名前。
雲雀が名前を呼べば、名前はびくりと肩を揺らして振り返った。
彼が贈った薄い藤色の着物がよく似合っている。
「雲雀さん…おかえりなさい」
控えめな微笑とともに送られた言葉、雲雀はその微笑のぎこちないことに少し眉を潜め、ただいまも言わず名前に近付く。
案の定、彼女は少し怯えたような瞳の色を見せる。
それにも構わずに彼は自分を見上げる名前の目の前まで歩いてゆき、彼女の頬をそっと撫でた。ぴくりと名前はまた、肩を震わす。
ここで雲雀は確信した。名前は自分に怯えている。それでも彼女は抵抗も見せずされるがままだ。雲雀は彼女の唇を指先で撫でた。
数日前までは、こんな怯えは見せなかった。
ごく自然な動作で雲雀は、名前に口付けようとする。
けれど彼女の手がどんどんと強張るのを視界の端でとらえて、動きを止めた。唇が触れる、ぎりぎりの距離。
「……もう寝てきなよ。こんな時間だ」
言って、雲雀は名前から離れた。強張っていた彼女の体から力が抜ける。そのことに、雲雀は少しだけ苛つく。
「それと。僕の帰りが遅い時は、先に寝ててもいいから」
雲雀の言葉に名前は困惑の表情を浮かべた。今まで名前はいつだって、雲雀の帰りを待っていたのだ。まるでよくできた妻のように。
「……ごめんなさい、私……」
そして彼女の呟きに、今度は雲雀が、顔には出さないものの困惑する番だった。
どうして謝るのだろうか。それに。
何故この少女はこんな表情をするのだろう。雲雀に見放されるのを恐れるような。雲雀のことが、怖いのに。
今すぐ咬み付きたい、そんな嗜虐的な衝動をねじ伏せて、彼は名前の額にごく軽いキスを落とす。それから、彼女を寝室へ行くように促した。
「おやすみ、名前」
「…おやすみなさい」
どこか頼りない音と共に襖を閉める。
ほの暗い部屋。
名前は、かたかたと小刻みに震える自身を抱きしめる。
……こわい。
どうして、彼が怖いのだろう?
名前は自問する。
自分は彼に感謝こそすれ、恐怖など抱くはずはないのだ。だって彼は命の恩人なのだから。
一ヶ月ほど前、名前がいつも利用する或る駅にて、暴動が起こった。
その場に居合わせた名前は不運にも巻き込まれてしまったのだ。
酷い惨劇だったが、よく思い出せない。そもそも名前も思い出したいとは思わなかった。
強いショックにより記憶が抜け落ちるというのは、よくあることらしい。
暴動の首謀者はまだ捕まっていない。
捕まるまでのあいだ、被害者たちは皆、警察やその関係者などの保護下に置かれることとなった。
それで名前は、雲雀の保護下にある。
名前が与えられた情報はその程度のものだった。
一見不自由極まりない、軟禁のような生活だが、名前はそれでもよかった。
彼女は雲雀に恋を、していたのだ。
雲雀と名前は、寝食を共にするようになった今でも、恋人関係ではなかった。
けれど彼は名前にキスをする。恋人同士、なのだろうか。名前にはわからない。それでも幸せだった。恋が、叶ったのだ。
……恋?
恋する相手のことが、どうして怖いのだろう。昨日はこんなことなかった。
数日前までは。自分は窒息しそうなほど幸せだった。数日前、までは。
ずきりと頭が痛む。
疲れているのかもしれない。
そうだ。疲れているだけだ。
言い聞かせながら名前は、ふらふらと縁側に近付く。
見上げた空には、消えそうに鋭い新月が輝いていた。
「哲」
雲雀の声に、哲……草壁はすっと主の前へ歩み出る。
「何でしょう、恭さん」
「彼女に、薬を」
雲雀の指示に、草壁は心苦しそうな顔をした。薬。それは雲雀の命令で彼女に投与され続けていたものだった。
「しかし…名前さんは落ち着いておられますし、精神安定剤の過剰投与は依存にも…」
あくまで主に従いたい彼は言葉尻を濁す。けれど実際、精神安定剤の過剰投与は体によくないのだ。
雲雀は自分の部下に横目で一瞥をくれた。
「きみは、本当にあの薬が精神安定剤だと思ってるの?」
草壁が、目を見開く。雲雀の言った意味を理解しようとする。
めまぐるしい彼の思考に、雲雀のひややかな声が響く。
哲。
「……名前はあの日、見てしまったんだ。惨劇の中心にいる男を」
草壁ははっと息を呑んだ。雲雀を、じっと見る。くらくよどんだ瞳だった。
「恭さん……あの薬は、」
「世の中には、知らなくていいことが山ほどある」
まるで陶酔するように言って薄く微笑む雲雀の表情が妖艶すぎて、草壁は眩暈をおぼえる。
そして理解した。主の望むことを。主のために自分がすべきあらゆることを。
忠実な部下は、明日の朝きっと、彼女に薬を含ませる。
そうしてすべては嘘で塗りつぶされ、彼女は真実を知らぬまま、幸福の淵に沈むのだ。ただ自分に注がれる愛に、溺れて。
うしなわれたもの
ひより様に捧げます。
(091013)
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