを修正した。そこは今考えるべきことではない。
1か月以上観察したが、なかなか尻尾を出さない。私生活をもっと探らねば。私は闇に乗じて女の部屋を探った。
香水は……シャネルの5番か。酷く情熱的だな。身持ちの堅い娘が付ける香水ではあるまいに。
服の趣味はシンプルだ。クローゼットには、似たようなスーツが並んでいた。仕事柄目立ってはいけないからだろう。確かに彼女は、職場では周囲の雰囲気に溶け込んでいる。
控え目だが、有能。その有能さは上手に隠されていたが。
それがスパイの常套手段なのだがな。
引き出しや戸棚を探るが、スパイの証拠は出なかった。やけにセクシーなランジェリーが出てきたのは驚いた。こんなモノが隠されているのか……あの、スーツの中に……。
私はまたもや逸れていく意識をなんとか戻した。そろそろ女が帰ってくる。部屋を出なくては。
何度も部屋へと侵入し調べたが、どうしてもスパイの証拠が掴めない。こうなっては最後の手段を取らざるを得ないのだ。私は、上へ報告し、リスクはあるが最後の手段を取ることにした。
そう、その手段とは、私の専門―――拉致・監禁、そして尋問。
そして決行の日。
女の部屋にこっそりと隠れていると、いつもの時間に女が帰ってきた。まったく警戒していない。女はなにやら、私には解読できない言語を呟き、鍵を置き、バッグをテーブルに置いた。チャンスは今だ。私は素早く女を突き飛ばした――ソファーへと。
顔を見られてはならない。拉致をする時、それは重要だ。心理的に強い恐怖を与えることが出来る。
私は予定通り女を黙らせ、目隠しをしようとした。が女は、突然大声を出そうとした。まずい。この時間であれば隣に住む老夫婦はまだ起きているだろう。気づかれたら厄介だ。
私は素早く女の細い首筋に薬を打ち込む。とたんに、女はぐったりとし意識を失った。素早く脈をとる。脈はしっかりと触れていた。
本当は薬など使いたくはなかったが……叫び声を上げたので仕方なかった。いつもならどんな感情も入り込まないのに、この時、私の胸は痛んだ。
何故だろうか。
この薬は、使用量を誤れば死ぬこともある薬だから…だからか?心配なのか?この、私が?この、女のことを――?
私は、意識を失った女を抱き上げた。いつもなら適当に運ぶのに、何故かこの時は優しく、労わるように運んでしまった。この娘があまりにも無害に見えるからだ……。私は自分にそう言い聞かせた――。
車に載せ、監禁場所へと向かいながら私は考えた。この娘をどうやって堕とすか―――方法を考えねばなるまい。
(H23,12,05)
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