その男はにっこりと微笑んだ。思わず美しいと思ってしまった自分を嫌悪する。
こんな、人でなしが美しいなんて。
「久しぶりだね、名前チャン」
「お久しぶりですね、白蘭様。とても、お会いしたくありませんでした」
睨むように眼前の男を見た。
私の後ろにある大きな窓からは、やわらかな日差しが差し込んでいて、その光が彼の白を美しく縁取っている。
彼は目を細めた。
「酷いな。ただ君に会いたくて、こんな田舎の山奥まで来たっていうのに」
「ご足労頂かなくて結構でしたのに」
出来る限り憎悪を込めて言い放つと、白蘭は微塵も気にした様子もなく微笑む。
「そうそう、フェイクは処分したよ」
「!」
フェイクは、処分した。
まるでなんでもないことのように告げられた言葉に、私は途端に青ざめる。どういう意味なの。いや、わかっているのだ。また、大きなものを失った。
海に面した小さな村に、同じく小さく、コテージのような別荘を持っていた。
私に、私たちにのこされた逃げ場は、その海辺のコテージと、山奥のこの古城のような別荘のみであった。
行方の知れない両親に代わって、執事長が指揮をとった。私は無力だった。
執事長は私と女中を一人、この別荘に隠した。そして彼自身は海辺のコテージへ身を潜めたのだ。
私を庇いおとりになるために、私の身代わりの少女を連れて。
私によく似た背格好のその少女は、つい最近入ったばかりのメイドだった。
彼女はまったく邪気も悲哀もなく私に真摯な表情を向けて、どうかご無事で、と言った。私は彼女に、何も言えなかった。自分のために命が消える可能性に戦慄した。
それが最後の悪足掻きでしかないことは明白だった。現にいま、私は窮地に追いやられている。
「…フフ。名前チャン、考え事?」
気付けば2メートル以上あった距離は縮んでいた。白蘭を見上げても、焦点を合わせられない。ひどく眩暈がする。
「何考えてるの?僕のことだと嬉しいな」
「…1階に、女性が一人いたでしょう。彼女は…」
「安心して、彼女は無事だよ。あれまで処分しちゃったら、君を説得できないからね」
きつく唇をかみしめる。
彼女の無事が唯一の救いだった。
「この隠れ家も取り押さえた。君に手を差し伸べる者は誰もいない」
「…何故、ですか」
「何故?何が?」
思いがけず弱々しく響いた私の問いかけに、そう返した彼の声色は実に不思議そうで、心からわからない、といったふうだった。
わからない?ふざけないでほしい。私は俯いて、拳を握りしめる。
「何が欲しいのですか?何が望みで、こんなこと…」
こんな、こと。
協力するふりをして両親の会社を潰し、それだけでなく暴力や社会的圧力でもって私たちを、否、私を追いつめた。警察はあの男の味方だった。
もう一度彼を見上げれば、その薄い唇が弧を描いた。
ぞくりと肌が粟立つ。
彼の右手が伸びてくる。危険を感じた体は逃げようとするものの、恐怖で動けない。
そうこうしているうちに彼の手が私の頬を撫でた。つめたい手のひら。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
「…覚えておりません」
「イタリアの社交パーティーだったよ。そこで僕は、男に絡まれている君を助けてあげた」
「……」
ほんとうは、悔しいほど鮮明に覚えていた。イタリア社交界の花形が集まるような、煌びやかなパーティーだった。
「君はたどたどしいイタリア語で、お礼を言ったんだ。僕に眩しいほどの笑顔を向けて。馬鹿みたいだった」
くすくすと笑う彼に、私は怒りと悲しみがこみ上げてくるのを感じる。
…悲しみ?
「私はそんなことが聞きたい訳では、」
「……本当に馬鹿みたいだったよ」
呟いた彼は、頬を撫でていた指先で、私の唇をなぞる。
その途端に、どうしてだろう、涙がぼろぼろと零れた。
どうしてだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「どうして泣くの?」
一度溢れ出したら止まらない。私はまったくの無防備で白蘭を見上げて泣いた。
「…信じて…おりましたのに」
それは紛れもない本音だった。信じていた。
傾きかけた両親の会社を白蘭が救ってくれると聞いたときも。両親から、いずれ白蘭という男と結婚することになるだろうと言われたときも。
でも。今それを言ったって何になるというのだろう。
「騙される方が悪いんだよ、名前チャン」
目の前の男はよりいっそう笑みを深くして、親指で私の涙を拭った。
涙で視界がぼやける。私にはもう何もない。なにもかもこの男に奪われた。
怒りも悲しみもないまぜになった絶望が、私から立っている気力すら奪おうとする。
崩れ落ちる私を、白蘭が支えた。質問に答えてあげようか。優しげな声が耳を撫でる。そうして囁かれる言葉に、私は耳を塞ぐ。
「僕が欲しいのは、君だ」
かみあわなかった歯車
(一番許せないのは、一瞬でも恋をした自分)
ゆず様に捧げます。
(091010)
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