※流血表現あり。
「どうしてこんな事を…?家に帰して!」
私の言葉に、男は首を振ってきた。
「それはできない」
「一体何のためにこんなことするの?私を攫って……何が目的?」
勇気を出して言ったその言葉に、男は返事もせず私を見つめてきた。じいっと。
私はとたんにどきまぎしてしまう。だって…だって……格好良いんだもん。実はこの人、前から気になってた人だったんだよね…。
こんな変なことをする人だって解ってたら、ときめいたりしなかったのに。
っていうか今はそんなこと考えている場合じゃなかったんだった!!
「君には解っているはずだ」
男の声はとても低くて……私が想像していた通りの声だった。とても甘くて、それはまるで濃厚なチョコレートのよう。
「解っている筈…って言われても」
正直、よく解らないし。そんなこと急に言われても戸惑ってしまう。だって貴方とはほんの一瞬顔を合わせただけ、だもの。私は言った。
「貴方とは話したこともないのに――」
すると男は私に近づいてきた。音を立てないその歩き方は豹を思わせた。彼が今黒いタートルネックのシャツと黒いズボンを穿いているから、余計そう思えるのかもしれない。
そう、その姿はまるで黒豹。ヘーゼル色の瞳からは何も伺えない。彼が今、何を考え、どうしようと思っているか、なんて。
すると彼は私の足元に何かを放ってきた。赤い形の、リボンが掛かった、ちょっと洒落たその箱――それって――。
「それに見覚えがあるか?」
ど、どうしよう。恥ずかしい……き、消えちゃいたい!!
どうして解ったの?解らないようにしたつもりなのに!!
私は自分の顔が赤くなるのが解った。だって普通は恥ずかしいでしょ?そして頭の中はパニック。
答えられないでいたら、男は溜息を付いてきた。
「見覚えがないなんて言わないことだ。君が贈り主だってことは解っている―――Ms,ヨウコ・シノハラ」
どうして私の名前を知ってるの?!っていうかどうして私が贈ったことがばれてるの!!
「どうして………」
茫然とする私に、彼は肩を竦めてきた。そうして言った。
「簡単なことだ。指紋を調べた」
……………は?
い、今の聞き間違い?指紋を調べたって……なんで?なんのために?
思わずぽかーんとした顔をしてしまった私に、男は突っ込むこともせず、笑いもせず、しかも睨みつけてきた。何で?睨まれることなんて一切していない筈なのに。
状況がちっとも理解できない私に、更に彼は衝撃の台詞を言ってきたのだった。
「そんな顔をしたって無駄だ。お前の魂胆は解っている……お前、どこの組織の者だ?」
「そ、組織……組織って…何のこと?」
意味わかんないよ。それに手が痛い。さっきからずうっと痛かったけど、後ろ手に縛られているのだ。この状況はどう考えても異常だった。
私の答えに、彼は不服だったようだった。何故なら彼は無言で、腰から何かを取り出したから――ってそれ…それって……ナイフ?
銀色に光るその刃物は、酷く無機質に思えた。わ、私刺されるの?この変態な男に。
「恍けても無意味だ。お前が何らかの組織にいるということくらい解らないと思ったか…?」
ナイフを弄ぶその手の動きは洗練されていて、扱いなれているように思えた。私は身体が震えてきた。冗談じゃない。プレゼントを贈ったくらいでこんな目に遭うなんて、悪い冗談だよね?そうだよね?
「そ、組織っていわれても……わ、私は“ハーディ法律事務所”って場所で働いてますけど…」
「恍けても無意味だと言ったろう。これは脅しではない。このナイフの使い道は…果物を切るためではないんだぞ……ヨウコ…」
「恍けてなんかいません!わ、私はごく普通のワーキングガールで……ッ…きゃっ!!」
男は無言で私にナイフを突きつけてきた。どうして……どうしてこんなことに……?
「ヨウコ・シノハラ……両親は日本人。この国には10年前から移住……大学を卒業後に秘書養成コースに進む。その後はハーディ法律事務所に就職」
淡々と語る男のその声に、私の震えは止まらない。どうしてそんなこと知ってるの!
「毎週土日以外は朝9時から夜7時まで仕事。使っているマーケットはK、sマート…好きな香水はシャネル…そして好きな音楽はクラッシック。特に最近のお気に入りはラフマニノフ」
ナイフが動く。切っ先がブラウスをたどるように……。
「バスにゆっくり浸かるのが日課。よく使うバブルバスの香りはブルガリアンローズ……そして今までに付き合った男の数は1名……最近、同僚の男に言い寄られて困っている……」
「な…なんでそんなことまで…ッ」
「ではもう一度聞こう。Ms,シノハラ、君はどこの組織の者だ?」
男の視線が私を睨みつけるように見ている。すぐ近くに男がいて、しかも、ナイフの先端は私のブラウスの生地に触れている。どこの組織の者か答えないと私を傷つけるつもりかもしれない。ああ…どうしよう!!
「わ…私は………」
「君は…?」
ああ……誰か助けて………。
「何を言っているのか解らないわ!私は一般市民よ――――きゃあっ!!」
ナイフが動いた。私は両目をギュッとつぶって痛みに備えた。
プツリ。
あれ…?痛くない。なんで……?って思って目を開けたら、男が切ったのは私の身体じゃなかった。そう、奴が切ったのはブラウスのボタン。1番目は外しているから、2番目のボタンを切ったのだ。ボタンがはじけて床に飛んだ。
「嘘はいけないよ?Ms,シノハラ……チャンスは多くない……」
「だって本当に解らない―――あぁっ!」
プツリ。
「君が嘘を付けば付くほど……危険は増す」
「だ、だってそんなこと言ったって組織って言われても……あ…職場でクラブの会員にさせられたけど一度も行ったことない―――っつぅ〜!」
プツリ。
「ああ…ほら、君がくだらない嘘を付くから、傷つけてしまったじゃないか……こんなに綺麗な肌なのに…」
もったいないね…。彼はそう呟くと、ああ……はだけたブラウスから覗いている一筋の血に、吸い付いたのだった。
「やぁっ!」
ちゅうっ、っと吸い付いた男は、顔を上げると私を見つめた。唇の端には血が付いている。
なんてことなの。こんなことをする人だなんてちっとも思っていなかった。彼を初めて見た時は、こんな風には思わなかった。
怖い……誰か助けて………。
「こんなこと止めて…ッ……っく……家に帰して……Mr,フレミング……」
恐怖のあまり涙が出てきた。絶対に泣きたくはなかったけど、涙が止まらない。
彼は私を見つめると言った。淡々と。
「家になんて帰すつもりはない。君が本当のことを言うまでは………」
「誰か助けて…ッ!」
私は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「叫んだって誰も来ないさ。こんな場所じゃ、叫ぶだけ無駄だ…」
彼の声は冷静だった。動揺しているそぶりは欠片もみられない。私は涙を堪えながら彼に言った。
「何が望みなの…」
「真実。ではもう一度だ。君はどこの組織の者だ―――?」
ああ……そんな……。
(H23,12,04)
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